「本当にその人を想うのなら、その人にとって尊敬されるような人間にならなくてはいけない。…柚芽殿が、以前同じような事を言っていたね。」
友雅の声がして、あかねはぼんやりと考えていた意識を振り払って、我に返って再び彼の背中を見つめた。
「…最近になって、その言葉が身にしみて分かるようになったよ。」
気まずそうに苦笑しながら、友雅の肩が震えていた。柚芽が告げた、男に対する理想の形を表す言葉を口にしながら。
あれほどに天気が良いというのに、庭先のぬかるみは未だに乾かない。
山奥の森に囲まれ、なおかつ水の湧き出る土地であるせいで、いくら天からの光りが注がれようと、からりと地面まで乾かしてはくれないようだ。
何気に友雅はつま先を伸ばしてみる。足場の岩には苔がこびりつき、ぬかるみでなくても足を滑らせそうだ。
安定感のない足場。それこそ、今まで自分が立っていた場所ではないか?
「例えば…二人の男がいたとして、同じ言葉を同時に発したとしても、人が捕らえる言葉の意味は、彼ら個人の人格によって様変わりすると思う。嘘を絶対に言わない男と、いつも嘘ばかりついている男と、同じ言葉を言ってどっちを信用出来るだろうか」
答えなんて、聞かなくても分かっているのだ。
誰だって、よほどの物好きではない限り…大概の人が選ぶのはどちらかに決まっている。
「……正直な…人の言葉だと…思います…」
あかねの答えは、友雅の予想通りだった。
期待など最初からしていなかったが、それが当然なのだと今は自分でも思う。
「そうだね、それが当然というものだ。だから、本当に信用してもらいなら、それ相応の行いをしなくては駄目だっていう事だ。誠実で、嘘をつかない。そんな男の言葉なら信用出来るだろう。それこそ、彼自身を尊敬出来るという意味ではないのかな。」
豊矩は確かに、最初の頃は少々頼りなさを感じる所もあった。
だが、柚芽を想う心は力強く真剣で、そのうちそんな強さが誠実さとなって目に見えるようになってきた。
凛とした輝きと、真っ直ぐに伸びた背筋は柚芽一人を見つめる。そんな彼に、柚芽は心から安心感を覚えたのだろう。
この人なら信頼出来る、と。
あかねと友雅が仲を取り持ったような展開だったが、結局の所は彼自身が切り開いたのかもしれない。
ただ、その入口をあかねたちが作っただけのこと。機会があったなら、いずれ自然に二人は惹かれ合う運命が用意されていたような気にもさせる。
以前豊矩にも言ったことだが、そんな風に恋を純粋に受け止められる彼が羨ましいと思う。
余計なことなど一切なく、恋した彼女の事だけを思い生きていける誠実さ。女性達と慣れ染めるきっかけ作りが長けていても、恋の前では何の意味もない。
「だけど…時にはね、嘘ばかりの中で生きているような愚かな男でも、何かに気付く時が来るものなんだよ。」
遠回しに、自分の変化を気付かせようとしてみたが、果たしてこんな言葉であかねは気付いてくれるだろうか。
「話の中の彼を思い出してごらん。彼が紫の上の前で誰よりも多くの愛の言葉を囁こうとも、彼女の心は晴れないままだった。もっと早く彼がそれに気付いていれば…と、思わないかい?」
「……紫の上が、自分の事で苦しんでいるって、早くから気付いていれば……?」
「そう、彼も変わったかもしれない。全てを投げ出して、彼女だけにすべてを捧げることが出来たかもしれない。でも、気付くのが遅すぎた………」
紫の上と聞けば、源氏の愛を全て注がれて生きた、一番幸せな女性だとあかねはずっと信じていた。
幼い頃から源氏に慈しまれ、そして愛されて美しく成長し、物語の中で誰よりも彼に愛された、唯一の女性だと思っていたけれど…友雅の話を聞いているうちに、考えが変わってきた。
近くにいればこそ、耳を塞げないことがある。そんな心の乱れを見せまいと振る舞う彼女は、もしかすると一番悲しい女性だったんじゃないだろうか。
潮の言葉が、あかねの胸に浮き上がってきた。
"女は誰でも、愛する人の唯一人になりたいと願っている"------だけど、"本当の恋を世の男たちは知らない"。
故に、家柄・階級を重んじることに意識を取られ、一人の女性を愛し抜くことを知る者は少ない、と。
だけど源氏は…そんなものに捕らわれていた訳じゃないような気がする。
「でも、あの…その男の人は…家柄とか身分とか気にするような人じゃなかったんじゃないですか…?それに、紫の上も夕顔も、その…六条御息所も…他の女性も、みんなその人が愛しくてお付き合いをしていたんじゃないですか…?だったら…」
おかしなことだけど、好きならば良いじゃないか、と言いたくなる。
最愛の妻がいるというのに、他の女性の所に通い続けるなんて、とんでもない話だと冷静に考えると思うのだけど…。
「いや、それではいけないんだよ、神子殿。」
友雅の声が、あかねの想念を断ち切った。不思議なくらいその声は強く通って、小さな水溜に輪を描きそうだ。
「彼も、そして紫の上も、それでは報われないままだ。恋することの苦しさと辛さ……負の部分が二人の関係の中には刻まれてしまった。」
幸せであったからこそ、訪れるその瞬間を繰りかえすたびに彼女は傷ついた。自身に浮かぶ花心が、愛する女性を追い詰めていることも気付かない。
そして彼女を失ってから悔やみ、心を痛める…そんな彼を愚かと言わず何と言おう?。
「でも、恋というのはそれだけではない。辛い事も確かにあるけれど、それ以上に…経験しなくては分からない、言葉では表現し難い幸福感にも似た感覚を覚える事も出来る。」
勿論、そんな一時があったからこそ、辛さを知ることになるのだが。
昔は逆のことを言っていた。幸せと共に辛さがあるのが恋だと。
でも今は、感じる幸せを念頭に置きたいと思うようになった。
……恋というのは難しい。何度、そう思って頭を痛めてきただろう。なのに、芽を吹いたその想いは成長するばかりで、枯れる気配は何もない。
「今になって思うと、もう少し若い時に経験していたら良かったかな、なんて…そんな感じもするね。」
二度と来ることのない、若草の頃を思い浮かべる。
楽しいことなんてあったかどうか…。思い出せないくらいに、その頃の記憶は浅い。
「せめて、神子殿くらいの年で恋を知っていたなら…こんなにも無様な浮き名を流すようなこともしなかっただろうね。」
友雅は笑いながら、自虐的にそんな事を言った。
……今になって、過去の行いを悔やむことになるとは。
そんな風になりたくないから、こうして地に足を付かずに生きてきたというのに。
これまでの自分は、楽しみもない人生だったか?
…そんなことはない。その場限りとは言えど、それなりに満足した時間を過ごしてきたはずだ。
気の紛れる場所を探して、夢の浮き橋を辿りながらも、楽しみはあったはずなのだが…今となってはそんなものは些細なことで。
「…どうかな。いくら若くても、所詮私には分からなかったかな。時期なんて関係なくて、その人に出逢えなければ、恋なんて出来なかったかもしれない…」
出会ったのは、ほんの少し前。たった数ヶ月前に現れた姫君。
唐突に、目の前に舞い降りて来た天女の如く、未知たる光の粉を纏って。
「出会う時期も、運命だったんだろう。もしかしたら…その人が現れるまで、恋をすることが出来なかったからこそ、それを唯一の…本当の恋と呼べるのかも知れない。」
あんなにためらっていたくせに、随分と舌がなめらかだな。するすると言葉が、胸の底から浮かんでは出てくる。
肝心な言葉は、まだ言い出せないけれど。
……焦らないことだ、と冷静に自分に言い聞かせる。焦ったら、再び歯車が崩れる。順番を間違えるな、と柚芽にたしなめられたことを思い出す。
ゆっくり、もう少し話そう。恋の話をゆっくりと。
「若い頃の恋なら、例え悲恋に終わっても次の恋を夢見ることも出来るだろう。だが、私くらいになってしまっては…ね。今後新しい恋が出来るかどうか、夢を見ることもままならない。」
どれほど長く生きたところで、老いていく自分に永遠の未来は存在しない。
春は過ぎ、そして夏が通り過ぎて秋が来るように、自分の人生も後半へ向かって移りゆく。その度に、時間は少しずつ削れていく。
「限られた時間の中で、どうやってその恋を浄化させればいいのか…。そう考えたら、答えは一つしか出てこなかった。例え、輝きの過ぎた時期になって知った恋であっても、それならば尚、その恋を慈しんでいこうとね。」
運命を司る神が、気まぐれにもたらした悪戯であっても良い。
本当に想いを焦がす事の出来る、たった一人に出会ってしまった。
その存在に気付くまで時間は掛かったけれど、気付いた以上は、その炎を消せる術はない。
いきなり、心臓が今までとは違う揺らぎ方を始めた。
ばくばくと、穏やかさとはかけ離れた激しい動きに、思わずあかねは自分の胸に手を当てる。振動が、手のひらにまで伝ってくる。
一体何があったのか……?呼吸と共に乱れる心音。
ただ、友雅の話に耳を傾けていただけなのに……目を合わせているわけでもないのに、突然、何故そんな。
何かを感じた?一体何を……?まるで……彼に見つめられている時のように、胸の奥が熱い。
「だからこそ、あの公達のように…取り返しの付かなくなった頃に悔やむような事は、しなくないと思った。唯一と限られた恋ならばこそ……。」
友雅の声が聞こえる。さっきと同じように聞こえるのに、彼の声と自分の心音が不思議にリズムを重ね始める。
------何が起こっているの?私の身体の中で……何を感じているの?
「天女はいつしか、天へと帰っていくだろう。竹から生まれた姫君も、月に戻ってしまうだろう。彼女たちが去ったあとになって、悔やむような事だけはしたくはない。たった一つ、ようやく知ることの出来た大切な恋だ。」
あかねの心の乱れも知らず、友雅は話を続けていた。
その一言を告げるための、長い遠回り。他愛もない、架空の恋物語を語りながら、その中で友雅はまた新しいことに気付く。
これまでの間、何を迷っていたのだろう。
昨日、そして今日…ここにやって来るまでの間、わざと速度を緩めて彼女と会うまで時間を稼いで。
告げる言葉が見つからなかったから?
そんなものは、最初から決まっていたはずだ。それを口にする勇気が、なかったからだ。
この言葉を信じてもらえるか、それだけが気がかりで。
信じて欲しいのに、この自分が彼女の信頼を得られる存在なのか、それが胸に引っかかって進めなかった。
だけど今……こうして緑の風に心を透かせて……軽くなった心の中に残った、その言葉が自然に口元まで出てきている。
余計なことは必要ないのだ、と風が言う。己の心に従え、と木々の緑が言う。
伝えなくては、始まらない。伝えることにこそ、意味があるのだから、と。
高欄に手を掛けて、ゆっくりと友雅は立ち上がった。
庭からの風を身体で受けて、彼の髪がふわりと揺らめいて、ほのかにあの香りが空気に溶け込む。
ひとつ、息を吸い込んだ。
そうして、彼は静かにこちらを振り向いて、少し距離を置きながらあかねを見る。
「----------私は、君が好きだ」
風に乗せて、彼の声が響いた。
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