「夕顔の話…そう、あれは確か、恋に落ちた男と女の悲劇の話だ。男の、他の女性の生霊が嫉妬に狂い暴れ、ついにはその女を呪い殺してしまう…そんな話だ。」
六条御息所…。彼女は源氏を愛したが故に、自分の心さえコントロール出来なくなる。そうして、彼が恋する女性に対して嫉妬を覚え、生霊となって彼女たちを追い詰める。
有名な話が、葵の上だ。あかねも一度、学校で能を見せられた事がある。それもまた…彼女が、源氏の正室である葵の上を呪い殺す話。
あの頃は、なんて怖い話なんだろうと思っていたけれど。
友雅が話を続ける。
「知っているかい?そもそも、その亡くなった女性には別の恋人がいてね。それほど身分がないということで他の女性から忌み嫌われて、追い出されてしまったという背景があったそうだよ。つまり、二度も恋をしたにも関わらず……結局悲劇の中で息絶えてしまった、哀れな女性だ。」
そういえば…そんな話を聞いたことがあったような。
古典は得意というわけじゃなかったら、あまり詳しいところまでは記憶していない。まさか、自分がこんな世界にやって来るなんて思いもしなかったし。
分かっていたら、もう少し勉強しておけば良かった…と今になって思うけれど、遅すぎる。
でも…考えてみれば、現世でもそんな話は珍しくないかもしれない。
身分が違う、生活環境が違う、ということで結ばれない人もきっといるはず。
そうなると、この平安という時代から千年を過ぎても不変なものはあるのかもしれない。
潮とも、そんな話をしたことがなかっただろうか…?
……あれは、そう、恋の話をした時。
緑という色は、草の香りを表現したものだと思う。その証拠に、花よりも草や葉の多いこの庭からは、甘い香りよりも清々しい香りがする。
それらは吹き抜けてくるとき、ほんのりと薄い緑色をして頬を撫でていく。
庭先に一番近い場所にいる友雅は、その風を真っ先に感じていた。
髪をくすぐり、首筋に触れる風が軽く涼しげだが、話す言葉は少しだけ重い。
「……人の心は、怖いものだね。それだけ、恋というものは人を鬼にさえしてしまう。嫉妬し、軽蔑し、自分がその人の最良になりたいがため、他人の命さえも奪いかねないほど…激しい想いに苦悩する。どうしてだろう…ただ、その人を愛しただけのことなのに、それが何故に、こんなに苦しい想いに変わってしまうんだろうね。」
あかねは、友雅の話に耳を傾けていた。
さっきの話で思い出した、六条御息所のこと。人を呪い殺すなんて…と思った昔とは今あきらかに違う感覚がある。
それはきっと、恋する心の不条理さを知ってしまったからだ。
胸が痛くて、鼓動が速まって…敵わない相手と比較して涙が出てきてしまう程に。
「だけど、多分…その鬼となったその女性も、本当は純粋な人だったのだろう。だからこそ、自分の想いを抑制出来なかった、と私は考えるんだよ。」
そして、恋の不条理さを知った、もう一人の男がここにもいる。
思うように身体さえも動かなくなるほどに、恋というものは自分の意志を超えて、本能が体を動かしてしまう。
それを身をもって、彼は知ってしまった……あの日に。
「最初から、きっとその人の恋心は、ここに流れている空気のように澄んでいたんだろうね。ただ、その男を想い焦がれ、それに幸せを感じていたはずだ。そんな彼女の心を乱したのは……結局の所、愛した彼のせいなんだけれどね。」
友雅は後ろにいるあかねに向けて話していたが、本当は自分自身に話しかけているつもりだった。
物語に出てきたその女性のように、恋した心に捕らわれて我を見失ってしまった自分の行動を、振り返りながら白い橘の花を思い浮かべる。
その人を、自分は責められない。あの時の自分もまた、同じ状況だったのだ。
目の前にいるあかねに対して、焦がれている自分の心に気付きながらも、意志と行動の疎通が出来なかった。
そして……自分が起こした行動は、あかねの心を惑わせ、更に二人の距離を引き離してしまう事となった。
恋というものは、何故にここまで混乱を招くのか。
自分自身にも、そして相手にとっても。
喉を潤すために汲まれた小鉢の水は、誰一人として口を付けられないまま、浮かんだ氷は形もなく溶けてしまっていた。
その存在も忘れられ、二人は部屋の中で取り残されている。
友雅は、以前のように源氏物語の話をしてくれた。その話にどんな意味があるのか分からないけれど、直接的に自分たちに関わってくる話ではないから、何とか普通に耳を傾けることが出来たのが幸いだった。
二人だけの部屋で、お互いの話をしようものなら……意識しすぎて息が出来なくなってしまいそうだから。
「でも、その…男の人も、その女の人を嫌いになったわけではないんでしょ…?」
あかねの声を背中で捕らえると、友雅はかすかに微笑んだ。
「あの時も、神子殿は同じようなことを言ったね。多分、その男もそうだったと思う。彼女は聡明で頭の良い人だった。でも彼はそのうちに、新しい女性に惹かれるようになって…いつのまにか、彼女の屋敷には通わなくなって…」
夕顔の君、そして葵の上が彼の子供を身ごもって…徐々に彼が自分に割く時間が減っていく。そして、いつのまにか忘れられてしまうかもしれない、という恐怖に捕らわれるようになる。
「…勝手ですよ…そんなの…。」
つい、本音が出てしまった。迷わずに、するっと声が出てしまったので、あかねには止める力がなかった。
女の立場に、素直に反応してしまった本心の言葉に対して、友雅はあの時みたいに笑うだろうか。
だが、彼の答えは意外なものだった。
「そうだね。いつも、結局のところ…女性の心を傷付けるのは男の身勝手さという訳だ。」
一瞬、自分の答えを肯定されて、あかねは驚いた。恋の話で、まさか自分の言葉を友雅が受け入れてくれるとは思わなかったから。
恋愛についての事ならば、友雅は経験上で物事を説くことが出来るのに対して、あかねはいつも空想と理想論だけでしか話を出来ない。
いつもなら、少し遠い目をして乱れのない呼吸で、ゆっくりと大人の価値観を話してくれた。
楽しいことの背中合わせにある辛さがあるということを、忘れないようにと彼は言ってくれたはずだったのに……今日は違う。
「決してその人を嫌いになったわけではないのに…別の女性と戯れて彼女の魂を惑わせ、果ては…生涯をかけて寵愛した女性さえも傷付けてしまうなんてね。」
背を向けたままなのに、彼の表情が少しだけ寂しそうに見えたような、何故かそんな錯覚を覚えた。
彼が言った最後の言葉が、あかねの琴線に触れた。
"生涯を掛けて寵愛した女性"…源氏が愛した、その人の名は……
「……紫の上…」
ぽつりと、あかねが名前を口にすると、友雅は少しだけ後ろを振り返った。
「…驚いたな。神子殿が、この話を知っているとは思わなかったよ。私でさえ、それほど詳しく聞いた訳ではないのに、一体どこで知ったんだい?」
まさかあかねが知っているはずはない、と思ったのだろう。女房である紫式部の書いた話だから、殿上人くらいしか知らないだろうから。
だけど、あかねはその話を知っている。……繋がっていないようで、繋がっている……そんな不可思議さ。
友雅は少し顔を上げ、雲一つない青い空を見上げてみた。爽快という言葉が相応しいほど、透明感のある色が天空を彩る。
目を閉じて、聞いた話をゆっくりと思い出してみる。
「そう。その紫の上…彼女を彼は、一生側に置いて愛したんだよ。彼のその想いは、彼女も分かっていただろう。だけど…彼の隣で生きて行く上で、否応にも他の女性の事に耳を塞ぐわけにはいかない。愛されているのに、彼が他の姫君と戯れるのを事実として認めざるを得ない。それは、彼が刻んできた揺るがない過去なのだからね。」
…自分の言葉で自分を戒めることになるとは、滑稽なものだな、と友雅は思った。
何故こんなにも、鮮明にあらすじを覚えているのか。
彼の嫌なところが、自分とあまりに重なるからだ。
それまでは気にしなかったが、今はその事が過剰なほどに気に掛かる。
「彼は…本当に彼女のことを、紫の上のことを一番愛していたんだろう。でもね……そんな男の様子を見て、本当に自分を愛してくれているなんて、彼女は心底信じられるかな?」
あかねは、何も答えなかった。
返答がないと確認すると、友雅は再び話を続けた。
「いくら愛の言葉を囁こうが、その腕で抱きしめようが、彼が彼女以外の女性と戯れて来た事実は消えない。結局の所…行跡が物を言うのだよ。最愛の人さえも、胸を痛めさせてしまうことになる…。」
胸が痛い。自分のつぶやく言葉が、容赦なく友雅自身の過去を貫いていく。
物語の主人公である彼の行いが、自分に重なってくる。
咲き誇る花の場所へ通い、瞬く時間を楽しんだ後は別の花へと渡り歩く日々。
そんな自分の行いは、物語の彼と同じことをしていると思ったが、彼とは決定的に違うものがあった。
過去も未来も関係なく、"現在"をどう楽しむか…それだけが重要だと信じて、決して後ろを振り向くことはしなかった自分。
だが、彼は……その人に恋したが故でのこと。
幾多の女性すべての間に、心が存在していたからこその絆があった。
それが…友雅との違いだ。恋を知る者と、知らない者の違いだ。
「紫の上が亡くなってから、彼は気付いて悔やむのだけれどね……。ずっと彼女が、自分と縁を築いた女性との仲を気にかけていたことを。彼女は出来た人だったから、心の乱れを見せたりしなかった。だから彼も高をくくって安心しすぎていたんだろう。だが、そのせいで彼女を追い詰めて……。」
ついには最後の最後まで、彼女の心を軽くしてやれなかった。彼女を失ってから、それに気付くのだ。
「男っていうものは…本当に愚かな生き物だよ。いなくなってから、悔やんでも仕方が無いというのにね…」
…それでも、誰一人として真面目に向き合う事のなかった、自分から比べれば…。
騒がしい京の町中と違って、静まりかえった寺の空気のせいだろうか。
それとも、無音に近い澄んだ空気の中に響く、小鳥のさえずりと石清水の音がいつもより大きく消えるせいか?
何もかもが、いつもとは違って見える。初めてやって来た場所でもないのに…今日に限って、何故そんな風に感じるのだろう。
友雅がやって来るまで、落ち着く暇もなかったこの胸の鼓動。それは今も早すぎるほどに揺れ動いているけれど、息が詰まるような圧迫感は、今はもうない。
一体何が、変化を及ぼした?いくら考えても、あかねには分からない。
そして一番分からないのは…ここにいる友雅のことだ。いつもの彼とはどことなく違うような、そんな気がする。
普段、上からあかねを見つめてくれる、その目線に段差がある彼ではなくて……同じ場所に立っているような。
初めてだ。こんなに近くに……友雅を感じたのは。
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