恋愛論理

 第5話
ゆるやかなひとときを過ごしたあかねと友雅は、そんな穏やかな空気に別れを告げて土御門の屋敷へと戻ってきた。
かたかた揺れる牛車が歩みを止める。先に車から降りた友雅が、あかねをゆっくりと外へ下ろしてくれた。

時は夕刻。青空に紅葉色が溶け始めていた。

「それじゃ、私はここで失礼するよ。何事もなく神子殿を屋敷までお届けする役目は果たしたからね。」
屋敷の前に立つと、友雅はそう言ってあかねを見下ろした。
「あ…今日はどうもありがとうございました。楽しかったです」
「そう神子殿に言ってもらえると、私も連れて行った甲斐があったというものだよ。たまにはあんな風に、のんびりとした空気に浸るのも悪くはないだろう?」
友雅はあかねを見て微笑んだ。
夕暮れが闇に覆われ始めると、今日一日のことが夢のように思えてくる。これまでずっと背負い続けていた重い荷物が、そぎ落ちたような気がしないでもない。京にやってきてのんびりできたのは、随分と久しぶりのことだ。
「明日からはまた大変な毎日が続くだろうけれど、時々こうして気分転換がしたくなったらお付き合いするよ。」
しなやかそうに見える長い指先からは、想像も出来ないほど大きくてがっしりとした友雅の手のひらが、あかねの髪をそっと撫で上げた。


と、その時…耳をそばだてた方向から、聞き覚えのある男の声が夜風に紛れて聞こえてきた。
「おまえの気持ちは分からないでもないが……私に出来ることなどないだろう」
頼久の声だ。昼も夜も常に屋敷の警護を怠らない彼であるから、庭にいることも珍しくはないのだが、他にも人の気配がある。
「そう言うな。俺も心苦しいのだ…不相応だとは知っているが…それでも諦め切れないのだ。」
こっそりとあかねたちは、二つの影を覗き込んだ。
頼久の隣にいるその姿には見覚えがあった。彼は…確か武士団の一人。名前までは覚えていないが、頼久と共に行動することが多いせいか、あかねは彼の顔だけはしっかりと覚えていた。
「だが、私には力になってやれるような伝がない。どうにもならない。」
「しかし…現実としては私などの蓮っ葉より、若頭の頼久の方が何かと顔が利くだろう?藤姫殿や主殿にも近しく言葉を交わせるだろうに。」
「それとこれとは別だ。私にはそのようなことは………」


「こんな暗いところで何をしているんだい?」
「頼久さん、どうかしたんですか?」
草いきれの音と共に、突然目の前に現れた龍神の神子と左近衛府少将の姿に、頼久はともかくとしてもう一人の若者は身体を硬直させた。
「神子殿……橘少将殿も、おかえりなさいませ。」
「挨拶はいいよ。それより、随分と神妙な嘆願をされていたようだねえ、頼久。」
友雅の言葉に、ちらりと頼久の視線が隣の若者に向けられる。悟った彼が更に身体を堅くした姿勢を見て、少し溜息をついた頼久は彼にぼそりとつぶやくように言った。
「……豊矩、話は改めて後ほど聞く。おまえは先に戻れ。」
その声が響くと、『豊矩』と呼ばれた若者ははっと我に返り、あかねと友雅に深々と頭を下げてその場をそそくさと立ち去った。


薄暗い庭先に取り残された三つの影。さわさわと涼しい夜風が吹き流れていく。
頼久は黙ったまま、何かを考え続けている。おそらく彼の頭の中には、さっきまで目の前にいた豊矩の姿が焼き付いているのだろう。
「あのー……何か困ったことでもあったんですか?」
「えっ…?」
あかねの声を聞いて、やっと頼久は顔を上げた。
「神子殿が心配しておられるよ。一体何があったんだい?随分と困った様子だったけれど?」
背後から友雅が言葉を挟む。

友雅を見て、頼久は考えた。
……友雅ならば、こんな頼み事は朝飯前だろう。彼が他人に対して、そこまで深く関わるとは思えないとしても。自分に築かれている人脈にしたって、自慢出来るようなものではないのだから。
……彼だったら。自分なんかより、彼ならきっと豊矩の力になってくれるかもしれない。だが………。
「頼久さん、何かお手伝いできることがあれば協力しますよ?」
声に出さない想いをめぐらしていると、あかねが頼久の顔を覗き込むようにして言った。
「そ、そのようなことは…!神子殿のお手を患わすことなど、私には申し上げられません!」
「でもー……」
否定すればするほどに、彼女がお節介を焼きたくなる性格だということを頼久は気付いていない。元々、困った顔をしている人間を、そのままにしておくことの出来ないのがあかねの性分なのだ。
「頼久、神子殿はこういう場合は頑固だよ?君が引き下がろうとしても、納得するまでは動きそうにない。殻の中で解決しようとしないで、少しくらい打ち解けたらどうだい?」
「し、しかし……」
「心配しなくても良い。私だってこの場にいて、神子殿がみすみす危険な状況に陥ることを傍観など出来るわけがない。そのようなことがあれば私が盾になるから安心しなさい。……そうでもしないと、君がうなづくまで神子殿はあとを追いかけるよ?」
「友雅さん…ソレ、私が何も考えてない子供みたいな言い方っ!」
くるっと振り返って不機嫌そうな顔を上げるあかねの肩を、友雅はそっと両側から包むように愛おしく抱いた。
「どうする?」

………武士団の中でも有能な豊矩。彼の期待に沿うような答えを出してやりたいのは頼久の本心。
だからと言って、あかねが面倒なことに巻き込まれるのは避けたい。
しかも事が事だけに、頼久にとっては苦手な分野だ。逆に得意としているのは友雅であって。
彼が協力してくれるのであれば……………頼久に選択肢は残っていない。

「母屋にお入り下さい。中で詳しいことをお話させて頂きます。」


■■■

「まあ、橘少将殿がおいでになられているのですか?」
「うん。だから、急いで夕餉の用意を追加して欲しいんですけど、どうにかなりそうですか?」
台盤所に集まっていた侍女たちのところに顔を出したあかねは、自分に付いてくれている『柚芽』と言う名の侍女に声を掛けた。
「結構ですよ。夕餉と共にお酒もご用意させましょう。」
柚芽は微笑んで、そう答えた。

あかねの侍女の中では、彼女が一番年齢が近かった。上品だが物腰柔らかく、穏やかな口調と眼差しが取っ付きにくさを感じさせない。そのためかあかねも、彼女と話す機会が他の侍女よりも多かった。
艶やかな黒髪を携えた、なかなかの美人だと同性ながらあかねはいつも思っていたりする。年齢が近いだけに、少し羨ましい気もしないでもないが。


友雅と頼久は、既に東の対でゆっくりと腰を下ろしていた。丁度池が全面に釣殿から眺められる風景は、雲一つ無い夜は格別の月を愛でることが出来る。
そんな風情の楽しみ方を知り尽くしている友雅とは正反対に、頼久はさっきからどうにも落ち着きがない。
屋敷の主に仕える武士の立場で、このように母屋の中で夕餉を味わうなどということは滅多にないことであるから、それも仕方がないと言える。



侍女たちの困ったような顔も気にせず、彼女たちと入り交じって杯やらを運んできたあかねは、友雅たちの膳の前に清らかな酒の入った提子を置いた。
「神子様、頼久殿と少将殿のお酌は私が。神子様も夕餉をお楽しみ下さいませ」
最後まであかねに付き添っていた柚芽は、提子を手にとって友雅の杯に酒を注ぎいれるために、そっと腰を折って彼のそばに歩み寄った。
「柚芽殿もお元気な様子だね。いっそのこと貴女も今日一緒にお連れすれば、母上殿もさぞお喜びだっただろうにね。」
「まあ、少将殿…今日は神子様と、母様のところへ参ったのですか?」
驚いたように友雅を見て、更に今度はあかねの方に顔を向ける柚芽。だが、それ以上にびっくりした顔をしていたのはあかねの方だった。
「えっ?もしかして…あのお寺の甘君様って……柚芽さんのお母さんだったの!?」
じっくりと彼女の顔を見る。品の良い面持ち、漆のように黒艶のある瞳と優しそうな笑み。そういえば、どことなく似ているような気もする。
「色々とありまして…母が俗世を経ったあと、私は左大臣殿のご厚意でこちらに上がらせて頂いたのです。」
柚芽の言った『色々』というのは、あまり言葉で表現したくはないことだったのだろう。ちゃんと知りたい気がしないでもなかったが、あかねはそれ以上深入りすることは出来なかった。

「…あれ?友雅さんと顔見知りってことは…柚芽さんのお母さんってことも知ってたんですか?」
はた、と今日のことを思い出したあかねは、杯を傾けている友雅を見た。
「結構古い付き合いなものでね。」
「だったらそう言ってくれれば、もっとちゃんと挨拶したのにー!私、柚芽さんにお世話になってるんだから、ちゃんとお礼も言わなくちゃ失礼じゃないですか。」
そう言ったあかねの言葉に、柚芽がくすくすとしとやかに笑った。
「龍神の神子様から直々にお礼のお言葉など頂いては、母様の方がかしこまってしまいますわ。どうぞお気になさらないでくださいませ。」

ほがらかな笑い声が部屋の中に響き渡る。池に映る黄金の月が、庭を明るく照らしていた。

そんな中、ただ一人黙っていたのは……頼久だけだった。
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Megumi,Ka

suga