コトコトと、牛車の音が山道に響く。ゆるやかに続く振動は心地良く、睡魔を誘われてしまいそうだ。
「こうして山を下りるのは、もう随分久方ぶりと記憶しております」
車の中から、そんな声が聞こえて来た。
まだ太陽が天辺まで昇り詰めない時刻。突然、彼は予告もなしに現れた。
「突然の来訪を失礼致します。私は左大臣・土御門家に御仕えしております、豊矩と申す者でございます。」
自ら告げた彼の名前を聞いたとき、潮は思わず彼の顔を凝視せざるを得なかった。
土御門家に仕える、豊矩という武士。
これまで、彼の名前を何度耳にして来ただろう。どんな男なのだろうか、気になって頭から離れなかった。
又聞きで気持ちの良い男だと聞いていたが、突然目の前に本人が登場するとは。
「本日、お伺い致しましたのは、当家より文を預かって参りましたので、お届けに上がりました」
誠実でしっかりとした口調で、豊矩は携えていた文を潮の手元に差し出した。
萌葱色の紙に、小さな若い柚子の実が付いた枝。その文を書いた者が、一瞬で分かる。
潮はしばらくそれを眺めていたが、折られた文を開いて中に目を通した。
彼女が文を読み終えるまで、豊矩はそこでじっと待ち続けた。そうしながら、潮の姿を見ていた。
優しげな目元、小さめの唇が柚芽に似ているな、と感じた。
認められた文字を目で追いながら、時折目を細める潮。
……柚芽の母-----こうして対面する時が来ようとは。
「承知致しました。お話を御受け致しますと、そうお伝え下さいませ。」
一通り文を読み終えた潮は、そう豊矩に向かって答えた。
彼は一度ひれ伏して頭を下げたあと、再びその真っすぐな瞳で彼女を見上げた。
「それでは、御支度が整うまで、院の外にて御待ち申し上げます。」
「え?御待ち下さいませ。もしや、これから…伺うということで?」
「屋敷まで御連れするようにと、主と文の主より言伝を頂いております。」
潮は少々驚いたようだが、すぐに奥に戻って簡単な支度を整えた。
そんなことがあって、潮は今、豊矩の先導する牛車に揺られて山を下りている。
出がけに慌てて庭に下りて摘んだ、淡い紫の紫陽花と青みの掛かった鮮やかな花菖蒲。山奥の尼寺で暮らす彼女にとって、手土産になるものと言ったらこれくらいしかない。
それでも、数年ぶりに娘に会う機会が訪れたという機会に、何も手に持たず出掛けるのも心もとない。せめて、これくらいは携えていかなくては、という気がして。
「土御門のお屋敷で、色々なことを学ばせて頂いて…。あの子は、良い娘に成長したでしょうか?」
姿の見えない車の中から、潮の静かな声がする。
「……気品のある、お美しいお嬢様になられたと、そう思います」
豊矩の声がして、潮はふと表情を緩ませた。
彼が柚芽を……我が娘を見初めた男。
第一印象で、その視線の強さと落ち着きを見て、彼がどんな男なのかは瞬時に理解出来た。
これまで、友雅や神子から聞いて来た印象が伴って、豊矩という人間がどんどん確立されて行くように思える。
柚芽の隣に彼がいる、そんな姿をおぼろげに思い描きながら、不思議とホッとする気持ちを覚え、こっそりと物見窓から彼の背中を覗いてみた。
娘を想い、そして守ると口にしてくれた男。その、若くとも力強い真っすぐ伸びた背筋に、彼女はこの上ない暖かい想いを沸き上がらせた。
+++++
日はまだ高い。
初夏ともなれば、夕暮れが訪れるのも遅くなる。時計のないこの世界では、正確な時間を計る事は無理だから、今が何時かは分からないけれど。
「まだ、時間は早いよね?どうしよっか…ここ何日かお休みしちゃったから、あと少し他のところを見回ってみようか?」
歩きながらあかねが言ったが、それはあっさりと二人に却下されてしまった。
「夏の刻は、日の高さでは計りかねます。早いうちに、屋敷の方へお戻りになられた方がよろしいかと」
「ええ?大丈夫ですよ、頼久さん…。まだこんなに明るいんだし、それほど遠くじゃなくて近いところとかなら……」
頼久のたしなめる言葉に少し反論すると、今度はその隣の天真から声がかかった。
「あかね、コイツの言う事を聞いといた方が良いぜ。さっさと今日は帰った方が良いって。」
妙に素直に頼久の言葉を肯定する天真に、少し疑問を抱いた様子のあかねを見て、慌てて天真は言葉をつなげる。
「っていうか、ホラ…俺たちの世界でも夏って物騒じゃん?遅くまで明るいからって、ガラ悪いヤツとかが徘徊してたりさ。こっちは妙なものも出るだろうし、早く戻ってのんびりした方が良いって」
「…そっかなあ…」
どうも納得行かない様子ではあったが、二人に揃って言われてはこれ以上反抗することも出来なかったのだろう。
あかねは仕方がなく、まだ明るい道を土御門家に向かって歩き出した。
屋敷に帰って、出迎えてくれたのは予想もしない客人だった。
「お久しぶりでございます。神子様、お元気そうでらっしゃいますね」
「潮さん!わあ、どうしたんですか!?」
軽く頭を下げて挨拶をした潮に、あかねは思わず駆け寄った。
まさか、そこに彼女がいるとは思わなかった。
母屋の一室。潮と、藤姫と詩紋。そして、その後ろに柚芽の姿。今まで見た事も無い光景だ。
「あ、もしかして…柚芽さんに会いにいらしたんですか?」
「ええ、まあ…それもありますが。」
潮の背後で、柚芽がにっこりと微笑んでいる。
母と娘である二人が、視野に1枚の絵として収まる瞬間。パズルのピースが全てはまったような、そんな感覚がよぎった。
「あかねちゃん、今夜は潮さんも、ここに泊まってもらうことになったんだよ。」
「本当ですか?じゃ、久しぶりの親子水入らずって感じですね!」
詩紋に言われてから潮を見ると、彼女は笑顔で軽くうなづいた。
+++++
その夜の夕餉は、宴のように賑やかな空気が広がっていた。
出家した潮を気遣って肉や魚などは控えられたが、取り揃えられた料理の品は数多く、普段は同席する事はない頼久や豊矩、そして柚芽までもが一緒に時を過ごし、楽しい夜となった。
終始寄り添って語り合っているわけではないが、時折会話をしている柚芽と潮の姿は微笑ましい。誰もが、その光景を見ながらそう思っていた。
「それにしても、びっくりしちゃったよ…まさか潮さんが来てるなんて思わなかったから。もしかして、だから頼久さんたちも『早く帰れ』って言ったのかなあ」
御簾を開け放って、簀子の上に腰を下ろして足を投げ出す。
やっと訪れた闇から吹いてくる、涼しげな夜風が身体に心地よかった。
あかねは詩紋と二人、眠りにつくまでの時間を、何気ない会話を交わしながら過ごしていた。
今日一日、出掛けたところで気付いたこと、詩紋に頼まれた札のことや、町中で見かけた珍しいものなど……。そして詩紋は、最近読んだ書物で知った新しい事など…お互いにそんな会話が繰り返されていた。
だが、詩紋は今日出掛けたことだけは、あかねには言わなかった。これは、柚芽との約束だ。
これに関しては、順序をきちんと整えていかなければいけない。
そう、順序が大切なのだ。今日、友雅の屋敷で何度も耳にした言葉だ。
「神子様、少々よろしいでしょうか?」
柚芽の声が、戸の外から聞こえた。
振り返ったあかねの隣で、詩紋はこれからのことを想像しながら、鼓動を早らせる。
……いよいよ、だ。
友雅の方は、何とかケリが付いた。今度は、あかねの方だ。
だから、潮をここに呼び寄せたのだ。
「申し訳ございません…、母が、少々神子様とお話をしたいと申すのですが、如何致しましょう?もうお休みになられますか?」
少し困ったような顔をして、柚芽が顔を出した。
「あ、ううん。まだ大丈夫ですよ。時間もそれほど遅くなさそうだし…潮さんがお疲れじゃなければどうぞ。勿論、柚芽さんも良ければ一緒に。」
「有り難う御座います。では、こちらに連れて参りますので…」
頭を下げて、柚芽は一度部屋を下がった。
その時、彼女が詩紋と合図らしき視線を送り合っていたことは、あかねには気付かなかった。
薫風交じる月明かりの庭。闇の中で、花の香りがほのかに香る。
灯篭の小さな炎、燻る若葉のような香がゆったりと流れる。
「夜分、ご無理を言いまして、申し訳御座いません」
戸を開けたとたん、潮がたおやかな笑みを浮かべ、あかねの前に現れた。
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