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恋愛論理
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| 第20話 (1) |
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明らかに寝不足だ。頭の中が、靄が掛かったようにはっきりしない。
意識は乏しく、身体にも力が入らない。誰でも一目瞭然の不調状態だ。 「神子様…今朝はご容態が勝れないようですが、御気分でも悪うございますか?」
朝餉の席でさえぼんやりしているあかねに、藤姫が心底怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。 「いや、ちょっと寝不足で…何か眠れなくって、夕べ」
目をこすりながら、湯気の立ち上がる粥の椀を手に取る。溶けそうなほど柔らかな口当たりが、自然な甘さで舌を暖めていく。
一晩中、侍従の香りが気になって眠れなかった。
こっそり香についた火を消してみたりしたのだが、既に立ち上ってしまった香りは空気に溶け込んでしまい、部屋中にかすかな残り香として消えることはなかった。
逆に、炊いていた時よりも薄らいでしまった香りの濃度が、丁度友雅の衣に染み込んだ香りと同じくらいで、更にあかねの脳裏に鮮明な記憶ばかりが蘇ってくる羽目となってしまった。
起きていれば、色々なことを考えてしまうし、眠ってしまえば夢の中で友雅に逢ってしまいそうだし。
夢は自由が利かないだけに、どんなことが起こるか予想できないのが怖くて。
というか、自分がどんな行動を起こすかわからないのが怖いのだ。
意識のある現実の世界なら、何とか我を抑制することは可能だけれど、夢の中の自分は自分であって自分ではない。 もしかしたらそこに、本心があるのかもしれないと分かっていても…落ち着かない。
「今日はお出かけをお休みしてはいかがですか?」
顔を上げると、藤姫の顔がそこにあった。
「色々な事がお有りでしたから、お疲れになっているのかもしれませんわ。一日、おくつろぎになられるのも宜しいかと思いますが?」
そういえば、柚芽たちのことで随分と奔走したものだ。
土御門と、柚芽の母がいる僧院の行き来に加えて、お互いの橋渡しにあくせくした日々だった。それも、もう一段落。 「そうだねえ…柚芽さんと豊矩さんのことで、大わらわしてばっかりだったし…。一日くらいのんびりしてもいいかな」
「ええ、そうでございますわ。神子様のお体に差し障りがあってはなりません。本日は屋敷でゆっくりお過ごし下さいな」
うん、そうしよう。たまにはこういうのも良い。忙しい時はとことんまで忙しいのだから、休めるときは休まなくちゃ。
先はまだ長い。柚芽たちのことが終わっても、こなさなければいけないことが他にも山積みなのだから。
「ねえあかねちゃん、出掛けないんだったら、僕と一緒にお菓子づくりしない?」
「お菓子?」
隣に座っていた詩紋が、まぶしいくらいに柔らかな黄金色の髪の奥から、澄んだ瞳でこちらを見ている。
「女房さんたちに色々教えてもらって、何となく味のつけ方とか分かってきたんだ。お砂糖とかなくても、甘いものも作れるみたいだし。ね、気分転換にやってみない?」 「そっか…良いね、それ。何か楽しそう。」
昔は菓子づくりも結構チャレンジしたものだが、この京でもそれなりの調理は可能なようだ。
確かに薄味ではあるけれど、朝夕の食事に並ぶものには味がついているし。住めばそこに順応できる文化や知識が、自ずと身に付いて行くものなのだろう。
+++++
さわさわと、青い笹の葉が揺れる音がする。
鮮やかな緑色の苔が生えた、岩の間を水が流れて行く。
自然の音しか存在しない、都の喧噪から遠ざかった僧院。
「あらまあ、今日はどのような御用でいらしたのかしら?」
一人の男が尼僧院を尋ねて来た。それなりの階級を持つ彼だが、今日は共も付けずに一人でやって来たらしい。
入口近くに毛並みの良い馬が、一頭鼻を鳴らして身を寄せているのが見えた。
「たいした用事があるわけでもないんだけれどね」
潮はホウキの手を止めると、いつものように穏やかに微笑んでみせる。
「まあ、あれこれと口煩く詮索するのは止しましょうか。こんなところまでやって来るくらいなのですから、のんびりしたい気もあるのでしょう?」
「貴女は実の母以上に、母らしいね。何も言わなくても、こちらのことを見透かしてしまっている」
「私があなたの母ならば、戯れの色めき事は程々にしなさいな、と小言の一つも言っているくらいですよ」
互いの顔を見合わせて、ふっと声を出して笑った。
頭の回転が早くて、気の利いた返事がすぐに戻って来る。物腰柔らかな言葉にも重点を捕らえていて、言い返すチャンスを失うくらいのテンポの良さが自然だ。
「貴女には何も言い返せないね。しばらく、ここで一人休ませてもらえるかな?」 「尼院なのですけれどもねえ…まあ、一時的に私の息子になるということで、良しとしましょうか」
掃き掃除を中断し、潮は院の中へ先に上がって行った。
「そういえば、柚芽殿と豊矩殿のことだけれどもね。どうにかお互い、気持ちが通じ合ったようだよ」
蔀戸の影が、床に映る。緑色に包まれた庭を背にして、二人は茶を挟んで向かい合った。
「いろいろと、まあ手こずった事もあったけれども。柚芽殿も豊矩の想いに心打たれた様子でね。そう遠くない時期に、貴女にも良い知らせが届くと思うよ」 「……そうでしたか」
静かに目を伏せ、潮は言葉少なにうなづいた。ほのかに暖かな笑みをたたえて。
尼僧となって世を捨てた立場とは言えど、母と娘の絆は永遠に途切れることはない。娘にとって、相応しい相手が現れたという話を聞いて、平然としながらも嬉しさを隠せないのは当然のことだ。
「その時は貴女もこの山を下りて、久々に賑やかな雰囲気を楽しむと良い。ほんのひと時、母の姿に戻ったところで、八百万の神々も文句は言わないだろう。」 「それはどうでしょうかねぇ…」
つぶやいた潮の瞳は、離れた場所にいる柚芽の姿を捉えるように、遠くまで静かに伸びていた。
少しの間、外からの音と光りに意識を傾けていた。
静寂の中に広がる水音と風の音が、自然の雅楽を奏でているかのようだ。
「少将殿には、随分とお手を煩わせてしまいましたわね。八葉のお役目がお忙しい中、時間を取らせてしまって。」
「いや、逆に私の方が楽しませてもらったよ。そう四六時中、八葉のことばかり考えていては気が詰まってしまう。世話焼きもたまになら、面白い発見があって良かったよ」
思えば、柚芽たちの話が結論まで到達するまでの間、八葉としてのことや鬼たちのことについて考えることは、ほとんどなかった。
幸い、京の穢れが落ち着いていたし、アクラムたちの動きも目立つ事はなかった。そのせいか、日々は身近なところで慌ただしく流れて行っただけで、切羽詰まる程の緊張感は以前よりも緩やかだった。
「あなたが他人におせっかいを焼くなんてね。本当に変わるものですわね。」
ふふっ、と鈴のような声で潮が笑った。
「昔から、何かに熱を入れるようなことはしなかったのに。ましてや、私の娘の事とはいえ、他人のことに奔走するなんて珍しいこと。」
「愚劣な部下を持って苦労されたであろう、彼の方への恩返しとでも思ってもらえれば光栄なのだけどね」
"友雅がその気になれば、あっという間に私との立場が逆転してしまうだろうよ"
友雅の恩師にも当たる左近衛府大将、つまり潮の夫である彼が、生前口癖のように繰り返し言っていた言葉だ。
弓、馬術の武官としての技術と、内裏に勤める立場として必要とされる歌詠みや雅楽の技術。どれを取っても群を抜いていて、先見の明も鋭さを持っている。
そこに、宮中を渡り歩くに相応しい物腰と風貌が加わったとしたら、彼の右に出る者は到底おるまい。
彼の家柄はそれほどの地位があるわけではないが、中流の公家であっても左右大臣まで昇り詰めることも出来る時世。 そんな"ひょっとしたら"が、不可能とは言えないだけのものが揃っているにも関わらず……無欲すぎる友雅に、大将である彼はどれほどはがゆく思っていたことか。
真剣に取り組んでいたとしたら、未だに少将なんて位で収まるものではないものを。
「本当に、変わられましたね。」
潮のつぶやいた言葉に、友雅は少し首をかしげる。
「少し前の貴方とは見違える程、変わられてしまって。これも八葉のお役目のせいかしら?」 「…どうも、意味が分かりにくいのだが?私はこれと言って、変わったなどという自覚はまるでないのだけれど」
どうやら、まだ彼は気付いていないらしい。彼を若い頃から知っている潮から見れば、一目瞭然とも言える変化に。 「貴方は本当に、ご自分の事になると無頓着というか無関心というか……。肝心なところで鈍る癖があるようですわね」
ふうっと呆れたようにため息をついて、潮はそっと瞼を伏せた。
経験はいくら豊富でも、大切な基本がまるで分かっていない。いや、それ自体の経験がないのであれば、仕方ないと言うべきか。
遊びの時間は、もう終わりにしても良い時期だ。
やっと、彼の心の扉を開く鍵が、目の前に現れたのなら尚更のこと------------------。
「そろそろ、貴方も本当の恋に向き合っては如何?」
暖かい潮の視線が、友雅を真っすぐ見た。
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