恋愛論理

 第13話
「神子殿、こちらにおいで」
「えっ!?」
いきなり腕を後ろからグッと引き寄せられた。足下が揺らいで、そのままの姿勢で後ろに倒れ込むあかねを支えたのは、紛れもなく友雅である。
「静かにね。ここから身を乗り出せば、向こうに見つからずに様子を伺えるよ。」
友雅はあかねの肩を抱き寄せ、後ろから回した両手で抱き込んだ。
欄干から少し身体を伸ばすと、丁度向かいの母屋が見えた。簀に見えるのは柚芽の姿。そして前庭に続く階に腰掛けているのは、紛れもなく豊矩である。
「何せ二人きりだからね。否応でも言葉を交わさないわけにはいかないだろう。話をしていくうちに、自然にお互いの姿が見えてくるだろう。」
遠目に見える二人の雰囲気は、賑やかさというものは感じられないが、それなりにこの状況を静かに楽しんでいるっように見えた。
「そのあとは……彼ら次第だね。」
友雅は、そう言った。


そんなことより。
密着した身体、耳元で聞こえる声、頬をかすかにくすぐる髪。あかねとしては、柚芽たちのことよりも今、自分のおかれている状態の方が気に掛かる。
さっきもそうだったけれど、すぐに友雅は悪戯気分で自分に触れてくるから、いつだって気が抜けない。
そして、そのたびにすべてが緊張に包まれて、心音が飛び出てしまいそうになる。
そんなことになっているのを…多分本人は気付いていないんだろうけれど。
自分ばっかりこんなに取り乱して…文句の一つも言いたいところだけれど、それもまた軽く笑い飛ばされてしまうんだろうと思うと、何も言い返せない。


「神子殿は、何故ずっとこんな袿姿でいられないのかな?」
「…は、はいっ!?」
柚芽の方を気に掛けていたと思っていた友雅が、突然にこちらに話題を振ってきたので焦った。
「出掛ける時は仕方がないにしても、物忌みなどで屋敷の中にいる時くらいは、こんな姿で居ても良いんじゃないのかい?」
きめ細やかな袿の袖をそっとつまむ。
「だって、動きにくいし、重いし……疲れちゃうじゃないですか」
普通の振り袖だって、着るのはせいぜい正月程度。それくらいしか和服に触れたことがないというのに、しかも袿となったら十二単のようなものである。それこそ今まで着たこともない。それを日常着に出来るわけがなかった。
藤姫には何度も薦められるが、やはりしっくりこなくて着ることなど滅多にない。
「残念だねぇ。こんなに綺麗に似合っているのにね…勿体ない。」
ぱさり、と衣擦れの音がする。
「でも、神子殿のこんな姿を見られるとは、やはり宴に招いたのは正解だったね。役得…というものかな?」
「そ、そ、そんなこと言って、いつもからかってばっかりっ!」
いとも簡単にさらっと口にする友雅の言葉は、くすぐったいくらい甘すぎなのだけれど、それにまた敏感に反応してしまう自分が悔しくもあるし、だからと言って居心地が悪いわけでもない。
何だか友雅の前では、調子が狂いっぱなしだ。
真面目に向かえると思えば、こうしてからかわれて。
なのにどこか……暖かくなって。ホントにおかしい。

「謙遜することなんかないよ。今夜の神子殿の姿は本当に愛らしくて、まるで春に咲く花のように……………」
友雅の指先が、あかねの頬に伸びようとした、その時だった。


「あの…大変申し訳ないのですが」

はっとしてあかねが声のする方を向いた。友雅は、伸ばしかけていた手を折った。
そこにいたのは、さきほど様子を伺っていた柚芽だった。
どことなく申し訳なさそうに目を控えめにして、彼女は部屋の隅に小さくなっている。
「どうかしたのかい?豊矩も楽しんでおられるかな?」
友雅が尋ねると、柚芽は苦笑いを浮かべながら答えた。
「あの…実は豊矩殿が、酔いつぶれてしまわれまして…………」

「………は?」

あかねは声を出したが、友雅も聞き返したかったに違いない。
「もしかして、お酒…お強くなかったのでしょうか…。私、ついつい調子に乗って薦めてしまいまして…。」
予想もしなかったこの状況。どうやって取り繕えば良いだろうか。
好きな女性の前で、この失態。これでは恋の花が咲くどころか、つぼみのまましぼんでしまう。
「それにも増して、如何なさいましょう……?豊矩殿は酔っておられますし、共もなしに屋敷へ戻ることは不安でございますわね」
ああそうだ。そういう問題もあったのだ。
共をするはずの男がこれでは、帰るにも帰れないということか。他人の恋路に加えて、更に問題が積み重なってしまった。

「じゃあ、今夜はここに泊まっていくと良い。明け方には豊矩の酔いも醒めていることだろうしね。」
何でもないように友雅が言った言葉に、あかねも柚芽も驚きを隠せない表情で振り返った。

「友雅殿、そのようなご迷惑になるようなことは……」
柚芽の困惑した顔を見た友雅だったが、屋敷の主である彼の方は平然としている。
「別にこちらは構わないよ。所詮私と何人かしか住んでいないのだから。広さを持て余しているくらいだしね、ゆっくりしていけば良い。柚芽殿は神子殿と同じ部屋を用意してあげるよ。勿論豊矩にも部屋を作ろう。」
断るのが礼儀というものだろうが、現実問題として状況は友雅の誘いを受け入れるしかない。
おどろおどろしいものが暗躍している夜の京を、女だけの車がひた歩くのは危険だと誰もが承知だ。
どうする?と言った感じで柚芽に目配せを送る。あかねの視線を受け取った柚芽も、まだ少し困っているような感じではあるが、選ぶ答えさえないとあらば、この現実を認めざるを得ない。

「友雅殿にはご迷惑をおかけ致しますが、今宵一晩お泊め頂けますよう、何卒よろしくお願い致します」
三つ指をつき深く頭を下げた柚芽を見ると、友雅はゆっくりとその場から立ち上がった。
「それじゃ、部屋を用意するように頼んで来るよ。支度が済んだら、部屋に案内しよう」
そう言い残して、友雅は姿を消した。


再び二人きりとなった。しかし、今度は気の知れた女同士だ。
「柚芽…さんっ!」
あかねは慣れない袿のすそを引きずりながら、彼女のそばに駆け寄った。
「仕方がありませんわね。せっかく友雅殿が申してくださっているのですし、今宵はこちらにお世話になることに致しましょう。後ほど、そのように文を屋敷へ届けて頂きましょう。」
そう答えた柚芽の微笑みは、いつもと何ら変化がなかった。


あかねの心が揺れている原因は二つ。
柚芽は…豊矩をどう感じただろうか。最後にとんでもない失態を見せてしまったのが不安ではあるが、まずはどんな風に彼を捕らえただろうということが気に掛かる。
そしてもう一つは、今夜この屋敷で過ごすということ。
柚芽と一緒ではあるけれど、まぎれもなくこの屋敷は友雅の住む家であって………。
同じ部屋で眠るわけではないけれど、何となく意識してしまう。


鼓動は早まる。
どちらが大きく影響しているか、と言えば…………ほんの少しだけ後者の威力が強い…かもしれない。
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Megumi,Ka

suga