恋愛論理

 第4話
庭は思ったよりも面積が広く、あちこちに野生そのままの草花が咲き乱れている風景が美しい。特別な手入れはされていないが、ありのままに生きる植物たちの姿は景観に吸い込まれるように重なり合い、現代ならばちょっとした観光地になりそうな雰囲気だった。
岩場や花を辿りながら、ゆっくりとあかねは散策をしている。透明な空気は山の風に浄化され、心地よさが身体の中にまで充満して来るような感じがした。

「あれ?……?」
しばらく歩いていると、あかねは足下にひっそりと咲いている小さな薄桃色の花を見つけた。それは毎年夏になると、近所の小学生のいる家の垣根に、びっしりと紫や青のラッパ状の花が咲く朝顔によく似た形をしている。
「へえ……昼間だし、時期もまだ夏ってわけじゃないのに珍しいの。でも、朝顔にしてはちょっと小さいかなぁ…」
そっと花弁に手を伸ばそうとしたとき、背後から人影があかねの前に下りてきた。


「それは朝顔ではないよ。昼顔………昼間咲いて、夕方にはしおれてしまう儚い花だ。」
あかねが振り向くよりも先にこちらへと近づいていた友雅は、しゃがみこんでいたあかねのそばに腰を折って跪いた。
「朝顔と同じ種類だそうだけれど、時期は夏よりも先に咲き始める。色合いは朝顔のような鮮やかさはないけれど、小さくて淡い色合いが上品だね。」
「昼顔かぁ……そういえば朝顔とはちょっと違いますよね。でも小さくて、ついつい見逃しちゃいそうですけど。」
小さく控えめに咲く花弁は、よく見るといくつも周辺に群生している。昼間でも森に囲まれて、あまり明るい光が差し込まない庭に、ほんのりと蛍のような灯りをともしているかのようだ。

友雅は指先でそっとその花に触れると、何か思い出したようにあかねの方を見た。
「そういえば…最近内裏の女房方の間で流行っているものがあるらしくてね。私も先日、話を聞いてきたばかりなのだけれど………」
昇殿することも多々ある友雅は、清涼殿に住まう女房たちとも交流が深い。彼女たちの優雅な日常は生半可な貴族の遊びとは桁が違う。昇殿するようになってそれなりの年数が経つが、やはりここから得られる話は新鮮な話題が多いために楽しみが深い。
「とある貴族の御方で、書に長けた方がおられるらしく……その方が書かれる書が大層面白いらしくてね、あちらこちらで評判になっているそうだよ。」
「…書っていうことは……お話とか?物語みたいな……?」
友雅は頷いて、その場からゆっくりと立ち上がった。
「私は伝え聞きでしか知らないので、あまり詳しくは分からないのだけれど……優れた公達の恋物語だそうだ。色鮮やかな、多くの姫君たちとの甘い恋を描いた物語と聞いたよ」

「いくつか簡単に話を教えて貰ったけれど……その中に『夕顔』という話があるそうでね……それは恋の悲しさと哀れさを感じる話だった。」
あかねは、ふと自分の奥底の記憶が、きらりと光を放って輝いたように何かを思い出した。
-----もしかして…それって、『源氏物語』のこと-----?
学校で何度も勉強した、紫式部の源氏物語。平安の都で生きる、光源氏の恋物語。
教科書や本でしか読むことのなかった……あの平安絵巻の世界。十二単と烏帽子姿の公達、寝殿造と御簾、香の香り………。

-----そうか……私、ホントに今…あの源氏物語と同じ世界にいるんだ-----

そう思うと不思議な気分になった。この世界に連れてこられて、もう数ヶ月が過ぎて…少しは慣れたと思っていたのだが、こういうシチュエーションに出逢うと、やはり自分の中に流れる空気とこの世界の空気の違和感を少し感じてしまう。

「神子殿には興味のない、退屈な話かな?」
ぼんやりとしているあかねを友雅が覗き込んだ。はっとして我に返る。
「え?あ…全然。そんなことないですよ!続けてください!」
「そうかい?じゃ、少しその話をしてあげよう。切ない話だけれどもね……」
背後には清水の流れる音がする。足下に広がる池には、小さな魚が涼しげに水中を漂っていた。岩辺に腰を下ろした友雅は、静かにその物語を語り始めた。

「公達は夕顔の咲く屋敷の姫と出会い、お互いの全てを愛し合った…。だけどある時、彼が目が覚めると…そばで彼女は冷たくなっていたという。だけどその話には裏話があるらしくてね……どうやらその姫君が亡くなったのは、その公達の恋人である御息所殿の生き霊だと言われているそうだ。他の姫君に彼の心が奪われたのが、さぞ心悔しかったのだろうね。」

友雅の声が綴る『夕顔』の物語に、あかねは黙って耳を傾けていた。
今まで熟読するほど源氏物語を読んだことなどなかったが、それでも少しは覚えている。
六条の御息所……源氏の恋人。嫉妬に身も心も奪われて、彼の正妻であった葵の上の命までもを奪った女性。恋に生きて、恋に身を滅ぼした平安の美女。その話は歌舞伎や能にまでも脚色されて、あかねの生まれ育った現代にまで語り継がれている。
「恋とは悲しく、そして恐ろしいものだ。時には甘く心安まる時間を与えてくれるけれど、それに溺れればこの話のように、人の命を奪ってしまうことさえ有る。だけどそんなものかもしれない。誰もが幸せになれる恋などはないのかもしれないね」
「そうですか……?」
「誰もが幸せに通り過ぎることの出来る恋なんて、この世にはないんだよ。誰かが幸せを手に入れるとしても、その裏側のどこかで誰かが涙を流している。恋というのはそんなものだ」
「……そんなの……悲しいですよ。自分の幸せの裏で誰かが悲しんでるなんて……」
「神子殿は優しいね。でもね、心というものは自分が思うほど自由がきかないものだ。そう考えたいと思っていても、本心では目の前にあるものにしがみつきたい気持ちを消し去ることは出来ない。相手が恋い焦がれる人が既にいるとしても、君が心を奪われてしまったら……その君の心に逆らうことの出来るものはなにもない。時には君自分さえもね。」

小さな青蛙が水草の中から飛び出して、池の表面に波紋を広げる。ゆっくりと輪は広がってゆき、やがて池全体を覆うようになる。
「彼女は……その公達よりも年が上だったらしい。彼の若々しい姿に心惹かれながらも、どこかで自分が彼よりも年老いていることを気にしていたんだろうね。」
「でも…その源……彼もその人を好きだったんでしょう?お互い好きだったんでしょう?だったら年令なんて関係ないじゃないですか…。」
あかねが友雅を見上げてそう言うと、彼は少し寂しげな目をして微笑みながら、あかねの髪をそっと撫でてくれた。
「そうだね……確かにそう思えれば良いだろう。でもやはりどこかで気に留めてしまうものなんだろうと思うよ。彼女は聡明で確かに美しい。しかし今は美しく咲いていても…枯れていくしかない未来。なのに彼はこれから咲き誇ろうとしている。そして彼の周りには……美しい蕾を持つ姫君が大勢いる。いつか彼はその花に魅せられて、自分から遠ざかって行ってしまうだろう…そう知っている。だから割り切ろうとした、けれど……思いの外彼女の気持ちは強くなりすぎて、こんな悲しい結果になってしまった…ってことだよ」

彼女の気持ちは分からないでもない。
だけど、それよりもっと大切なことは…お互いに抱いている気持ちじゃないのだろうか。
物語を思い出してみる。
源氏は…彼女を見捨てたわけじゃない。ずっと彼女を愛する心は、忘れずにいたはずなのだ。他の女性と逢瀬を交わしていても、彼女への想いは消えずにいたはずなのに。

「私だったら……年なんて気にしないのにな……」
「おや、神子殿は興味深いことを言ってくれるね。」
「だって……その人を好きだっていう気持ちは変わらないでしょ?いくら年が離れていたって、相手だってそれを承知で好きって言ってくれたら……それで良いんじゃないのかなって…。」
あかねの言葉に友雅は微笑む。心の中がほのかに甘くなった。そして彼は木々の間から覗く遠い空を見上げた。
「恋心というものは……結構複雑で手強いものなのだよ。まだ神子殿には分からないかもしれないね……」
「あ、もしかしてまた子供だと思ってバカにしてます?」
ちらりと友雅を見るあかねの目は、少しだけ不服そうだ。その豊かな感情表現を見ると、微笑ましくていつも顔が緩む。
「いや、羨ましいと思ったんだよ。何もかも、すべて素直に受け止めることの出来る君の心にね。私くらいの年になると、無駄にいろいろなことを知ってしまって…自分の感じていることを簡単に認めることが出来なくなってしまうものだからね。」
その話をしている間、友雅の瞳は何となく寂しそうな色をしていて。それが何故なのか尋ねたかったのだが、結局あかねは何一つ言い出せなかった。

-----お互いに好きでいられたら、それ以上の幸せなんてないと思ったけれど……。
-----でも、友雅さんの言うように……誰かがやっぱり傷ついてしまうものなのかな…。
-----それに気付かないのは…やっぱり私が子供すぎるのかな………。

恋愛は難しいものだと思う。誰かを好きになっても、相手がその気持ちを受け止めてくれるという確信はない。例えその思いをはねのけられたとしても……好きだという気持ちはどこかで生き続けてしまうもの。
それくらい分かっている。それくらいのこと、今まで何度も経験した。
だけど………きっと友雅の言う恋愛というものは、自分が知っている恋というものとは違うんだろう。自分が思いつかないような恋愛を、彼は知っているのだろう。

-----友雅さんがそんな風だから、年下の私の方が年齢を気にしちゃうんですよっ-----

友雅の背中に向かって、小さく舌を出してみたりした。幸い彼はそれに気付くことはなかった。

恋愛ひとつ、それを考える想いはそれぞれに違っていて。それが否応なしに人生の距離を思い知らされる。
まだあかねは、恋の悲しさと哀れさを知らない。それを知らないうちは…友雅との距離は縮められないような気がする。

出来れば………そんな恋なんて知りたくはないけれど。
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Megumi,Ka

suga