恋愛論理

 第11話
あかねたちが案内された先は、広い池に張り出した広々とした釣殿だった。闇を含んだ暗い水面には、くっきりと月が映し出されている。梅雨時の中の、数少ない晴れた夜だ。

土御門家と比べると、絢爛とした装飾が殆ど見当たらない。貴族の屋敷にしてはかなり殺風景なのだが、まあそれも主の趣味だと言えば仕方がない。
それに、友雅らしいといえばらしい。
並んだ食事も、これと言って高級なものばかりが揃っているわけでもなかったが、どことなく気品のある品揃え。宴を楽しみながら箸を突くには、丁度良い感じの食材が彩りよく集められていた。

「これでも普段よりは気を遣ってもらったのだよ。私はたいしてこだわらないが、神子殿の口に合わないものでは可哀想だからね」
そう言って友雅が用意してくれた名も知らない木の実は、ほのかに甘くて柔らかな味がした。

ぼんやりと夜をぼかすように、燈台の灯が暖かな色を携えて揺れている。静かな夜の宴は、数少ない人数のみで行われた。
友雅が先程から舌を潤しているのは、少し濁った色をした酒だ。口数が多いわけでもなく、ただ流れゆく時間を楽しんでいるかのように、静かに夜の中に溶け込んでいる。

「お注ぎ致しましょうか?」
柚芽が気付き、友雅の方へ向かおうとした。
が、彼は微笑みながら軽く手のひらを差し出して、柚芽の目の前でひるがえしてみせる。
「気を遣わなくても良いよ。取り敢えず……柚芽殿も少しはゆっくりされては如何かな?」
「私……ですか?」
突然自分のことを言われた柚芽は、きょとんとして目を丸くしたまま友雅の顔を伺った。
「君もお屋敷にいるときは、何かと忙しいのだろう?せっかくなのだから、肩の力を抜いて気を楽にすると良いよ。」
友雅はそう答えた。…もちろん、その言葉の裏には、しっかり企てた計画が潜んでいる。
「そう申されましても……私は神子様のお付き添いで参りましたもので……」
計画通り。今こそが、背中を一押しするチャンス到来、と思っていた時だった。

「いや、実を言うとね…神子殿と二人きりで過ごしたいものだからね」

その一瞬。心臓が飛び出しそうなほど大きく揺れた。息が詰まってしまいそうなくらいに、鼓動が溶岩のように唸りを上げはじめたかのような感じだ。
なのに、そんなあかねの心情さえ気付いているのか、それとも気付かないのか。あろうことか友雅の手が背中に伸びて、力任せに身体がそのまま友雅の胸の中に転げ落ちていった。

「悪戯はしないと誓うよ。だから、この宵のひとときを楽しませて貰えないだろうか?」
「ちょ、ちょっ……と、友雅さんっ!!!」
しっかりした骨組みの大きな手が肩を抱き、頬に唇を寄せて。囁くのは砂糖菓子のような甘い言葉の連鎖。
更に心音は高鳴るばかり。それに加えて身体まで熱くなってきてしまって。異常なほどに意識していることが、これじゃ友雅にも柚芽にもバレてしまう。今夜は柚芽と豊矩の引き合わせをするための宴なのに……。

------ダメっ!鼓動が全身を揺さぶるから、声までマトモに出てきやしない!どうしよう!?
腕の中で一人パニックを起こしているあかねから目を離し、友雅は再び柚芽の方を見上げた。

「そうだ。豊矩に酒でもすすめてやってくれるかな。彼もなかなかゆっくりする機会もないだろう。」
あかねとは正反対に、友雅の方は余裕の状態だ。計画した内容をさらりと続ける。
「彼の酒に付き合ってやってくれないかい?私ばかり、こんなに華やかな姫君達に囲まれていては、彼に申し訳ないからねえ」

柚芽は黙って二人の様子を伺っていた。
だが、しばらくすると突然からっと様子を変えて、いつものような清楚な微笑みを浮かべた。

「そうですわね。少し気持ちを軽くして過ごさせて頂けるのでしたら嬉しゅうございますわ。ただ、私などでは豊矩殿にとっては役不足かも知れませんけれど…」
とんでもない!そもそも、このために二人をわざわざ友雅の屋敷まで連れてきたというのに。豊矩にとっては、それこそ願ってもないことだろう。

「それでは、私は豊矩殿へお酒のご用意を差し上げに参りますので。くれぐれも、神子様に度の過ぎた悪戯はおやめくださいませね?」
柚芽は立ち去る瞬間、そう言い残して部屋を出た。


■■■


二人きりになると、妙に部屋の広さを感じさせる。
大きな格子が開いているため、風通しが良すぎるせいもあるのだろう。
もうすぐ夏の気配が漂い始める前の夜風は、緑の香りを乗せて流れてくるので心地よい。

しかし。それも普通の状況ならゆっくりと楽しめるもの。
今のあかねは、とても普通とは言い難い状態に陥っている。

「さて、あの二人はどうなるだろうねえ……。本人次第だけれども、せっかくなのだから距離が狭まれば良いのだけれども。」
友雅の声が、あかねの頭の上で聞こえる。
「……と、友雅さんっ!いいかげんに離してくださいっ!!!」
少し強めの声が響いた。
さっきから、ずっとこの体勢なのだ。そう、友雅はあかねを胸に抱き寄せたままで、手放そうとしてくれない。

「つれないことを言うねぇ…。せっかく柚芽殿に頼んだというのに、いざ二人きりになったらそんなことを言われるとは…」
などと言いつつ、しっかりと背中まで抱え込んだ腕は、袿ごと手放してくれる意志を持っていない。
「それはっ!柚芽さんを豊矩さんと二人きりにさせるための口実じゃないですかっ!」

どうにかして友雅から離れなくては、いつまでたってもパニックから抜け出せない。
思い切ってあかねは小さく握った拳で、彼の胸を何度も軽く叩きながら身を動かした。

「やれやれ、せっかく神子殿の抱き心地を楽しんでいたのに……」
あかねの対抗にやっと諦めの決意が付いたのか、ふっと力が抜けて、友雅の両腕が扉のように左右に開いた。

いきなり身体が自由になると、さっき感じていた夜風がすっと襟元を通り抜けて行って身震いがした。
友雅の腕の中にいたので気付かなかったが、初夏とは言えどまだ夜は肌寒いのだ。
そんなことも気付かないでいた。………身体の奥から熱を帯びていたので。

手持ち無沙汰になった手を閉じた友雅は、釣殿の欄干に身体を寄せて、軽く後ろに反りながら天を仰いだ。
「良い月だ。恋をするには……絶好の夜になりそうだね」
歌を詠むかのように、彼は静かにそうつぶやいた。

「月の輝きが美しい夜は、それだけで恋に落ちてしまいそうになるものだからね。」
友雅の言葉はいつも深みがあるが、どこか抽象的ですぐに理解出来ないところがある。
「どうして月が関係するんですか?」
素直に疑問を投げかけたあかねを見下ろしながら、友雅は答えた。
「さあね。本当に何か関係があるのかは分からないけれどね」
もしかして、根拠もないことを悪戯に口にしただけだろうか。
だが、すぐにそれらをはね除けるように友雅が言った。

「だけど、まんざら無関係とも言い難いけれどね。」


あかねは友雅の横に腰を落ち着かせ、彼の寄りかかっている欄干に腕を付いた。
小さな魚の泳ぐ水音が、涼しげな効果音を奏でている。
「太陽の明かりは眩しすぎるから、隠したいことまで全部照らしてしまうね。だけど闇をそっと照らす月明かりは、少ししか照らしてくれないから、それが甘美的で丁度良いんだよ。全部知ってしまったら、味気ない。少しずつしか見えないから、更にその先を知りたくなる。そうして……男っていうものは、女性に恋してしまうのかもしれないね。」

…友雅にしか言えないような台詞だな、とあかねは思った。
幾度も恋愛を経験したからこそ生まれてくる、余裕の分析結果、という気がする。
あかねには、まだ月夜の魅力を理解出来る経験がない。だから、その言葉は異質な感じも聞き取れてしまう。
友雅と自分とでは、やはりかなりの差があるのだ。
生まれ育った環境などではなくて、年の差というものでもなくて、完全に……差がある。交差できないほどの幅があるのだ。

…そう思うと、何故こんなに切なくなるんだろう。


「月はこの世に一つのもの。柚芽殿が言っていたように、この空の月のような女性に巡り会えたら幸せだろうね。」

ふと、以前友雅に聞いた言葉を思い出した。

「それが、友雅さんの……桃源郷の月…ですか?」

あかねが言うと、何も言わずに友雅は微笑んだ。
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Megumi,Ka

suga