一人になって、やっと気持ちが少し落ち着いて来た。
ずっと柚芽が着いていてくれるから、と安心していたのに、急に二人きりにされたら…それこそどうしていいか分からなくなってしまう。
会いたかったのに。
会えない数日間が、どこか淋しさを覚えていたのに……こうして会ってみたら、胸が詰まる。
呼吸さえまともに出来ないくらい、心音が乱れて全身が脈打って。
彼が口を開くたびにどきっとして…沈黙が流れれば息苦しくて。
一体、どうしたら普通に接することが出来るんだろう。
"友雅殿の、戯れではない、本当のお心故の行動です"
柚芽の言った言葉が浮かんで、それと同時にあの瞬間が蘇る。
友雅の本心……それが、あの行動の原因。つまり彼の心が、自分に傾いているという事を彼女は言っていたのだろうが……。
……そんなこと、絶対に…絶対に違う。あり得ないよ、そんなの…。
あれほど沢山の女の人に囲まれて、それだけ目の肥えている友雅さんが、私なんか好きになるわけがないじゃない…!
頭を抱えながら、あかねは何度も首を振る。
身なりも風貌も価値観も、彼の周りに寄り添う女性達とは雲泥の差だ。何一つ、大人の感覚も持ち合わせていない自分。
出て来るのは、いつだって幼い感情ばかりで、それだからいつも彼にからかわれるのだ。
友雅にとって自分は、からかい甲斐のある、丁度良い遊び相手みたいなもの……。
突然、あかねの視界が歪み始めた。
目尻に何かが沸き上がり、瞳の奥が熱くなって…頬に一筋しずくがこぼれ落ちた。
慌てて目頭を押さえる。勢いはないが、ゆっくりとそのしずくは瞳から溢れ出す。そして、その涙の意味を考える。
………悔しいんだ…きっと。
こんなに好きなのに、どこもかしこも友雅さんに相応しくない、そんな自分が悔しいんだ。
どうしてもう少し、自分は大人になれなかったんだろう……。せめてもっと、艶やかでしとやかでいられたら…こんな涙が出て来ないはずだ。
もっと自分に自信を持てたら、胸を張って隣を歩くことだって出来たのに、何もかも彼に叶わない自分が悔しくて。
なのに、やっぱり好きで……どうしようもなくて………………。
「失礼するよ」
格子戸の方で友雅の声がして、あかねは慌てて自分の目をこすった。
涙なんか見られたら…問いつめられても答えようがない。何とか涙を拭ってみると、幸いそれ以上溢れては来なかった。
黒塗りの小さな小鉢を二つ手にして、友雅は部屋の中に入ってくる。
「何だかね…予想外の事が起こってしまってね。潮殿と柚芽殿は、急な用事で出掛けられてしまったらしい。」
「えっ……!!」
氷水の小鉢の一つをあかねの方へ差し出すと、彼女は驚いて顔を上げた。
無理もない。おそらく柚芽が付き添っていてくれると、今の今まで信じていたのだろうから。
「豊矩の事を紹介したい人がいるらしくて、近くの寺まで挨拶に出掛けてしまったそうだ。それに付き添って、他の方々も揃って出掛けたらしいよ。」
そんな…。それじゃ、柚芽達が戻ってくるまで、この寺に二人取り残されてしまったという事か。
「あ、あの…いつ、帰って来るんですか…?柚芽さん達……」
「さあね。話に弾みが着くと、なかなか腰を上げそうにないからねえ…」
途端に、あかねの表情がうっすらと曇った。自分と二人きりにされて、戸惑っているのが分かる。
そんな彼女に対して、切り出すきっかけを探している。
ゆっくりと、氷は水の中で時間とともに溶けて行く。
「昨日は随分と雨が降ったというのに、今日はまた眩しいくらいの青空だね」
部屋の中から見上げると、少しだけ望める空を見ながら友雅が言った。
一日中降り続いた雨のせいで、元より湿度の高いここの庭は、あちこちがまだぬかるんでいる。
「そ、そうですね」
黙っているわけに行かないので、取り敢えず何か答えてみる。短くてもいい。相づちだけでもしなくては…さっきみたいに想いが形になって現れて来そうだ。
「…もうすっかり夏だ。これからの季節は、ここのような避暑を楽しめる場所が心地良いかもしれないね」
「は、はい…そ、そうかもしれません…ね」
ぎこちない言葉がこぼれて来る。
……随分と警戒されているな…仕方が無いけれど。
自業自得ではあるが、こうして頑なに緊張しているあかねを見て、小さく友雅は溜め息をついた。
友雅が、ゆっくりとその場から立ち上がる仕草に、あかねは気付いた。
彼はこちらを見ることもなく、庭に下りられる張り出しの簀子へと、静かな足取りで歩いて行く。
ここからだと、緑の苔に包まれた庭が一望出来る。そして、天を仰ぐと木々の隙間から、青い空と太陽の日差しがわずかに見えた。
「俗世から隔離された場所だから、かな。ここは…空気が澄んでいるね。」
緑の香りと、水の音。控えめな色合いの花の色が、風景に溶け込んでいる。
すうっと、さっきのように息を吸い込むと、余計なものが全て浄化されていくような気にさせる。
「ここならば、胸の中も少しくらいは澄んでくれるかもしれないね……」
呼吸をするたびに、新しい空気が身体の中に流れ込んで来る。
これまで惑わせていたものが、少しずつ消えて行く。
そして、心が軽くなって行く。
不思議な気分だ。尖っていた神経が徐々に緩んで、丁度良い感じに身体がほぐれてきた。
「……その時になってみないと、やはり分からないものだな」
「え……?」
遠くを眺めている友雅の背中を、何気なく眺める。緩やかな長い髪が、夏色の風にわずかになびいた。
「…いや、何でもない。こっちの話だよ」
一言そう答えると、彼は簀子から続く階を少し降りて、あかねに背を向けたまま、その場に腰を下ろした。
二人きりの部屋だけど、お互いに顔を合わせずにいられることで、さっきよりは少し緊張もしないで済んだ。
だからと言って、これからずっと黙っているわけにはいかない。でも、何を話せばいいのか…。
そもそも、ここにやって来た理由は……柚芽に連れてこられたからで…その、連れてこられた理由は………。
ふと、もう一度彼の背中を見る。
………彼が、今どんなことを考えているのか。彼の心の中に、どんな想いが存在しているのか…それが知りたい。
わずかに胸の中から消せない、ほんの少しの期待に意味があるかどうかを。
「初めて、ここに連れて来た時の事を、神子殿は覚えているかな?」
足場代わりに点々と置かれている岩場が、緑の苔に浸食されつつ有るのを、友雅は見ていた。
小さな花らしきものがあちこちに咲いていて、それが昼顔の花だと遠目で気付き、ふとあの時の事が蘇って来たのだ。
「昼顔の花を君が見つけて……その時に、ちょっとした話を聞かせてあげたのだけれど。」
しばらく前から宮中の女房達の間で、何かと話題になっているその物語は、とある女房が書かれたものだと聞く。
織り込まれている歌の見事さも手伝いながら、豊富な諸恋話が綴られている。
その中の一つを、又聞きだったがあかねに話した記憶がある。
「……夕顔…の、話ですか……?」
あかねが答えると、背を向けたままで友雅は静かに微笑んだ。
「覚えていてもらえて良かった。なら、話は少し端折っても平気だね。」
話の中には多くの人物が事細かに描かれており、それぞれ誰に共感を覚えるか…などと、女房たちは他愛も無い盛り上がりを見せている。
五十帖を超える長い物語のようだが、幕によって主人公や背景も変わって、男である友雅が耳にするのを聞いているだけでも、なかなか面白みのあるものだった。
殊更、最近になって耳にする話は、またこれまでと違ったように聞こえる。
おそらく、それは自分が以前とは違った感情を抱いているからだろう、と友雅は自覚していた。
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