恋愛論理

 第19話 (3)
「それで、柚芽さん…豊矩さんのこと…」
戸の裏で少し声を潜めながら、あかねはこれまでずっと気になって来た事を、単刀直入に聞いてみる事にした。
豊矩の本心を聞いて、柚芽の中で何か変化が起こったのか。それだけが聞きたい。
そして彼が、彼女の中でどんな存在になったのかを本人から聞きたかった。

柚芽はしばらく言葉を詰めらせて、何かを考えていた。
若干困った様子を見せたが、深刻な表情ではなさそうなので、まずはひと安心ということか。
「私、これまで一度も豊矩殿に対して、特別な感情で顔を合わせる機会がございませんでした。
頼久殿と並んで、武士団を担って頂いている優秀な方という事しか存じておりませんでした。」
土御門家の武士団の若頭である頼久と、並んで実力共に信頼の厚い豊矩の噂は他家にも名高い。
せめてどちらか一人でも、我が家に迎えたいとの会話も絶えないことで、彼の評判がどれほどであったか分かるというものだ。

そんな彼が、自分を特別な目で見ていた。ずっと前から、今の今まで。
言葉の中に刻まれた想いは、彼の姿勢そのものと同じようにまっすぐで、何一つの濁りない彼自身とも言えるもの。
大きくて強く、それでいて豊かな心。それは柚芽だけが手に触れられるもの。

「正直な気持ちを申し上げますと…まだよく分からないというのが正しいかと思います。豊矩殿が私のような端女に、そのようなお気持ちを抱いて下さっていたこと自体が、
まだ現実感のないもので…」
謙遜ではなく、本心から彼女はそう答えたが、あかねにとっては柚芽ほど『端女』なんて言葉が不釣り合いな女性はいないと断言出来る。
家柄だってそれなりのものであり、この穏やかな美貌を備えた容姿に加えて優雅な物腰。そこんじょそこらのお姫様だって、敵わないと思うのだが…まあ、その奥ゆかしさが柚芽の魅力でもあるのだろう。

しかし、現実感がない…というのも微妙な答えだ。
「豊矩さんの気持ち、迷惑でしたか?」
「いえ、そんなことはございません。豊矩殿のような殿方にお心を傾けて頂いて、大変光栄でございます。ですが、男と女の恋沙汰につながるかと言うと…
いささかよく分かりません」
確かに、それまで意識した事のなかった相手から、告白されたなら動揺するのは当然だろう。急に『どうですか?』と言われても困るのも理解出来る。
「…私もまだ、未熟な女でございます。恋の一つも…殿方との心の通い合わせも、経験したことのない女です。だからこそ、今の自分に戸惑いを覚えているのです。」
「うん…そう…だよね…。でもね、豊矩さんはずっと、ホントに柚芽さんのこと好きだったの。でも、言い出せなかったんだ。それは、柚芽さんに失恋するのが怖かったからだと思うんだ」
片思いの理由は、古今東西どこでも同じ。
言ってしまえば楽になる。言わなければ先に進む事は出来ない。そう分かっているけれど、受け入れてもらえないときのショックが怖くて、その一歩が踏み出せない。
誰でも一度は経験する、そんな切なくて…だけどどこか幸せな時間。
片思いというのは、そんなもの。あかねも学校で、何度となくそんな話題ではしゃいだことがある。
「豊矩殿のお気持ちは大変嬉しいことです。ですが、私は……言葉が見つからないのです。何とお答えすれば良いのか、この不思議な感覚の意味が何なのか、それさえ分かれば…」
「不思議な感覚?」
こくんと静かにうなづいて、柚芽は遠くに視線を流した。その先には、横たわる豊矩の姿がある。
「豊矩さんの気持を聞いたとき、嬉しかったんですよね?」
「ええ。光栄だと感じました。ですが…その後の気持を、どう表現すれば良いのか…。敢えて言うとすれば、胸の奥がずっと熱を帯びている、そんな感じでしょうか」
「熱?」
「いいえ、熱と言っても決して熱いものではないのです。じわりじわりと、そこだけが暖かさを失わずにいるというか。まるで春の日差しが差し込んでいるみたいな…」

柚芽の戸惑いは消えない。だが、あかねには迷いなどなかった。
第三者だから、率直に状況を見据えることが出来る。確信出来る彼女の変化を、あかねはそこに見つけた。

「柚芽さんっ!」
あかねが咄嗟に、彼女の手を両手でしっかりと掴んだ。
「…それです!それが…恋しているっていうことですよ、柚芽さんっ!」
「こ、恋……?」
力を込めた手で握りしめられる自分の指先が、馴染みのない言葉の響きで動きを止める。
「そーです!それ以外の何ものでもないです!だって、どきどきしてるでしょう?熱が、ずっと引かないでしょう?」
我が身に起こった変化を、柚芽は冷静に思い起こしてみる。
心音は…少しだけ早い。だけど、気になるほどの乱れはない。熱は……熱というよりも、ほのかな暖かさ。まるで、室内を照らす灯火の明かりの色のよう。
それが恋?
「ただ、今は豊矩殿のお側に着いて差し上げたいと…無性にそう感じて…。」
「そばにいたいって思うのは、少なからず相手の人のこと好きだから、ですよ?例えば、豊矩さんのそばについていて、どうでした?」
会話を交わす相手もなく、眠る豊矩のそばにいた数時間。
「…静かで穏やかな心地でした。ただ、その時もずっと…」
「胸の奥がじわーっと暖かくなってた?」
そう。確かに、静かだけれど胸の奥では、小さな灯が燃え続けていた。それらから漂う、優しげな暖かさ。今でもずっと、ここに存在している。
豊矩の気持ちを知ったあと…それはいつのまにか、柚芽の中に芽生えていた。

「これが…恋…なのでしょうか?」
「客観的に私の目で判断すれば、間違いないと思います。好きな人と一緒にいられるのが幸せ、って柚芽さん言ってたでしょ?そのほわーっとした暖かさを感じて、幸せだな、って思いません?」
幸せの温度。もし、そのようなものがあるとしたら、それはきっと激しい熱さでも、凍てつくほどの冷たさでもない。
丁度体温よりも少し高めの、微熱のような温度。
そう、まるでこの、胸の温度のような。
「ねえ柚芽さん、一歩豊矩さんに近づいてみませんか?もっと色んなことを知り合えると思うし、気持ちの整理もつくかもしれないですよ。せっかくの出会いだもの、このままの距離じゃ勿体ないじゃないですか。」

………好きになってくれた人が、運命の相手であったならば、そんな幸せなことはない。
………そして、その可能性は絶対にゼロじゃない。ゼロじゃない限り、出会いは必ず存在するのだ。もしかしたら、すぐ近くで。
あかねは、友雅との会話の中で豪語した、自分の理論を思い出した。夢物語、空想でしかないものだと思いたくない。
赤い糸というものは、この世にあるのだと信じたい。

「神子様…本当に、神子様には敵いません」
花のように微笑む柚芽が、少し力を入れて自分からあかねの手を握った。
「……私と豊矩殿の絆がどれほどのものであるか、分かりかねるところではありますが……もしもご縁があるのならば、それを大切に育てたいと今は思いますわ」
急がなくて良い。少しずつ、噛みしめながらお互いを知り合っていけば良い。いつか、相手の存在に改めて気付く時が来るはずだから。
「良かった…。私、ホントに柚芽さんたちのこと祝福しますから!ううん、私だけじゃなくって藤姫も頼久さんも、友雅さんも!」
二人の心が通じ合うことを、願いながらここまで右往左往してきたのだ。関わったすべての人は、きっとこの結果に満足しているはず。

そっと、柚芽は再び部屋の中に目を向けた。視線に気付くこともなく、豊矩はまだ眠りから覚めない。
目を覚ましたら、何と声を掛けようか。それとも、微笑みだけで気持ちは通じるだろうか。
胸の中の熱が鼓動を早めさせて、少しだけ落ち着きから遠ざかる。
なのにどこか、嬉しい。それが恋。
我が身に起こった変化を認めたとき、彼女の笑顔は蕾が開いた花のように艶やかに映った。

「恋の一つも経験のない私では、何も分からずじまいでございました。神子様だからこそ、こんな私のことをお気づきになって下さったのですね」
柚芽はもう一度あかねを見て、完璧なほどの微笑みでそう言った。
「……え?どういうことですか?」
「恋をなさっている方だからこそ、他人の心まで細やかに気付いて頂けたのではないかと」
「え?恋…って、私がっ!?」
突然の発言に、あかねは戸惑った。
自分が恋をしている…?そんな自覚、持ったことないのに、どんな根拠でそんなことを柚芽は言い出すのか。
しかも……相手は誰だと思っているんだろう。
それは、すぐに彼女の口から名前が出てきた。
「友雅殿は、色々と経験が豊富でいらっしゃるから……」
頭のてっぺんから、冷たい水をかぶったような身震いする感覚。一人の名前を聞いたとたん、瞼がぴくぴくと動き出す。
「ちょ、ちょっと待って下さい!柚芽さんっ…私は……」

あかねの目に映る柚芽の姿が、うっすらと彼女の母である潮の面影に重なった。
同じように唇が動き、あの日に潮が同じことを言った。
『神子様は、友雅殿がお好きなのですね』
母と娘が場所が違えど、あかねに向けて同じ意味の言葉を発する。同一人物が話しているかのような錯覚を与えながら。
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Megumi,Ka

suga