恋愛論理

 第21話 (1)
あかねの休息が早めに決定したため、左大臣より直々の使いを頼まれた頼久と天真は、朝から出掛けてしまって戻る気配はない。
時は正午に差し掛かり、ゆっくり流れた雲間から光が射し始めている。

詩紋と共に、出来上がった菓子を包んであかねは出掛けることにした。
まずは、町の鍛冶屋へ。イノリに手渡すだけのつもりだったが、いつのまにか牛車にはイノリ自身が乗り込んでいた。
続いて仁和寺へ。御室桜のない寺は少し殺風景にも思えた。
永泉は丁度留守のようだったが、住職に言づてを頼んで寺を後にした。
「で、次はどこに行くんだ?」
道中に菓子をたいらげてしまったイノリが尋ねた。
「えーっと…大内裏に行ってみる?治部省に行けば鷹通さんもいるだろうし、陰陽寮には泰明さんもいるかもしれないよ。」
詩紋が答えた。
大内裏に行けば、ほとんどが事足りる。八葉の半分ほどが大内裏勤めであるからだ。
広大な敷地内であるけれど、散歩がてら歩き回るには丁度良い距離にそれぞれの勤め先がある。

牛車は、一路大内裏へと向かっていた。少しごつごつとした近道を通り抜け、朱雀門が見えて来る。
「あ、そうだ。左近衛府に行ってみれば友雅さんもいるかもしれないね。」
余分の菓子をイノリに差し出しながら、詩紋が言う。
「友雅、いるかねぇ?ただでさえフラフラどっか歩いてるヤツだしなー」
「うーん…帝に呼ばれたりしてたら、内裏にいるだろうから会えないかもしれないね」

二人の会話を耳に入れながら、あかねは手元にある小箱を両手で抱えていた。
赤い業平格子の布で包んだ小さな箱に詰めた菓子は、彼の分にと用意したもの。
彼が居たら、面と向かってこれを差し出せば良いだけのことなのだけれど……その時が今から気が気でならない。
会ったらどんな顔で話せば良いんだろう。
いつものように話せばいいのだ。もちろんそんなことは分かっているのだが、その"いつものように"が思い出せない。
今まで、どんな風に話してた?どんな顔で彼を見てた?
ついこの間のことが、思い出せないでいる。だから、これからのことが分からない。

全部、たったひとつの想いのせいだ。
自覚してしまった、この気持ちのせいだ。
恋って、こんなに戸惑うものだとは知らなかった。
今になっては、豊矩に言った強気な発言なんて…二度と言えない。

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「詩紋殿は本当に器用な方ですね。このような美しい菓子は初めて見ました。」
箱を開いた鷹通は、それらを興味深く眺めながら微笑んで礼を言った。
同僚たちも集まって来ては、珍しいものに興味津々の様子だ。
鷹通の温情のせいだろう、金色の髪と青い目をさらけ出しても、誰一人として訝しげな視線を投げ掛けたりはしない。それが詩紋はホッとした。
「あの、よかったら皆さんもどうぞ。」
その一言を待っていたかのように、彼らはこぞって菓子に手を出した。
「おお、見た目もさることながら、味も美味ときてる。是非うちの侍女にもこしらえ方を伝授してもらいたいものだ」
「アンタたち、お貴族様のくせに行儀悪いぜ?」
イノリの失笑を買いつつも、治部省内は賑やかな空気に包まれた。

「何をしている」
突然、緊張の糸が張りつめたような声がした。
「泰明さん!丁度良かった、これから陰陽寮に行こうと思っていたところで…」
「知っている。神子の気が近いと気付いたからここに来た。」
現代では不思議なこと、と半信半疑に捕らえられることも、この京では日常的に起こる自然現象の一つに思える。
馴染んで来ているのだ。この世界に。
いずれまた、ここを離れて元の世界に戻るのは承知の上で、感覚が徐々に京というものに同化していっている。

そうだ。少なくとも、そう遠くない未来に、あかねたちはここを後にする。
もう二度と、ここにやって来ることはないかもしれない。今、こうして当然のように話し合える鷹通や泰明とも、いずれは会えなくなる。
同じ時間で生きられなくなる。
ただ、元に戻るだけのことだと分かっているけれど…。生まれ育った世界に戻り、これまでと同じように天真や詩紋たちと学校に通う日々が戻るだけのこと。
それなのに、何だか気分が複雑だ。
思い出すたびに懐かしいと思った、あの世界が、今はそれと同時に…ここを離れる時を考えてしまう。
そして、自分たちが消えたあと、この世界はどうなっていくのかと。

時が経てば、記憶は薄れて行く。そうして、消えてしまうことも少なくない。
思い出せないほどに映像はかすんで、こんなに鮮やかな現実も…過去となって消滅するかもしれない。
未熟なばかりの龍神の神子がいたことも、数年経てば人々の記憶から消えるのか。

………彼も、忘れてしまうだろうか。


「あかねちゃん、そろそろ行く?」
詩紋が肩を叩いたので、ぼんやりした意識がやっと鮮明になった。
「え?これから、どこに行くの?」
「さっき言ってたじゃない。左近衛府の詰所に行ってみようって。友雅さんが来てるかもしれないからって。」
どきどき、鼓動は静かに動き出す。いつもとは違う、ちょっと重いリズムで。

「友雅はいない」
さっきから菓子をじっと眺めたまま、まだ食しないでいる泰明が言った。
「今日は非番だと言っていた。帝からの呼び出しもない。少なくとも、この内裏内には友雅の気はない」
「そうなんですか…」
なんとなく、ホッとした。顔を合わせなくて済んだから。
いつまでこんな調子が続くんだろう。会える時間だって、限界があるというのに。
いずれは会いたくても、会えなくなるのに…こんな状態じゃ時間が無駄になってしまう。
「じゃあ、帰りに友雅さんのお屋敷に寄って行こうよ。もしいなくても、お屋敷の人に預ければ大丈夫だろうし。」
「あ…そう…そうだね…うん」

分かっていても、簡単に気持ちは整理できない。
それは、恋と同じことだ。

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華やかさの点では土御門家に劣るとはいえ、友雅の屋敷は名前通りの白い橘の花に包まれて、優雅な香りが漂っていた。
白く小さなその花は、決して目を惹くほどの存在感を持っているわけではないが、こうしていっせいに咲き誇るとなかなか圧巻だ。
静かな屋敷の門をくぐり、中から侍女の一人が迎え出た。
「主は今朝早くお出かけになったまま、まだお戻りになられておりません」
客人に対して申し訳なさそうに、彼女は顔を伏せがちにそう答えた。
「どこに出掛けるとか、聞いてませんか?」
「……いえ、何も。ただ、共を連れずに馬でお出かけになられましたから、そう遠いところへ出掛けたのではないと思われますが…」

いつ、戻って来るんだろう。そして、どこに出掛けたんだろう。
友雅が出向く場所なんて、あかねたちが知る由もなく、それに彼の事であるから、思いつく場所なんて限りなく多方面に渡るに違いない。
そこをすべて回ったところで見当は付かないし、だからと言ってここで待たせてもらうわけにもいかないし。
「あの、それじゃ……これ、友雅さんが帰ったら渡してください。」
あかねはずっと手にしていた小箱を、侍女の前に差し出した。
友雅がこれを手にする頃には、もうあかねのぬくもりなど残っていないに違いないけれど。
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Megumi,Ka

suga