恋愛論理

 第28話 (3)
「……黙んないで下さいっ」
ぽん、と拳で胸を叩かれて、はっとして友雅は我に返った。
「あ…いや、何と言えばいいかと思って、ついぼんやりしてしまって…」
今、あかねが言った言葉の意味を、理解するのに随分と時間が掛かってしまった。
嬉しいときに流す涙、とは。この頬を濡らしているのは、彼女の中に何らかの喜びがあるということで、間違いないのか?
その喜びとは……。

「私だって…ずっと…ずっと悩んでたんですからっ」
こみ上げる涙を隠そうともせず、そしてそれを止めようともせずに、あかねは友雅の腕にしがみつくように声を上げる。
「私が思ったことなんか…いっつもするっと上を通り抜けて行って…かわされちゃってばっかりで…。そのたびに全然考え方が違うんだって…そう思ったら気分が重くなって……」
人生経験が違うのだと分かってはいるけれど、立て続けにそれらが繰りかえされると、否応でも認めざるを得なくなる。
彼と自分との間に、あきらかな差があるという現実に。
日常の事に関しても、役目に関しても…そして、恋に対しての考え方にしても。

「わ、私の考えてる『恋』と、友雅さんの考えてる『恋』は全然違うものなんだって…。そう思ったら、友雅さんがもの凄く遠く感じて……」
『恋に恋している』とはよく言ったが、それを彼の存在は容赦なく見せつける。
プラスの意識しか恋に持っていなかった自分に、マイナスの意識の存在を教えたのは、彼だ。
ドラマや小説や映画では、そんな恋愛事情の混乱劇をたくさん見てきたけれど、現実にはまだ夢を見ているだけだった自分に、恋はそんな甘いものじゃないと言ったのは、彼だった。
それは、きっと彼が本当の恋を知っているからだ、と思っていた。
だから、そう言い切れるのだと。

恋なんてろくに経験もなくて、未だに恋に憧れだけを抱いている自分とは、何もかも違う。
男と女の、恋を"楽しむ"という事を、彼は知っている。経験を積み重ねた大人だけが分かる、"恋遊戯"。
それはどうやってみても、あかねには知ることの出来ないものだ。
彼には、自分が言う事は全て、子ども騙しに聞こえてしまうんじゃないか。
笑い話にしかならない、お伽噺の夢物語のような。現実とはかけ離れた、耳にも残らない程度の……。

「私なんかっ…私の考える事なんか子どもっぽい事ばっかりで…だから面白がってからかわれてるんだって…」
「神子殿、待ちなさい」
友雅はあかねの肩を掴んで姿勢を正せようとしたが、彼女は首を左右に振って彼の声を振り払った。
「考え方も違うし、水の中に映った影を見たって全然違うし……。」
背の高さも、体つきも、男と女という外見の違いだけじゃなくて、そこにある空気の存在が最初から違っている。
完全に違う世界に生きていることを、彼の隣にいると実感させられる。
明らかな違和感。どうやっても、相容れない互いの存在。彼の隣にいて似合うのは、こんな子どもの自分じゃない。

「……全然様にならない…。隣にいるのに……全然私なんか…友雅さんに似合わない……っ」
さっきこぼれた悔し涙に加えて、情けなくて涙が出てくる。
好きにならなければ、こんな涙を流す必要もなかったのに、恋はいつ訪れるか検討がつかない。そして、誰に惹かれるのかも予測がつかない。
身分不相応でも、年齢も立場も違う人であっても、気付いたら最後。
胸の熱さも切なさもすべて、抱え込んでしまう。


「話を聞きなさい」
うつむいて顔を覆いながら、涙をこぼし続けるあかねの肩を支えて、静かに宥める友雅の声がした。
そして、穏やかつつしっかりとした声で、彼女の耳元に唇を寄せる。
「さっき、私が言ったことを忘れたのかい?」
あかねは目をこすりながら、呼吸を乱して少しだけ顔を上げた。
友雅の顔を見上げるまでの、気力はとてもなかったけれど。
そんな彼女の震え続けている背中を、友雅は優しくさすった。
「忘れてしまったのなら、いくらでも…何回でも言ってあげるよ。ちゃんとしっかり聞きなさい。」

二度と忘れられないくらい、五月蠅いと言われても、しつこいと思われても良い。あかねの心に刻んで、消えなくなるまで繰り返しても良い。
「私は、君のことが好きだ。さっきも、そう言った。分かるかい?」
こちらを向く力のないあかねの顔を、そっと覗き込むようにしながら、優しい声が彼女一人だけに囁かれる。
「私が好きなのは、神子殿、君だ。他の誰でもない、私が初めて恋したのは、君なんだと言ったんだよ?。」
胸に、手を当てる。
この、心臓の速まる動きが彼女には伝わらないだろうか。
安らぎと暖かさと、そしてときめきと。それらすべて、彼女がそばにいなければ起こらない、特別な変化なのだと伝えたい。


「何にもないんですよ…?…私。綺麗な長い髪なんかないし…十二単なんて全然似合わないし…友雅さんがいつも見てる…綺麗な人たちが当たり前に持ってるもの…全然…何一つないんですよ…?」
比べても仕方がないと分かっているのい、いつもそんな風に考えてしまう。
同世代である柚芽でさえも、ここまで自分と違うのだ。育ちということ以上に、同じ女性だとは思えないくらい違いが歴然で…。
それもこれも、友雅の後ろに寄り添う女性の姿が、浮かんでは消えるから気にしないではいられない。
……紫の上の苦悩は、こんな感じだったんだろうか、とあかねは考えてしまう。

「神子殿?黒くて艶やかな長い髪が必要というわけじゃないよ。歌を読めれば良いというわけでもないし。袿が似合う、似合わない、着ている、着ていないなんて…そんなこと全然関係ないんだよ?。」
友雅はそう言って慰めてくれるけれど、そういう女性こそが彼に似合いすぎるから……。
だから、比べては自己嫌悪に陥ってしまうんじゃないか…。


手のひらに伝わる肩の震えと、止まる気配のないあかねの涙を感じながら、彼はずっと考えていたことがある。
どうして、彼女は自分の輝きに気付かないのだろう。友雅には、それが不思議で仕方がなかった。
長い髪やきらびやかな衣に、何の意味がある?そんなものよりもずっと、目映いものが彼女にはあるというのに。
指先で、彼女の髪を梳いてみる。
そして友雅は一つずつ、あかねの中から光を放つものを探す。

「その風になびく軽やかな髪と、どんな宝玉よりも澄んで輝く瞳と、真っ直ぐ前を歩こうとする強さと……」
けなげさと、笑顔と、素直さと……思いつくものを挙げてみると、次々と浮かんできて取り留めがなくなった。
数多の女性たちよりも、ずっと美しいものを兼ね備えていることを気付かせてやりたいと思ったが…これではいつまで経っても終わらない。
「…言い出したらきりがないな。」
苦笑しながら、友雅はつぶやいた。
「…それこそ、関係ないかもしれないね。同じようなものを持っている人は、この世には何人もいるかもしれない。でも…それでは駄目なんだ。それが、君だから私は恋をしたんだろう。」

何かが優れていれば、それで良いというわけではないのだ。
華やかなものと清らかなものと、どちらが良いなんてものは比べられない。
人の好みは十人十色で変わるだろう。
そして、好みとは全く関係ないところで、心を捕らえるものが時に存在している。
理屈や一般論で片づけることの出来ないのが、恋。戸惑いながら、いつしか真実に辿り着く。
真実を知ったあと……残る想いはただ一つ。これまで迷い続けたことが、おかしくなるくらいに恋というものの簡潔さに驚くのだ。
遠回りをしたようで、それらは必要不可欠だった。
その時間の中で、順を追って全てがそぎ落とされていきながら、素顔の自分をその人の前にだけ現せるようになる。

……順を追って、か。やはりそれが、常に必要なのだな、と友雅は思った。
急ぎすぎては、良いことはない。それが今は身に染みて分かる。
まるで、あの小鉢の水に浮かんだ氷が、揺れながらゆっくりと水に溶けていくように……。


背中に腕を伸ばして、小さなあかねをそっと抱く。気付かれないように、その感触を残さないように、そっと静かに触れて。
壊れものを包むように、労りながら。
「自分をそんな風に、卑下するのは止めなさい。君は自分で思っているよりも、ずっと綺麗だと私は思うよ?そうでなければ、こんなにも一人の男を思い焦がれさせたり出来るわけがない。」
抱きしめて、彼女の耳に届くようにつぶやく。
自分に恋を教えてくれた、たった一人の……かけがえのない人に向けて。
どんなに自分が彼女に惹かれているか、どれほど彼女のせいで胸を締め付けられたか………言葉で出来る限り、囁き続けたい。


勿論、それを彼女が許してくれるなら。


***********

Megumi,Ka

suga