恋愛論理

 第3話
尼僧は二人を連れて本堂へと導いた。長い廊下を歩いていると、庭から吹いてくる風が心地よく屋内をくゆる。
そうしてしばらく歩いた後、裏庭に面した客間と思われる離れへ通された。
「うわー…すごいですねぇ……」
およそ8畳ほどの広間の奥には、杜若に覆われた庭が一枚の絵のように広がる。かすかに聞こえてくる水の音と、その一面を彩る紫苑の花。
「目を楽しませてくれるものなど、この庭に咲く四季の花や木々の緑しかありませんが……心落ち着かせるにはよろしいかと思いますよ。どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」
あかねは高欄から下を覗き込んだ。池の中から生える杜若を挟んで、小さな岩が揃えられている。どうやら歩行のために積まれているらしい。
「神子殿、せっかくのおもてなしだ。自由に庭を散策してもかまわないよ」
興味深げに庭を眺めているあかねに、友雅が背後からそう言った。
「私は尼君殿と久々に積もる話でもしているから。のんびり楽しんでおいで。ああ、でも私の目の届く範囲で、と念を押しておくよ。」
「分かってますよーっ」
あかねは軽やかに地に下りると、ふわりとした草の感触が足にも伝わってきた。
深呼吸をすると、緑の香りがする。全身が浄化していくような、そんな気がした。



「あの方が………龍神の神子でらっしゃいますか」
尼僧は華奢なあかねの姿を、そっと見守るように眺めながら言った。
「貴女が驚かれるのも無理はない。私も最初に彼女を見た時、少々戸惑いを隠せなかったよ。この京のことを何一つ知らない…ましてや異世界からやってきたという。そんな娘が京を救う力などあるのだろうかとね」
ほんのひと月半ほど前のこと。突然目の前に舞い降りた龍神の神子は、友雅が思い描いていたような人物像とはかけ離れていた。
神々しさよりもあどけなさ、気高さよりも無邪気さ、それは友雅にとって未知のものばかりだった。
人間にも物にも執着をしない友雅だったが、こうも次々に場違いな世界観があかねから見て取れるとなると、いささか興味がそそられて来るのも仕方がない。
龍神の神子という存在よりも………この異世界の娘のことをもっと知りたい、とどこかでそんなことを考え始めたのはいつ頃からだったか。

「それにしても…それはさぞ、神子様もお困りになられたのではないですか?見知らぬ世界へ巻き込まれ…突然そのような使命を与えられるとは思っても見なかったことでしょうに」
「そうだろうね…まぁ、私だって自分が神子殿に仕える八葉の一人になるとは、思ったこともなかったけれど。」
友雅はそう言いながら苦笑した。すると尼僧もつられるようにして、小さな声を出して笑った。
「私もその話を耳にしたときは、この京はどうなるのかと不安にもなりましたよ。あの少将殿が八葉になられたと…果たしてその任がつとまるのかしら、と」
「これは手厳しい言葉を言われるねぇ…。これでも私は結構真面目に八葉の一員として、神子殿にお仕えしているのだけれども?」
「………ええ。よく分かりました。あなたにはあなたなりの…神子様への忠誠のお心がおありなのでしょう。それはとても尊い想いですわね」
その言葉は、どこか深みのある意味を兼ね備えているように思えたが、友雅は何も聞き返さなかった。
うっすらと岩に生えそろう緑の苔は、水を吸って青梅色に輝いている。
そういえば雪化粧の中、どこぞの姫君の唇のように愛らしく咲いていた紅梅が実を付けるのもそろそろだ。


「ところで、あなたが八葉になられたということで、土御門のお屋敷には頻繁に訪問されているのかしら?」
しばらくして、尼僧は違う話題を友雅に差し出してきた。
「そうですね…私にも左近衛府の努めがありますから、毎日とは行きませんけれども…二日に一度ほどは神子殿のご機嫌を伺いに参ったりはしておりますがね」
「……柚芽は、どうしているのでしょう……?」
「藤姫殿のお付きをされていたようですが、最近は数人の侍女と共に神子殿のお付きになったようですよ」
ほんのわずかに、尼僧の表情が緩む。
「元気に過ごされている……?」
「問題は特にないでしょうね。何せ神子殿があのような方ですからね、堅苦しい空気もなくのびのびとされているのではないですか?」
「そう。ならば安心ですね」
微笑みで下がった目尻は、穏やかな表情を作り出す。それは尼僧の表情ではなく、一人の女性と言っても極上の微笑みに近かった。
「やはり仏門へ入ったとは言えど、母君ですね。気になりますか、娘君が」
尼僧は少し照れたように苦笑する。
「俗世を捨てるとは言え…残してきた子のことだけは一時も忘れることは出来ぬこと。一度母として生きてしまえば…女はそういうものですよ」
遠い目をして、そう彼女は言った。

元はと言えばこの尼僧は、遠縁に帝家の血筋を持つ名の知れた貴人の出であり、名を潮と言った。しかし二年ほど前に流行病で主人を亡くし、一人娘の柚芽を知人の口添えで左大臣家の侍女として預け、自分はこの北山に近い小さな寺院に出家していた。
主人は友雅が昇殿する頃に、丁度左近衛府の大将を勤めていた。娘一人で跡取りがないこともあってか、何かと世話を焼いてくれたこともあって今に至る。他人とは深く付き合いを持たない友雅であるが、大将である彼の仕立ては押しつけがましさがなかったため、周りの同年代の知人よりも多く時間を共に過ごすことが多かった。
娘の柚芽とも顔見知りではあるが、友雅にとっては残念であり、母である彼女にとっては不幸中の幸いか、友雅が好む雰囲気の姫ではなかったために深い関係に陥ることはなかった。しかし旧知ということもあるため、土御門では時折話を交わすこともある。

「願わくばあの娘に良い縁でもあるのなら……少しは不安もほぐれるのでしょうが」
すっかり母の顔に戻った潮は、数年顔を見ていない娘の残像を思い描きながらつぶやいた。
「確か年は十七でしたか。神子とさして変わらないのですね。貴女に似て、聡明で豊かな黒髪の姫君だ」
「あら、少将殿がお目にかけて下さいますの?それは困ったことだわ」
「おや、それはどういう意味です?」
潮は友雅をまっすぐに見ながら、悪戯めいた表情をして答えた。
「京に咲くすべての花を我が手に掴むことが出来ると名高い貴方のこと。お目にかけて頂くのは光栄なことですけれど、一夜だけ咲く恋の花では余計にこれからが心配でならないわ」
そう話す彼女は、まるで無垢な少女のように愛らしさを醸し出していた。


「これはひどいな。反論しようもない言われようだ。こう見えても最近は熱い感情を覚えたばかりなのだよ?」
してやられた、といった感じで苦笑いをしながら、友雅は前にかかる髪を無造作にかき上げた。
静かな寺院には、自然の音しか聞こえてこない。だが、それらはどんな楽よりも心に染み入る美しい音だ。
喧噪は遠くに消えて、ここにいるのは自分の他には気の知れた尼君と神子だけ。元はあかねの気を休めるためにと連れてきた場所だったが、友雅とてこの雰囲気は悪い気がしない。
「熱い感情……ね。ええ、神子様には……あの子がどうあがいても叶いはしませんもの。」
潮はくすくすと袖先で口元を隠しながら、不思議がる友雅の表情を楽しんだ。
「神子殿?それはどういう意味なんだろう?」
「貴方の中にある神子様には……誰も及びませんよ。例えそれが高貴な家柄の美姫であったとしても、神子様にはかないません。」
ふとした時に、互いの間には沈黙が流れる。言葉のない時間が挟まれるというのに、ぎこちなさが感じないのは、なかなかいい気分だと思ったりもしたが、彼女の言葉の意味が妙に心に引っかかった。
「それはまるで、私が神子殿に忍ぶ恋を抱いているような言い方に聞こえるのは錯覚かな?」
友雅が尋ねると、彼女はもう何も言葉を発さなかった。ただ小さく意味深に笑いながら、裏庭を散策しているあかねの後ろ姿を眺めていた。

彼女の視線の先を、友雅もそっと辿る。
どこかから漂ってきた小さな蝶が、あかねの周りをくるくると飛び回っていた。それを見つけて追いかけるように庭の奥へと小走りに急ぐ姿。
愛らしい姿に、二人は同時に微笑んだ。
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Megumi,Ka

suga