恋愛論理

 第25話 (1)
柚芽が用意してくれた麦湯は、ほんのり甘さがあった。
詩紋が麦芽糖を少し混ぜて作ったようだ。
昔、田舎の祖母が作ったような、懐かしい味がする。

それらで舌を潤しながら、潮は穏やかに微笑みを浮かべる。
「こちらに伺ったのは、もう何年も前のことになります。以前から華やかな空気の漂うお屋敷でしたが、今は随分と賑やかになられて…」
懐かしそうに潮が話す傍らで、柚芽も黙ってそこに座っている。
「すいません、突然私達が居座ることになっちゃったんで…ちょっと騒がしくなっちゃったかも…」
「いいえ。お屋敷に人が多いのは結構なことですよ。賑やかな空気は、楽しげで幸せそうでよろしいではありませんか」
いつもはひっそりとした山寺の中で、数人の尼僧達と静かな時を過ごしている彼女だが、元はと言えば由緒ある名を持つ家柄の出だ。時にはこのような空気が懐かしいと思うこともあるだろう。
特に今夜は、久し振りに再会した娘と一緒というのもあり、少々騒がしくても逆に心地よさを感じるのかもしれない。

潮は、風を漂わせる庭先に目を向けた。
「お庭がとてもお美しくて、目を奪われてしまいますわね。色とりどり…季節に合わせてたくさんのお花があちこちに…。藤、唐葵、芍薬、白丁花に…数え切れないほど。」
「ええ、藤姫が綺麗に整えてくれて。毎日外を眺めるのが、すごく楽しいですよ」
日本画のような風景が、日々を追う毎に姿を変える。赤い花が散ったあとは、別の場所で山吹色の花が咲く。
色を変えて種類豊富な花は、絶え間なく咲き続けている。

「あら?」
庭を眺めていた潮が、何かに気付いたように少し腰を上げた。
彼女は、少し遠くにあるものを凝視している。
「……あちらにある花は、橘の花ですわね」

咄嗟に、それまで忘れていた何かが、あかねの中で激しく反応した。
いきなり早まる動悸、喉の奥に脈打つ血流の音、汗ばむ手のひら………そして、かすかに震える唇。

「そういえば、以前は橘の花の時期になると、きまって友雅殿がお屋敷の花を携えていらして。いくつか屋敷にも植え付けて、季節になると庭を彩ってくれたものですが、今はどうなっているのやら………」
昔話で懐かしむ潮の声が、耳に入らないくらいにあかねの鼓動は揺れ動いていた。
その言葉の節々に、彼の名前が出るたびに心臓がずきん、と痛むように響く。体中が硬直しているのが実感できる。
うつむいて、少し目を伏せて。
敏感に反応する自分の変化に、再び戸惑いを隠せずに唇を噛む。
-----そんなあかねを、潮は横目でちらりと確認した。


「神子様」
潮があかねを呼んだ。
だが、自分の中に沸き上がる記憶に気圧されて、彼女はそれに気付いていない。
柚芽を見ると、静かに彼女は首を縦に振る。言葉はなくとも、すべて状況は把握している。
彼女の中に、どんな感情が溢れているか。何に、戸惑いを覚えているのか。
そう、それを克服するために、柚芽は彼女を呼び寄せたのだ。
この世でたった一人、無条件で信頼できる自分の母を。

「神子様、本日…柚芽が友雅殿にお会いして来たそうです」
名前を耳にするたびに、ぎこちなく彼女の肩が震える。潮は付かず離れずの距離感を維持して、あかねの前に腰を下ろした。
「それがですね…この子ときたら、お会いしたのは良いのですが、何やら随分とご無礼なことを申し上げてしまったそうで。」
顔を上げて柚芽を見ると、彼女は妙に朗らかな表情で微笑んでいた。
「恥ずかしながら、つい調子に乗って言葉を吐き出しすぎてしまいまして。ですが、そのおかげで随分とお話を聞かせて頂くことが出来ましたわ。」
「話……」
あかねの小さな声に、潮と柚芽が申し合わせたようにうなづいた。


さっきまでは涼しいと思っていた夜風なのに、今は無性に暑苦しい。
体温が上昇しているせいだろうか。……熱があるわけじゃないけれど、でもそれは熱と言ってもいいくらいの変化。
ただの熱なら、休めばいずれは引くけれど…この熱はそう簡単に治まらない、厄介な熱。
その証拠に、これまでに何度手のひらに汗が滲んだ?
彼の名を耳にするたび、汗とともに体温が上昇するのが自覚出来るのに。
"恋の病"という言葉を聞いたことがあるけれど、"病”だなんてあまりにぴったりすぎる。本当に病気……しかも、重度な。
治療法は分かっていても、成功率は確実に低くて……だから、治療する勇気が出ないでいる。

「神子様、少々おかしなことをお尋ね致しますが……神子様は友雅殿を、どんな方と思われていらっしゃいます?」
突然に、そんなことを言い出したのは、柚芽だった。
あかねは、その言葉に一瞬答えを迷った。
どんな男か、と言われても…すぐに思いつく言葉は、誰もが言いそうな月並みなものばかりだ。
「どんなって…頼りになる人…だと思います。色んなところに顔が広いし、色んなこと知ってるし……。ちょっと、まあ…真面目とは言えないかもしれないけど…」
一応正直に思ったことは言ったつもりだが、多分二人が期待している答えは、こんなことではないのだろうな、とは薄々気付いていた。

"八葉"という立場の彼の印象を、聞いているのではないのだろう。
おそらくそれは、"橘友雅"という男について、あかねの意見を聞きたいのだと、そういう意味だったに違いない。
その証拠に、二人は何も言わず静かに微笑んで、こちらを優しく見つめている。

「……あ、あと…優しい、と思います…けど。でも、その…友雅さんだから、あの…別に、女の人には誰にでも優しいのかもしれないけど……」
口にしてから、少し気持ちがぎこちなくなる。
優しくされて嬉しかった半面で、それが彼にとっては特別ではないことへの、心の揺らぎ。
そして気付くのは、彼の目の中にある自分が、決して優位な立場ではないこと。
"神子"と"八葉"という関係が、やっとのことで二人をつないでいるだけ。それがなければ、何も飛び抜けたものなどありはしない。
現実として捕らえる、そのことが…こんなにまで心を重くさせるなんて。

「優しさというものにも、人それぞれ違いがあるものですよ」
最初に口を開いたのは、潮の方だった。
彼女の声と同時に、すうっと夜風が部屋を駆け抜けて、燈台の灯火を揺らした。
「どれだけ優しい人であっても、万人に向けての優しさと、特別な想いのある方への優しさというものは、違いがあるものです。」
意味深な言葉を潮はつぶやく。それを聞く、あかねの様子を柚芽は見ていた。
潮が言った"万人への優しさ"と"特別な優しさ"。似ているようで、それらはまったく違う意味を持つ。
それらは意外に、当の本人や対象とされる相手には気付きにくいもので、第三者の目を持って気付くことが多い。
おそらくあかねは、気付いていないのだろう。
彼女こそ、特別な優しさを与えられていることに。

「……その他に、どんな印象がございます?」
畳み掛けるように、潮が再びあかねに尋ねた。息を呑み込むようにして、彼女は声を一度詰まらせた。
更にそこに口を添えたのが、柚芽だ。
「どのような男性だと、思われます?」
八葉としての彼ではなく、男として彼をどう思っているのか。二人はあかねの口から、それを聞きたいと思っている。
だけど、思っていることをそのまま言葉として形にするということは、殊の外困難なことだ。
「や、優しくて…頼りになって…その………」
その瞳に吸い込まれて、取り込まれて、惹かれて……心を奪われる。


「そう、確かに神子様のおっしゃる通りでございます。」
声を詰まらせて言葉の続かなくなったあかねに、助け船を渡すように潮の声がした。
「我が家に訪れていた頃から、あの方はそんな殿方でございました。すぐにでも上に行けるだけの力があると言われていたのに、そういうことには全くの無頓着で。
主人の嘆く顔が、今でも忘れられませんよ」
何度もうなづきながら、柚芽は母の昔話を聞いている。幼かった彼女も、記憶の当事者の一人だ。
「器用過ぎるのかもしれませんわね。歌にしても楽にしても、武芸に関しても…そつなく一定以上の結果を残してしまって、あっという間に帝にまで噂が到達する始末。そうなれば、否応でも宮中の女房方が気を傾けるのも当然でございましょう。」
長いしなやかな指先で、時には華麗な楽を奏で、その一方で引く弓は寸分違わず的を射る。
甘く響く声で、流暢な歌を詠む彼の姿は、どこまでも艶やかだ。
そんな彼を目で追うなと言われても、誰とて自然に目は動く。男でも女でも、ひときわ輝くものには興味を引かれるものである。

「神子様がおっしゃるように、人に対しても器用に受け流せる方ですから…お優しくされた女性の方は、ひとたまりもありませんわね。」
決して、誉められるような関係を築いてきたわけじゃない。
引く手数多の女性からの誘いを、流れるように移動しながら別の島へ。一つの場所に居着くこともなく、宛のないままに流れていくだけの、不安定な関係。
恨まれる前に、その場を立ち去る。
跡を残さず、その場の時間だけを紡ぎ合うのみ。繰り返される朝ごと日ごとの戯れは、胸の中に残り香さえも置き忘れることはない。
見た目通りに華やかな話題の中心に、常に存在し続けている彼の印象は………特別な想いを抱く者にとっては、おそらく決して良いものではないだろう。

「以前、お話ししたことがあるとは思いますが…友雅殿は、特別にお付き合いされた方は、一人もいらっしゃいません」
柚芽は昔、あかねにそう話したことがある。
その時は噂でしかなかったことも、今日、彼との会話の中で本人からそう聞いて、完全なる確信を得た。
「友雅殿ご本人から、そう伺いました」
と、柚芽は付け足した。

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Megumi,Ka

suga