恋愛論理

 第19話 (1)
小鳥のさえずりが聞こえる。
かすかに日差しが差し込んで、庭の緑が一層鮮やかに色濃く変わりつつある。

「神子殿、先程は豊矩が無作法な振る舞いを致しまして、お詫び致します」
頼久は深く腰を落とし、あかねの前で頭を垂れた。
「そんなこと気にしてませんよ。逆に……あれから豊矩さんは、どうしました?」
「恥ずかしながら…別棟をお借りして、床につかせて頂いております。」
柚芽と顔を合わせたとき、派手に転げ落ちたようだったから、妙なところに傷を負っていなければいいのだが。
怪我はなかっただろうか?
「いや、それは心配ないようだよ」
声の主は部屋に入って来ると同時に、そう言ってあかねの隣に腰を下ろした。
「特に具合が悪そうな様子もないし、目立つ怪我等もしていないようだ。
おそらく、緊張が途切れてどっと疲れか何かが沸き上がって来たんだろう。意外に、安らかな顔をして眠っているみたいだったよ」
「そうですか…なら、良かった」
あかねと頼久は、ほぼ同時に安堵感のため息をついた。

女房を二人程連れて、藤姫が部屋にやって来た。
棗や栗の交菓子を盛った盆を手に、藤姫もあかね達の会話の中に仲間入りすることになった。

「しかし…友雅殿、柚芽殿のお気持ちはどうなのでしょうか?」
頼久が切り出す。
「豊矩の思いは、既に気付いて頂けたかと思いますが、柚芽殿がどのように思われているか…それが問題ではありませんか」
確かに、さっきのあかねの説得で、豊矩は気持ちを新たにして彼女への思いを再び実感したと言える。
そして柚芽も、彼の思いを知る事になった。問題は、頼久が言うように、彼女が豊矩に対して抱いている気持ち次第だ。
「お話を伺っておりますと、とても豊矩殿の真摯なお心が手に取るように伝わって参りますわ。柚芽にとっても、素晴らしいお相手なのではと思うのですが…」
幼いながらもしっかりと藤姫は、人間関係については把握出来ている。彼女にとっても柚芽は、大切な女房の一人であるから、幸せを願うのは当然と言えた。

「いや、君たちがそれほど考え込む必要は、ないんじゃないかと思うよ?」
一人だけ表情を緩ませていた友雅が、庭先に向けていた目をこちらに戻した。
「もしかして、友雅さん…柚芽さんから何か聞いたんですか?!」
期待を込めて身を乗り出したあかねを、友雅は静かな笑みで見つめ直す。
「豊矩のそばに、ずっと柚芽殿が着いている。目を覚ますまで、ここにいると言っていたからね。」
「それじゃあ……」
その場にいる者たちの表情が、一斉にさあっと明るくなった。

心のどこかで、ずっと探していた唯一の人。それは身分の高さなどではなくて、本当に自分を思ってくれる人。
肩書きや家柄じゃなく、自分を欲してくれる人。この心を、安心して預けられる人。
それは決して遠い場所ではなくて、意外に近いところにいるもの。ふと力を抜いて辺りを見回せば、そこでずっと見守ってくれていたことに気付く。
「『青い鳥』の話みたいですよね。運命の人は、すぐ近くに…って」
あかねは3人に、メーテルリンクの物語を簡単に話して聞かせた。
「近くにあるから、逆に見えない…ということか。そういう事もあるのかもしれないね。普段から近くにあれば、それに馴染んでしまって、真実に気付かないというのも
あり得る話だ。」
理想を追えば追うほどに、それらは遠い場所にあるものだと考えてしまうのが通説だ。
けれど、最後に戻ってくるのは…自分がいたこの場所。たゆたいながら、改めて元の場所を見ると、そこが一番の楽園なのだと気付くのかもしれない。
「私も…今になって、元の世界が懐かしいなーって思いますしね。朝、天真くんたちと学校に行って、勉強してお弁当食べて、下校途中にちょっと寄り道して…なんて、
別にたいしたことないって思ってましたけど…。今、こうして全然違う世界に来たら、良かったなあって思い出しますもんね」

今では遠い世界に思える、かつて身近だった日常を思い返してみて、あかねはそうつぶやいた。
頼久と藤姫も、その言葉にうなづいている。

だが……何故か、友雅だけは素直に首を縦に振ることが出来なかった。
あかねの言うことはもっともだ、と思ってはいるはずなのに、うなづけない。
その代わり、表現のしようがない小さな感情が、胸の中にわだかまりのように残った。

「だけど、元の世界に戻ったら…今度はこの京が懐かしく思えるのかもしれませんね。色々大変なことばっかりだけれど、終わったら良い想い出になるのかも」
楽しいだけの想い出よりも、ハプニングが多い想い出の方が記憶に刻まれ続ける。そんなものだ。
すると、隣にいた藤姫が、そっとあかねの袖に手をかけた。
「……でも、神子様がお帰りになられることを思うと……寂しゅうございます」
金の髪飾りが長い黒髪と共に揺れて、清々しい香を薫らせながらあかねに寄り添う。
この世界に来て初めて出会った、小さな姫君。お互いに心から信じることの出来る、かけがえの無い星の姫。
「まだ先のことだよ。これからまだまだ、大変なことはたくさんあるんだもの。だから、しばらくはまだ一緒だよ。」
いつかは離れる時が来るけれど、離れたくない気持ちは確かにある。
だから、それまでの時間を一緒に生きて、記憶に留めておきたい。良い事も悪い事も。
「神子様にはご迷惑と知りながら…藤は神子様とずっと一緒にいられたら、と…わがままなことを考えてしまいます…」
頼久はそれを聞きながら、苦笑しつつ目を伏せた。

出来れば、そうだ……彼女と一緒に。刀と力だけを信じるよりも、人を信じることを教えてくれた彼女と共に。
藤姫の気持ちは痛い程分かる。おそらく、八葉のすべてがそう感じている、と確信できる。
ここにいる、友雅もきっと………。

「友雅殿?」

頼久が名を呼んだが、彼の耳には届いていないようだった。
その視線の先は、あかねの方を向いていながらも遠くを見ていて、それと同時に彼の心までがここにはないように思えた。
「気分が優れないのですか?」
尋ねる言葉に反応したのは、問いかけられた友雅本人ではなく、あかねと藤姫の方だった。
声をかけても返事は返って来ず、その場に置き去りにされた抜け殻のように友雅は座っている。

「友雅さん!?」
やっと彼が我に返ったのは、あかねがいつもより強い口調で自分の名前を呼んだときだった。
気付くと、自分以外の3人がこちらを凝視していた。この状況を、もちろん友雅自身は理解出来ずにいる。
「具合悪いんですか?」
「…?いや、どうしてそんなことを?」
『どうして』と尋ねたいのは、こちらの方だ。いつだって、我を忘れてぼんやりとするなんてこと、友雅にはあり得ないと思っていただけに、今の彼はまるで別人のようだった。
「何か、気になることでもありましたか?柚芽さんか…豊矩さんのことで、何か…」
こちらを見るあかねの瞳を、もう一度しっかりとその視野の中に捕らえた。
至近距離で見れば見るほどに、その奥は深く澄んだ泉のようで-------落ちたらきっと、這い上がることは無理そうだ。
そう、その中に落ちたら、もう戻れなくなるかもしれない。そんな気にさせるほど、萌ゆる濃い色合いの瞳の力は計り知れない。

だが……落ちてみるのも、それはそれで構わない。このまま浮上することがなくても、またそれは楽しいことが待っているのではないか?
何故か、そんなことを考えてしまう。何故か………何故…だろう?

「友雅さん…?」
あかねの手が、その肩にかすかに触れた。
その瞬間、過剰に反応した神経がとっさに我を失って、友雅の手はあかねの手を強く握っていた。
「ど、ど、どうしたんですかっ!」
赤く熟した林檎のように、紅潮したあかねが取り乱しながら身動きを取れないでそこにいる。
予想もしなかった光景を目の当たりにして、藤姫と頼久も驚いた表情をして二人を見ていた。

落ちてしまうのも、また一興。この現世だけが真実なんて、信じる意味など、もうない。
真実がこの世だけならば---------彼女がここにいるはずがないのだから。

「と、と、友雅さんっ!」
握りしめた小さな指先から、熱を持った体温が伝わって来た。
それと同時に、目を開けるとあかねがそこにいた。

「……ああ、悪かった。ちょっとぼんやりしていて、驚いてしまったものだから」
やっと、友雅はあかねの手を離した。
そして、今までの薄らいだ意識を払い除けるようにこめかみに手を当てて、深くひとつだけ息を吸い込むと、すうっと冷たい感覚が戻って来て、やっと現実を見据えることが出来た。
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Megumi,Ka

suga