恋愛論理

 第12話
震えていたのは指先だけではなく、それ以上に心の振動が止まらなかった。
手にした杯に酌をしてくれているのは、澄んだ酒の色よりも清らかな笑顔を持つ女(ひと)。
常に穏やかな笑みを絶やさず、花のようにその場を和ませてくれる……。
「友雅殿に追いやられてしまいましたわ。どうやら私はお邪魔なようでございます」
やってきたとたんに、柚芽はそう言って微笑んだ。

おそらくそれは、友雅の策略の一つであったに違いない。わざと柚芽を自分のところに向かわせて、こうしてお互いに向かい合う機会をつくろうと…いうことなのだろう。
「申し訳有りませんが、他に行き場もないものですから…華やかさの彩りは添えられませんが、しばらくお酌のお相手でもさせて頂けますか?」
「……は、こ、こちらこそ…っ!私などには勿体ないくらいで…!」
柚芽が微笑むたびに、心臓が飛び出すほど激しく揺れ動く。彼女の白い指先は、そっと豊矩の杯に酒を注ぐ。

これは一夜の夢なのだろうか。
あんなに思い描いていた彼女が、今自分の前にいる。そしてその笑顔は、自分一人だけに向けられているのだ。
言葉を交わすのも、彼女の瞳に映るのも……自分。ここには彼女と自分の二人きり。
夢。まさに夢のようだ。会話することさえなかったというのに、今の彼女は手を伸ばせば届く場所にいる。声をかければ、答えてくれるのだ。


「広いお庭でございますわね」
ぼんやりと彼女に見取れていた豊矩は、慌てて柚芽の声に我に返った。
「橘の花はもうすぐ…でしょうか。あの白い花が一斉に咲き誇れば、雪景色のように美しいことでしょうね。」
柚芽の言葉に目を向けると、ほそぼそと小さな花のつぼみが見て取れる。季節が夏に向かっているという証だ。
「と、当家の…藤の花も…もうすぐ満開になります…ね」
思い切って口を開くと、柚芽は振り向いてにっこりと微笑んだ。
「そうですわね。お屋敷の藤の花は、本当に美しい景色を見せて下さいます。一面が藤色に染まって……幼い頃を思い起こさせます。」
どこか懐かしそうで、少し寂しそうな表情をした柚芽が言う。

そういえば頼久に又聞きしたことだが、彼女は父を亡くしたあとに出家した母と離れ、土御門家に来たという。一人で親と引き離されるなどとは、心細かったに違いないだろうに。
「父が藤の花がとても好きで、土御門のお屋敷にはかないませんが、それは美しく庭を彩っていましたの。確か、こちらのお屋敷にも少しお分けしたことがあったと思うのですが…どうなさったかしら。」
と言いながら、柚芽は闇に包まれた庭をゆっくりと見渡した。

…?柚芽の家から譲り受けた?友雅が……?
「あ、あの…橘少将とは古くから親しい間柄なのですか?」
「ええ。父が左近衛府の大将でしたので、幼い頃からよく屋敷に遊びにいらしてて。」
切り出したのは良いが、結構これでも動揺していたのだ。
何せ京の女性達の心を奪う技では、右に出る者などいないとさえ囁かれる華やかな貴人。そんな異名を取る友雅と親しくしているとなれば…心中穏やかではないのは当然だ。
……ここまで自分の恋路の手助けをしてくれているのに、あまり偉そうなことは言えないのだけれど。

「その頃は友雅殿は二十五〜六でしたかしら。少将になられて間もないというのに、随分と華やかなお噂が既に賑わってて。父上のお話ですと、将監の頃から噂は絶えなかったようですわ」
笑いながら彼女は幼い日々を口にする。

それにしても……そんな時期から浮いた話に溺れていたとは。どうやら友雅という男は、想像を絶する恋愛遍歴を紡いでいるらしい。
せめてその範疇の中に、彼女の姿が捕らえられていなければいいと思う。いや、本当に切実にそう思う。とにかく彼女だけは…と思ってしまう。
「そ、それでは…柚芽殿にとっても、その…そういう風な目に映った…のではっ…?」
恐る恐るで言葉もどもる。
あんな男が親しい距離にいたら、誰だって恋に落ちるのが当然…と思うと、気が気で成らない。
しかし、その割には柚芽の表情は波一つ立たずに穏やかだ。
「残念ながら、お互いに好みとは少々ズレがあったようですわね。特別な風に見ることは…全くございませんでしたわね。勿論素敵な方だとは思いますけれど。」
柚芽がそう答えてくれたので、豊矩としては少しホッとした。
だが、向こうがどう思っているかどうかははっきりしないので、完全に安心とは言えない。
「あの方は本気で恋をするような方ではありません。それもまた、あの方自身の生き方ですから何とも申し上げられませんが、私の好みとは…残念ながら違うものですから。」
微笑みを崩さずに、彼女はそう答えた。
『尊敬できるような誠実な人』=『自分だけを愛してくれる人』。頼久たちが聞き出してくれた彼女の理想は、そんな男だという。
そういう意味では、やはり友雅は彼女の恋愛観には当てはまらないのだろう。
だが、だからと言って……自分はどうだろうか。彼女に尊敬してもらえるような男だろうか。
彼女のことだけを想うのであれば……それだけなら自信はあるのだが。

「ですが、友雅殿も最近は少し変わりましたわね。どうやら、お気に召した方が現れたようなご様子が見られますし。」
「は…?」
その言葉の意味を素直に受け取るとしたら、友雅には誰か心にとめた女性がいる、ということなのだが…。あの友雅の目にかなった女性とは、一体どこの姫君だと言うのだろう。
「お気づきになられません?」
柚芽は少しおどけたように笑った。だが、残念ながら彼にはさっぱり頭が回らない。彼女と一緒にいることも、少なからず影響しているのだろうが。

「そういう神子様も、ずっと目で友雅殿を追いかけてらして」
え?
あかねが見ているのは友雅で……?それはもしかすると………友雅とあかねは…?。
「こういうことは、他人の方がすぐに気付いてしまうようですわね。神子様ご自身もまだお気づきになっていられないのではないかしら」

その変化が訪れたのはいつだったのか、それはもう覚えていない。だが、あかねが友雅を見る瞳は他の誰に向けるものよりも、しっとりとして甘い。
誰にも見せない表情を、彼の前では見せる。その笑顔がどれだけ楽しそうで嬉しそうに思えるか。そうとなれば、普通の想いだけでは済まされないだろう。
「友雅殿も随分と神子様にはご執心の様子ですし、もしかするともしかする…かもしれませんね。あとはご当人がご自分の気持ちに気付けば…。」

龍神の神子と八葉の恋。それは果たして、周囲に認められるものなのだろうか。
身分違いの恋とはまた違い、かなり複雑な状況ではないか。
「よろしいのでしょうか……その、神子殿と橘少将が、もし…そのような関係になったとしたら……」
この京はどうなるのだろう。龍神は、どう答えるのだろう。
「お二人とも、ご自分が背負われたものから目を背けて、目の前の恋にのめり込むような方ではないと思いますよ。むしろ、お二人の力が結ばれたとしたら、更に強い力が生まれるのではないかしら」

心に積み重ねるものを持たず、流れるものをそのままに吹き流していただけの友雅が、今彼女の前で足を止めている。
彼女が前を歩き出さない限り、彼はそこから動かないだろう。
そして常に彼女の背中を包み、何事からも守りぬく意志がそこにはあるような気がする。
そんな彼であるから……そんな彼がいるから、この恋の行く末には何故か不安を感じさせない。それは柚芽だけが感じているのかもしれないが。

「運命というものがあるのかもしれませんわね。神子様と友雅殿の間には。そのようにつながれた人に出会いたいものですね。」
静かにそう言って、柚芽は微笑む。

彼女の運命を司る男が、自分であったなら。
彼女を護るのが自分だったらどれほど嬉しいことだろう。

愛した女を自分の命を盾にして護ることが出来るなら、死というものさえ怖くはない。きっとこの足さえ怯むことなどないはずだ。

………自分は柚芽を護る男でありたい。
漠然と、豊矩はそう思った。
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Megumi,Ka

suga