恋愛論理

 第21話 (2)
初夏の季節は、日が落ちるのも遅い。実際は、もう随分と遅い時刻なのかもしれないが、下り道から遠く望む山々の方向は、まだうっすらと明るさを保っている。
かと思えば、見上げた頭上に月は上がっている。
この月を明るいと感じるようになれば、もう夜だと思っても良い。だが、まだそんな気分にはなれない。

昼間の草いきれが、まだあちこちに残っている。
ゆっくりと帰路を辿りながら、今日の事をもう一度考えてみた。
「どうしたものかねえ…」
答えは、まだ出て来ない。
潮は何も教えてはくれなかった。ただ、"貴方次第だ"としか言わなかった。
素直な心で接すれば良い。
そう言ったが…そもそも素直にとはどういう事なのだろう?
それでいて、後はまた考えれば良いとは、他人事とは言えど無責任なんじゃないのか、と言い返したくもなる。
が、結局は自分の心の問題である。他人に答えを依存することが間違いだ。

…そう、確か自分もそう言ったことがあったじゃないか。
答えは自分しか出せないものなのだと、彼女に言ったことがあったじゃないか。
それが今は、自分に言い聞かせる言葉となって戻って来るなんて。おかしくて笑いがこみあげてくる。
「自分しか答えは出せない…か。我ながら厳しいことを言ったものだな。」
振り返ってみて、その難しさが痛い程分かる。
自覚症状のなかった恋というものに、気付いた時になって言葉の意味を知る。
誰かに指示されるままに動けば、きっと楽なはずなのに。なのにそうもいかないのが、恋の手強さというものか。

まずは、明日彼女に会って…何と切り出そうか。花の一輪でも手折って行けば、きっかけくらいは作れるだろうか。
あとはその時になってから。
潮の言葉が繰り返しよみがえってきた。

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屋敷に戻ると、三人の侍女が入口まで迎え出た。
その中の一人である古参の御津が、友雅の剥いだ衣を受け取る。そして寝殿に向かう彼の後を続きながら、口を開いた。
「殿がお出かけの間に、土御門の神子樣方がお越しになられました」
「神子殿がここへ?」
寝殿の蔀を開けて、夜風を部屋の中へとくゆらせる。しばらくは香も焚かず、橘の花の香りを楽しむのが良い。
「左近衛府の方へお出かけになられたそうですが、非番だということでこちらまでいらして下さったようで。留守だとお答え致しましたら、こちらを殿にお渡し下さいとのことでお預かりしております。」
御津はそう言うと、部屋の隅の棚に置かれていた、小さな箱を持って友雅に差し出した。
朱に染めた業平格子の布に包まれて、手のひらに乗る程度の大きさの箱は思った以上に軽い。
結んだ布を解いて中を開くと、籠の小箱が出て来た。その中には、淡い色をした甘い香りの生菓子のようなものが入っていた。
「あら、可愛らしい。これは…杏の香りがいたしますわね。神子様の手作りでしょうか?」

小さな花のように色付いた菓子は、爽やかな香りを漂わせる、どこか甘酸っぱい瑞々しい香りだ。
ほのかな色は、まるで彼女の頬の色のようで。
「生菓子のようですから、早いうちにお召し上がりになった方がよろしいですわね。何か喉を潤すものを、ご用意致しましょう。」
そう言って御津は腰をあげ、厨房へと姿を消した。


すれ違いか。
普通なら少しは残念な気もするが、今日は丁度良いと言える。
まだ、気持ちの整理が出来ていないからだ。
今となっては、昨日までのように彼女へ近付くことは出来そうにない。おそらく、手を伸ばした時点で何かに気付くはずだ。
"龍神の神子"ではなく、そこにいるのが一人の少女だということに。
そしてその少女は、自分にとっての特別な女性なのだということに。

ただ一瞬の、楽しみを分かち合うだけの相手ならば、後々の展開まで気に留める必要なんてないのに。
お互いに理解し合って、今だけを楽しめば良いと思いながら、そうやって過ごして来たけれど、今回は別だ。

その時だけの、触れあいでは満足出来ない。
会えば、また会いたくなる。触れれば、また触れたくなる。その繰り返しが何度でも続く。そして、離れたくなくなる。
「厄介だな……」
あかねの持って来た菓子を一口かじると、ほのかに甘くて酸味の刺激があった。
甘いだけじゃないのが、本当の恋であるのなら…きっとこんな味なのかもしれない。

+++++

一体、何日寝不足が続いているんだろう。少なくとも、二日続きであることは確かだ。
会えばきっとまた戸惑うだろうから、昨日の事はちょっとだけホッとしたのも事実ではあるけれど、何となく寂しい気があることも間違いない。
それに、昨日作った菓子は友雅の家の侍女に預けて来たけれど、食べてくれたんだろうかというのも気がかりだ。
特にこれと言って連絡はないし、それか…または帰って来なかったなんてことは……あまり考えたくない。理由は何であれ。

梅雨の時期とは思えないほど、雨の気配のない朝だった。
少しだけ緑に湿り気があるのは、夜露のせいだろうと藤姫は言った。
「神子様、本日はどうなさいますか?」
いつものように、彼女が尋ねる。
昨日は臨時休業みたいなことをしてしまったが、さすがに二日続けてはそんなこともしていられない。
まずは誰と一緒に出掛けるかを決めるのだが……。
「まだ、誰も来ていないよね?」
「ええ。少々お時間が早めでらっしゃいますから。おそらく、早くてもあと一刻ほどしてから、どなたかがやって来られるのではないかと。」
誰が来るかは分からない。友雅が…来る確証はない。
来て欲しいような、欲しくないような。相変わらずどっちつかずの、ふらふらした気持ちに自分でも惑わされてしまう。
「もう少し、待っていてもいいかな?」
あとしばらく様子を見てみたい。
早めに決めて、そしてまたすれ違ってしまうのも…やっぱり何となく避けたい気がするから。
藤姫は快くうなづいて、あかねの言葉を受け止めた。

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結局の所、やはり足は自然とそちらに向かってしまうのだ。
いつもの道順を、ゆっくりと牛車は進む。吊香炉の中から、侍従の香りがゆらめいている。
もどかしさを抱く心とは裏腹に、青い空が眩しく広がる朝。小鳥が横切る際にさえずりを残す。
「到着いたしました」
一日やって来なかっただけなのに、随分と久しぶりに見えるこの藤色の屋敷の門前で、軽く友雅は息を吸い込んだ。

自覚はしたつもりだ。だが、それは自分だけの答えであって、彼女がどう考えているかは分からない。
想いを伝えてどうなるかなど、見通しのつかないものに気を急くつもりはないが。
だからと言って、このまま閉じ込めてしまっては、意味の無いものとして消滅してしまいそうで、それもどこか腑に落ちない。
一体、どうすれば彼女を面倒なことに巻き込まずに、自分にとって最良の答えが出るのだろう?

これでもかというほど、多くの花を付けて枝垂れる藤の花は、まるで雨だれのように見える。
雨の降らない、名前通りの水無月の一日。
新しい朝は、いつもどおりに土御門から始まる。
裏庭を抜けて、彼女がいる母屋に向かう。淡い紫の花をかき分けるようにして。
進む足は止まらない。解決策もなにも、まだ見つかっていない想いを抱いたままで。
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Megumi,Ka

suga