どきどき……繰り返される、激しい胸の鼓動。振動によって、溢れてくる熱が全身を駆けめぐって……頬を赤く染める。
彼の名前を聞くだけで、さっきの光景が鮮明に浮かんできてしまう。
そして、その情景を客観的に見ている、もう一人の自分の目が存在していて……克明に友雅と自分の映像を描き出す。
触れた唇の感触と共に。
「神子様、お話しになって頂けませんか?何か、おありになったのでしょう?友雅殿が…何かなさいましたか?」
傷つけたというような、そんな事ではないようだ。あかねの表情を見れば、そんな悲愴感は漂っていない。
ただ、必要以上に動揺しているという感じだ。
「な、何もないですよっ…。別に…な、何も…」
そんな風に声を上擦ってしゃべるのを見て、何もないとは思えないだろう。
しかも、友雅のことについて話す時に限って、そんな乱れた表情をして。
「神子様…他の方に知られたくない事でしたら、私は他の誰にも口外しないと誓いましょう。今の神子様のご様子から察するところでは、何もなかったとは到底思えませんわ。」
覗き込んだ柚芽の顔は、少しだけ心配そうにも見えた。
何でも無い、なんて言ったところで…平常心など吹っ飛んでしまった、この状態を隠すことなんて出来るわけがない。
それほど器用な人間でもないし、こんな状況に慣れているわけもない。
予想もしなかった……はじめての……。
柚芽の手が、あかねの肩に触れた。覗く瞳が艶やかに輝く。
「よろしいですわ。では神子様、こう致しましょう。しばらくは私のことを侍女だと、お忘れになって下さい。」
「え…?ど、どういうことですか?」
一体何を言い出すのか、と驚いて彼女の顔を見るあかねに、柚芽は静かに微笑みを浮かべる。
「私も、あかね様も、恋をする一人の女…。同じ想いを抱く者同士、気兼ねする事無くお話を致しませんか?」
わざとあかねを名前で呼んで、柚芽はそう言った。
恋をする女…その言葉を反芻する。
自分は恋をしている。あの人に、この想いを抱いている。
だからこんなに胸が高鳴って、心が落ち着きを取り戻せなくなって………そんなところに、思いがけない出来事が襲いかかって来て。
「あ、あ、ひゃあああ〜〜っ!!」
気が抜けたような、叫び声のような、奇妙な声があかねから発せられたかと思うと、思わず彼女が柚芽の両腕を掴んでしがみついてきた。
「ど、どうなされましたの?お、落ち着いてお話下さいませ…っ」
「あのっ……あ、あのぉ……!あのっ…」
軽くあかねを揺さぶってみるが、頬どころか顔全体を紅に染めて、混乱はなかなか収まらない。
「落ち着いて下さいな。私以外、誰も耳をそばだてている者はおりませんよ。ゆっくり、落ち着いて私の方をお向き下さい。そして、今日の出来事をお話しして下さいませ…」
何があったというのか。
ここまであかねを取り乱させることとは、一体何なのか。友雅が関与していることは一目瞭然だが…彼が何をしたと?
想像できることは豊富にあるが、まさか神子である彼女に対してそんなことは……と柚芽は思った。
だが、しかし。
「あの、あの……ですね…」
数回深呼吸をして、息を整えたあかねは、胸に手を当ててゆっくりと呼吸をしながら、潤んだ目をして柚芽を見ようとした。
柚芽は何度もそれを促すように、彼女の肩を優しくさすった。
そのせいもあってか、やっと言葉が繋がり始める。
「あ、あの…私…と、友雅さん……っ、友雅さんに………あの……」
+++++
これまでの険悪なムードから一転。
現在、この部屋の空気は初夏とは思えないほど、凍り付いたように硬直している。
友雅の胸ぐらを掴んでいた天真も、一瞬のうちに両手から力が抜けたのだろうか。あっさりと手を離すと、呆然としてそのまま座り込んでしまった。
誰もが、身動きすることさえ忘れてしまったかのように、人形みたいに固まっている。
一人だけ、いつもと全く変わらない泰明が話を続けた。
「おまえのおかげで、神子の気は乱れて使い物にならない。今は京全体が平穏としているから良いものの、鬼達が再び穢れをまき散らさないとも限らん。その時、今のような神子ではどうにもならんだろう。」
「…分かっているよ。すべて、私の責任だ。」
二人の会話が耳に入っているのかどうか。
誰一人として反応しない周囲の中で、それでも会話は続いている。
「元々おまえは八葉の自覚が薄い。その上、接吻などで神子の気を乱すとは。つくづく、呆れる。」
明らかに上から見下げている泰明に、友雅は何一つ反論出来ずに苦笑するばかりだ。
あまりにも、泰明の言葉がそのまますぎて。あまりに的を得ていて笑うしかない。
八葉の自覚なんて、これまであったかどうか…自分でも分からない。それが大切なことなのか、さえも理解し難かった。
だけど今になってみれば、その肩書きがあるからこそ、彼女のそばにいることが出来るのだと思うようになってから、自分のことに対して考えが変わって来た。
しかしそれは、同時に彼女に対する目が変わって来たからだ。
そしてまた、それを自覚したらしたで、八葉と神子という関係が邪魔に思えてくる。
どうすればいいのか分からなくなって、ただもう自分の本音に従うしかなくなって……そして今に至る。
「八葉でいるのが、得なのか損なのか…今の私にはさっぱりだ。」
「竜神に選ばれし者である限り、おまえは地の白虎。八葉の一人に変わりない。」
そんなこと、分かっている。でも、もしそんなものがなかったら…と考える。
彼女が神子ではなく、そして自分が八葉でなかったとしたら---------。
「ただの男と女であったら、思うままに自由でいられただろうかね?」
「今でも十分おまえは自由すぎるくらい自由だろう。その証拠に、本能に流されて神子に接吻などするくらいだからな」
「せ、せ、接吻接吻って連呼するなー!!」
大声を出したのは、天真である。今にも爆発しそうな程、顔が紅潮している。
その声のせいで、やっと室内の空気も動き始めたようだ。皆、一同に我にかえったらしい。
「とっ…とっ…友雅っ!」
勢いづいて、もう一度友雅の胸ぐらを引き上げようとした天真を、慌てて後ろからしがみついた詩紋が止める。
「て、天真先輩っ!お、落ち着いてっ!」
「お、落ち着いてられるかぁー!こ、この不埒者がぁー!」
とんでもない剣幕でまくしたてる天真とは逆に、珍しくイノリや頼久は大人しく…というか、まだ呆然としていると言った方が正しいか。
「天真、私を殴りたいかい?」
突然、友雅が天真の方を見たかと思うと、そう尋ねた。
「構わないよ。殴られても仕方ないことを、八葉としてやらかしたのは事実だ。それに、殴られて目が覚めるのであれば、こちらから頼みたいくらいだ。」
そんなことで、目覚めるなんて無理だけれど。
気付いたときから、気持ちは膨張し続けるばかりで、後戻りなど出来ないところまで来ているのだと、充分に分かっていることだけれど。
「そう簡単なことではない。」
畳み掛けるように、泰明がそうつぶやいた。
「それじゃ、私は消えるとするかな」
友雅は、その場から立ち上がった。背を伸ばすと、彼の身長なら部屋からあの橘の花が見えた。
この屋敷にはわずかしか咲いていない白い花も、屋敷に帰ればどこにいても否応なしに目に入る。
甘くて愛らしい小さな花…その花びらが舞うたびに、この時を思い出すことになるのか、と思うとこれまた厄介だな、と友雅は思った。
そうして、更に忘れられなくなるに違いないのだ。
「神子の気を乱した曲者は、退散するよ。私も、少し心の中を冷やす時間が必要らしいからね」
----なんて、心を冷やす術なんて、全く知る由もないのに。
「頼久…」
友雅が消えたあと、藤姫がぽつりとこぼすように頼久の名を呼んだ。
「今…友雅殿は…何をおっしゃっておりましたの………?」
尋ねられた頼久は、答えに戸惑った。
何て答えればいいのだろうか…というよりも、うっすらとここにいる誰もが、既に気付いているに違いない。
「友雅さん…ホントに…本気で……あかねちゃんのこと……?」
詩紋がつぶやいた、その言葉こそが、全員心の中で同時に思い浮かべた言葉だった。
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