恋愛論理

 第26話 (3)
「神子様、友雅殿がお見えになられました。お部屋にお通し致します。」

びくっと心臓が止まるほどの衝撃が、あかねの身体全身にまで駆けめぐった。
それに続いて、早撃ちする脈があちこちに発生して、そこから体温をどんどん上昇させてくる。
すうっと格子戸の開く音と、衣擦れの音が重なる。
それらが少しずつ近づいてきて、かすかな足音が部屋の中で一旦止まった。
とたんに、呼吸が一瞬動かなくなる。

「久し振りだね」
声が、背後から突き刺さるように聞こえてきた。短い一言に過ぎないのに、掛けられたその声が身体に染みこむように浸透してきて、嬉しさと共に動揺を浮かび上がらせる。
「…という程でもないか。たった二日か三日くらいだから、久し振りとまでは言えないね。」
「は…はぁ。どうも……」
ぎこちない言葉で答えを返す。

風に乗せてほのかに漂う侍従の香りを、数日間近くで感じていなかったわけだけれど、その二・三日の長さというものは、時間では計り知れない距離を作り出す。
それはあかねだけではなく、友雅も同じだった。
二・三日なんて簡単に言えるけれど、自分の中では半年くらい会っていなかったように思える。
これまで共に過ごしてきたからこそ、その距離は時間とは比例しない。
勿論、相手の存在の大きさも影響される。


「それでは、何かお飲物でもご用意致しましょう。お話しされるには、やはり喉を潤すものがなくてはなりませんものね。」
友雅を丁度あかねの向かいへと案内し、柚芽は早々にその場から立ち上がった。
勿論それを見て、慌てたのはあかねである。
「えっ!?柚芽さん…!ちょ、ちょっと……っ」
柚芽にすがるような目を向けて、それまでうつむいたままだった顔を上げる。
すると、彼女は満面の笑みであかねを見下ろした。
「お飲物のご用意をするだけですので。すぐにまた戻って参ります。それまで、どうぞお待ち下さいな。」
「え、えっ……あっ…!!」
思わず彼女の背中に向けて手を伸ばしてしまったが、それきり何も言わずに柚芽は部屋を出ていってしまった。
あかねは、行き場のない自分の手を引き下げようとしたが、今度は向かいにいる人の気配が気になり始めた。
さっきからずっと気になっていたことは違いないが、二人きりになったと思うと…更に意識はそちらに集中してしまう。

横顔のまま、動けない。姿勢を変えたら、一度でも真正面から彼と目を合わせてしまう。
そうしたら…それこそ息が止まってしまいそうな気がする。
視界にぼんやりと入り込む、彼の目がどんな風に自分を見ているかも、気になって仕方がないのに。
「すぐに戻ってくるよ。そんなに長い時間は掛かることはないだろう。潮殿も一緒に手伝ってくれているだろうしね。」
真正面から、落ち着いた声がした。
振り向くことは出来ないけれど、あかねの耳はその声をしっかりと聞き取る。
「あ、そ…うですね…はい……」
小さな声で友雅の声に答え、あかねは視線を反らしたまま、何とか姿勢を元に戻すことに成功した。


おそらく計算尽くのことだろう、と友雅は思った。
最初からわざとここで席を外して、自分とあかねとを二人だけにするつもりだったのだろう。そうすれば、何かしら進展があると目論んで。
全く、お節介なことをしてくれる…と思ったが、だからと言ってこの期に及んで何をすればいい?
目の前のあかねは、全身過敏になっていて、こちらに視線を向ける余裕さえないでいる。硬直してぎこちなく、意識の余裕さえ一寸もない。
いきなりここで、想いを打ち明けることも出来ない。それこそ果たして、信用してもらえるかどうか。
友雅自身でさえも、その打開策が蜜からないでいるのに。

空気が重い。
清々しい緑の風が流れているのに、この部屋だけは爽快感とは全くの無縁だ。
目の前に広がる苔と杜若の色は、あんなにも鮮やかに輝いているのに。


会話の糸口が見つからないまま、時間は流れていく。
柚芽が出て行ってから、どれだけ経っただろうか。随分と長い時間のような気がするが、もしかしたらそれほどではないかもしれない。
ずっと待っているのに戻ってこない柚芽。
あかねの心は圧迫され続けて、苦しくて仕方がないのに。早く、すがりつける誰かの手が欲しいのに。

「飲物を用意するだけというには、随分時間が掛かっているみたいだね。ちょっと様子を見てくるとするか。」
この時間を手持ち無沙汰にしているのは、友雅も同じだった。
切り出すきっかけが出来ないのに、二人きりにされては気持ちも焦る。それこそ、答えも思いつかなくなりそうだ。

友雅は立ち上がり、取り敢えず潮と柚芽の様子を伺おうと部屋を出ることにした。
おそらくあかねの方も、自分と二人だけになるよりは気楽なはずだ。
出来るだけ視線を合わせないように、友雅はあかねの前を通り過ぎた。

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緊張して肩が凝ったようで、首がぎくしゃくしている。
深呼吸をしてから渡殿を歩き、取り敢えず誰かいないかと人影を探した。
突き当たりの部屋は、厨房だろうか。物音がしたので、友雅はそこへ向かってみることにした。
「すまないけれど…柚芽殿か潮殿はこちらにおられないかな?」
そこにいたのは、潮とそれほど年の差がない尼僧が一人。だが、いささか様子が普通とは違う。

「ああ、申し訳御座いません…。先ほど、急に近くの寺まで所用が出来まして、お出かけになられました。お客様がいらしているというのに、大変申し訳ないと言伝されました。」
「…ふうん…。では、柚芽殿はどちらに?飲物を用意する、と席を外してからしばらく経っているのだけれど。」
すると尼僧は、再び手元の用事を片付けながら友雅の問いに答えた。
「それが…実は所用と言いますのが柚芽様の事で御座いまして。良いご縁の方が現れたとのことで、そのお話でお出かけになりましたのです。柚芽様と…そして、お供でいらした御方と。」

…豊矩の事だろうか。
彼と柚芽との関係は順調に進展しているとは思うが、潮も随分と寛大に豊矩を受け入れたものだ。
まあ、それについては結構だと思うけれども……。
「と言うことで、客人を置き去りにする形になってしまい、心苦しいのですが…こちらをご用意致しましたので、どうぞ気楽にお過ごし下さいとのことでした。」
尼僧はそう言うと、小さな褐色の盆に乗せた二つの碗を、友雅の前に手渡した。
中には大きな氷がいくつか、清水の中に浮かんでいる。
「氷室から頂きました氷は、まだこちらにご用意しておりますので、必要でしたらご遠慮なくお使い下さいませ。」
深々と頭を下げて、彼女はその場から立ち去ろうとした。

「ちょっと待ってくれるかな。もしかして、貴女もこれからどこかに出掛けられるのかい?」
普通の様子と違う意味が、やっと分かった。
どう考えても、日常のつとめの中で身に付ける服装とは違うのだ。明らかに、これから外に出掛けるための装いに見える。
そうなると、この寺は無人となってしまうではないか。
「はあ…実は私も潮様にお呼び立て頂いておりまして…。他の者はご一緒させて頂いたのですが、客人のおもてなしもしないままではと言うことで、私は後から向かうことになったのです。」

あきらかに、はめられたな…と、ようやくここで友雅は我に返った。
さっき、柚芽が部屋を出て行った時にも思ったが、今回のことはそれ以上に用意周到な計画だったのだろう。
おそらく、先日柚芽が自分の屋敷にやってきて、あかねとの会合の話を切り出した時から、こうなることを潮か…または誰かと既に申し合わせていたに違いない。
そうでなければ、急に別の寺に行かなくてはならないなんて、あり得ないはずだ。しかも寺の者を全て従えて、娘の柚芽と豊矩を紹介するために、なんて…それが本当であっても早急すぎる。

すっかり自分は二人の女性に、陥れられてしまったということか。
我ながら、随分と意識が鈍っていることが、色々な事を経て実感してしまう。
これでは白虎に呆れられるのも当然だな、と思わざるを得ない。

「仕方がない。それじゃ、あとは引き受けるとしよう。貴女も、そろそろ出掛けられると良いよ。追いつかなくなったら困るだろう。」
友雅の言葉を聞くと、彼女は腰を折って深く頭を下げ、玄関に向かって静かに去っていった。

さあ、これからが問題だ。もう、出口は塞がれてしまった。逃げる場所もない。
戻るところは、彼女一人が残されている、その部屋。そこにやって来る者は、もう誰もいない。
二人きりなんて初めてのことではないのに、胸の鼓動はゆっくりと速まっていく。その場に近づくたび、心の中に灯された炎が高く燃え渡る。


……言えるだろうか。あの一言を。
そして、その一言を彼女は、受け取ってくれるだろうか。それを、真実と認めてくれるだろうか。

冗談なんかじゃなくて、からかうつもりなんかなくて、ただ………自然に心が言葉を紡ごうとしている。

それを伝えるために、自分はここにいる。

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Megumi,Ka

suga