恋愛論理

 第28話 (1)
その時、確かに時間は止まっていた。
頬を撫でて行く風も、小鳥のさえずりや小さな水の音も何もかも、二人が感じることはなかった。
お互いに、相手から目を反らせずに、瞳の中にその姿を映し出す。
身動きも出来ずに、その人の存在だけを懸命に受け止めようとしていた。

--------今、彼は何て言った?

大きく見開いた瞳で、身動きもせずにあかねはこちらを見ていた。

「いきなりそんな事を言われても、信用出来ないかな…。まあ、仕方がない。君にそう思われても仕方がないことを、随分とやらかしてきたからね。話の中の公達を、とやかく言える立場でもないし。」
ふっ、と友雅は表情を崩して、目を伏せて苦笑いをした後、再び身を翻して庭に目線を向けた。

「何度もからかっては、機嫌を損ねさせたからねえ…。今更こんな事を言われても、君には既に嫌われてしまっているかもしれないな。」
あかねは、ちょうど年頃の娘だ。この時代ならば既に大人とも言える年令だが、彼女や天真、詩紋達を見ているうちに、彼らの世界とこちらの世界との世代感の違いが何となく分かって来た。
十六才…大人になりつつある多感な娘の頃だろう。一番他人の目が気にかかる頃で、背伸びしてみたい時もあるだろうから、子ども扱いされるのは一番嫌な事だったかもしれない。
生憎、それを何度繰り返してしまったことか。
「でも、そんな素直な反応を見ているのが楽しくてね。君には迷惑な事だったかもしれないけれど。」




「君は私達が生まれ、そして生きて来たこの世界とは違う場所に存在していたから、価値観も何もかもが違う。君がここに来て驚いたように、時として君の答えに私自身も驚かされる発見があった。そういうのを見ているとね、次はどんな答えをするだろう、と君の反応が楽しみになってきてしまってね。今まで持っていた固定観念が、君の一言で崩れて行き、そしてそれまで以上に広がりを見せる。それは…まるで新風が吹き込むかのようだったよ。」
小さい水たまりの縁に、一筋の水が流れ込んで来る。するとあっという間に水たまりは広がって、いつしか池のような広さになる。
広がった面積には、それまで以上の水を吸い込む事が出来る。常に流れ込む新しい水が、汚れた古い水をも浄化していく。
例えるなら、そんな感じだ。
以前から比べたら、視界が驚くほどに広がった気がする。

「いつのまにか君に影響を受けていた、そんな私の姿を、他人は不思議な目で見ていたらしいよ。」
八人の八葉がいるにも関わらず、当然のように土御門に通う毎日。
物忌みと急な内裏の用事さえなければ、毎朝一番に顔を出す事が日常化していた。
他人に深く関わるのは面倒だと敬遠していたはずなのに、彼女に付き合って恋渡しに奔走してしまったり。
そして……一人の女性に想いを奪われる。

考えもしなかったことが、次々と目の前に現れて来る。
「君がどう思っていたか分からないけれど、君のおかげで…私はこれまで以上に楽しいことを知る事が出来たよ。」
誰でも良いわけではない。彼女だったから。
出会ったのが、彼女であったから。
自分が八葉で、そして彼女が神子であったから。
---------この運命が、あったから。



友雅はそのまま話を続けているが、あれからあかねは一歩たりとも、身動きが出来ないでいる。
彼の声はしっかりと耳に入って来ているのに、身体が全く動いてくれない。
瞬きも、ろくに出来ない。
声も…出ない。
言いたい事はたくさんあるのに、頭の中は混乱していて倒れそうなのに…手も足も動かないから、それも出来ないでいる。

さっき、そよぐ風の中で聞いた声は、幻聴?
あれは…ただ自分の期待感が、幻想となって聞こえただけのこと?
現実?それとも夢の中?今、私は眠っているの?それとも起きているの?

"好きだ"って、言った?何を…好きだって?

ああ、身体も動かないし、思考回路もめちゃくちゃ。考える事と現実とがまとまってくれない。
身体は熱くて、心臓の動きも相変わらず早くて、心音が大きくなるばかり。
……黙って、彼の背中を見つめているだけ。それだけで、今はもう精一杯。



友雅がこれまでずっと抱いていた一言のせいで、あかねがどんなパニックになっているか。
彼自身もまた、そんなことまで頭が回らなくなっていた。
想いを伝えたあと、それが偽りではないことをどう示せば良いのか、それで頭がいっぱいで。
だが、ここまで口にする事が出来た以上、それを伝えきれなくては意味がない。

「君はいつか、ここを離れて…元の世界に戻っていくだろう。そうしたら、全ては以前と同じように戻るだけだ。だが…一度知ってしまったものは、そう簡単に消えやしない。梅を見れば、君と出会ったときのことを、桜を見れば、君と京の町を歩いたことを思い出す。毎年のように、何て事のない日常の中に、君と過ごした記憶をめぐらせる。そして、そのたびに君がそばにいないことに気付くのだ。」

あの日、新しい袿の重ねを選んだ時、改めてそれを実感したのだ。
あかねはいずれ、この世界から姿を消してしまうのだと。
秋や冬の重ねを選んでも、それに袖を通す頃には彼女はいない。そして、彼女に一番よく似合うであろう桜色の重ねも、来年の春…彼女はそこにいない。
あまりにも短い、限られた日々。恋をするにしても、その先の楽しみさえ見出す時間はない。
とたんに、恋の幸せよりも切なさと辛さが大きくなってしまう。

「それが運命で、変えられないものであるのなら仕方がない。私一人では、それを変えられる力もないだろう。」
例えこの身体に白虎の力が与えられているからと言って、それは神子がいてこその存在。彼女の意志が第一で、八葉の意志は二の次にされてしまうに違いない。
ましてやこんな、神子を護るということ以前の、自分の中にある感情に基づいた事に対して、時空をも操るなんてことは不可能だ。
諦めざるを得ない運命は、間違いなく目の前にある。

「このまま黙って、重いものを背負って生きるのは…そう先も長くない私には苦痛かな、って気もあったんだけれど。」
笑いながら友雅はそう言ったが、その表情の中には寂しげな面持ちが少なからず見て取れた。
「それよりも……君がいなくなってから、二度と逢えなくなってから、"言っておけば良かった"なんて…そんな気持ちを抱いて人生を終えたくはなかったんだよ。」

何度か、彼女がいなくなったあとの世界を、思い描いてみた。
自分はこれまで通りに左近衛府へと出向いて、時に帝の御前に上がり…以前と同じ生活が戻ってくるだろう。
だが、その中で幾人の女性に声を掛けられたとしても、その後ろにあかねの姿を思い出すに違いない。
どんなに姿形が違っても、違えば違うほどにあかねの記憶がそれらに重なって、鮮明になるはずだ。
あかねの幻影を追いながらの、残された人生は楽しいものだろうか。
きっと、そんなはずはない。

「気持ちを受け取ってもらおうなんて、贅沢は言わないよ。」
友雅は、付け足した。
「私が君の、運命の相手になれるなんて思っていないしね。ふらついた半端者の男なんて、素直で清らかな君には相応しくない。」
これから花開いていく、紅で染めたような蕾の彼女にとって、猥雑極まりない人生を積み重ねた男など相手に出来ないだろう。
柚芽にしてもあかねにしても、信頼や尊敬に重みを感じる、そんな年頃の娘だ。
そう考えれば、自分はその正反対の位置にいる。言葉一つでも、信頼してもらえるようにと、苦労を重ねなくてはいけないほどに。

だが、そんな人間こそ、清らかなものに惹かれてしまうものかもしれない。
自分には手に入れることのできない、聖なる彼女の存在に。
恋というものに、幸せを観じることが出来ることを教えてくれたのは、紛れもなく彼女であったのだ。
「ただ、知ってもらいたかっただけなんだ。それが、決して嘘偽りではないということだけ、ね。初めての恋を教えてくれたのは、君だったんだってことをね。」


神子と共に京を護る八葉の一人として…なんて、最初はそんな面倒臭いことはこりごりだと思っていた。
なるようにしかならない未来なら、その場だけ楽しんで過ごせばいいのだと。
でも、いつしか今日よりも明日が楽しみに感じてきていた。
今日が楽しければ、明日はもっと楽しいかもしれない、そんな風に考えるようになってきた。

一日を終えて、そして次の日の朝に再び、その場所へ通う。そしてまた、彼女に出会う。
今日も、明日も、明後日も、そしてその先もずっと……同じように過ごせたらいいと思いながら毎日が流れゆく。
漂うような日々に、ほのかな楽しさと幸せに似たものを感じたとき、それが彼女のせいだと気付いた。
いつのまにか、心に降り注いだ恋の砂。ゆっくりとそれらは積み重なっていく。


「君が、好きだ。…君に逢えて、良かったと思うよ。」

もう一度、友雅はあかねに告げた。まっすぐ彼女の姿を捕らえたままで。
その、吸い込まれそうな澄んだ瞳に向けて、この想いを彼女が真実と捕らえてもらえるように、と祈りながら。

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Megumi,Ka

suga