恋愛論理

 第2話
「今日はどこに行くんですか?」
あかねは友雅に尋ねた。
カタカタと音を立てる牛車の振動と共に、かすかに揺れた前簾れの隙間から外の空気が入り込んでくる。
「そうだねぇ……神子殿はどこに行きたいのかな?」
「どこ…って…。それは…穢れのあるところとか…呪詛のあるところに…じゃないんですか?」
品行方正な答えを返したあかねを見て、友雅は微笑みを返す。
「ふふ…相変わらず神子殿は真面目だねぇ。少しは気楽に一日を過ごそうなんて、考えたりはしないのかい?」
「そんな余裕なんて…ないですよ。『龍神の神子』のお仕事だけで、私毎日精一杯ですもん。」

朝、屋敷の侍女たちが用意してくれる食事を取ってから、八葉の誰かと共に京の町へと出て……時折危険を味わうこともあるが、大概は何事もなく町中の人々の様子を伺ったり…そんな一日。
それでも、いつどこに自分を狙うアクラムの手下が潜んでいるか分からない。常に油断は出来ない。そんな危機感と緊迫感だけは、いつどんなときでもずっと手放せずにいる。
すべて、自分が『龍神の神子』であるから故のこと。うかつにぼんやりしていれば、そばにいる八葉にまで危害が及ぶことも、これまでのことで十分理解したつもりだ。
だからこそ、神経はいつも過敏でなくてはならない。わずかな時間だがこれまでにこの世界で経験してきたものを、すべてひっくるめてあかねが出した一つの結論である。

綺麗事かもしれないけれど、誰一人として傷付けたくない。
それが不可能であるのなら、傷付ける人間を最小限に抑えておきたい。


…………………この人だけは。


「神子殿?」
自分を呼ぶ友雅の声に、あかねは薄曇りのかかった自分の世界から現実へと引き戻された。

手のひらを見つめる。
今、自分の中に自然に浮き上がった言葉………。

最近、少し妙なのだ。理由は分からないが、友雅といると自分の何かが変わる。それは動悸の速度だったり、気が研ぎ澄まされたかと思うと、ぼんやりと何かを目が追っていたり。それも決まって友雅といるときだけ。場所に限らず、彼といると自分でも自分が分からなくなる。
顔を上げると、自分に向けられた友雅の視線がある。彼のその瞳の色が妙に熱く感じて、体温が少し上昇したことがわかる。
「は、はいっ!何かありましたかっ?」
妙に動揺してわたわたしたあかねの仕草を、ほんの少しだけ友雅は不思議に思ったりしたのだが、それ以上深く勘ぐりはせずに、緩く背中を後ろへともたれた。
「そんなに気を張らなくても良いよ。私が今日君を外に連れだしたのは、『神子』としての役目を果たしてもらう意味じゃないのだからね。」
片手に添えられた扇を開き、軽く風をそよがせると友雅の香りが鼻をくすぐる。
「いつも一生懸命な神子殿へのご褒美だよ。今日くらいはゆっくりと過ごしなさい。」
友雅は優しく微笑んであかねに告げた。
「でも………」
思い出すと映像は鮮明になる。いつもそばにいて自分を支えてくれる藤姫の姿や、頼久や鷹通たち……。彼らのことを思うと、立ち止まる余裕などあるわけがなくて。
「……遊んでいる暇があったら、努めをこなさなければ藤姫殿や他の八葉に申し訳ない。大方そんなことを考えているんじゃないのかい?」
その言葉を聞いて、どきんと大きな心音が響いた。
……見透かされている。友雅にはいつもこんな調子だ。いくら無理して感情を押し殺したとしても、彼はあかねの本心を驚くほど正確に読みとってしまう。
友雅には隠し事が出来ない。例え他を騙し切れても、彼だけは……どうしても駄目だ。


牛車の揺れが止まった。それと同時に車自体が歩みをその場で終えた。
「無理をしたところで良いことは何もない。一度ここで一休みをして、また明日からの気力を蓄えることも大切なことだよ。…と言うことで、もう神子殿は今日の努めは諦めるしかないというわけだ。」
友雅は先に牛車から下りた。かすかに匂う草の萌え立つ香りが、夏の風に似通ってきている。
開かれた前簾の中から、おそるおそる外の風景を覗き込むあかねに向けて友雅は手を伸ばした。小さな手のひらを支えると、そのまま片腕であかねの身体をふわりと抱き上げた。

「本日の神子殿のお努めは、ここでゆっくりと過ごすことだよ。」
言われるがままに連れてこられた場所は、小鳥のさえずりだけが響き渡る古めかしい小さな寺だった。
裏山に続く緑深い森の奥深くから、流れてくる清らかな小川の流れが傾斜を伝って小さな滝を形作っている。大内裏に近い寺などのような荘厳な鮮やかさはなく、ひっそりと景色の一部として溶け込んでいる。

「おや、そこにおられるのは…橘少将殿でいらっしゃいます?随分と久しくお目に掛かっていなかったように思いますが。」

本堂の裏から一人の尼僧が姿を現し、友雅の姿を見つけると静かにこちらへと歩み寄ってきた。たおやかな雰囲気の中から醸し出す聡明さが、仕草の一つ一つにまで浸透している。彼女の手には摘んだばかりの、瑞々しい杜若が数本添えられていた。
「ここは私のような浮き世者が、簡単に出入りの出来る場所ではありませんからね。………出家されてしばらく経ちますが、枯れることを知らない花という言葉が未だによくお似合いだ。」
友雅の言葉に尼僧は柔らかに微笑みを返すと、彼のそばにいる少女へ瞳の行く先を変えた。
「今日のお付き添いは、随分と可愛らしい方でらっしゃいますこと。どちらの姫君であらせられますのかしら?」
仏門に身を預ける僧であるのに、間近で見ると友雅のさっきの言葉が本当にしっくりと来る。そんな優雅さが彼女にはあった。
年齢は……四十行くか行かないか、だろう。それもまた彼女のしとやかさが、随分と若く見せる演出をしている。

「こんにちは……」
あかねは丁寧に会釈をすると、彼女も同じように軽く頭を下げた。
「今日はちょっとしたお忍びでね。姫君と二人でゆっくり逢瀬を楽しみたかったものだから、ここまで連れてきてしまった。申し訳ないが、かくまってもらえないだろうか?」
友雅はあかねの肩を抱き寄せて、尼僧である彼女に向けて軽くウインクをする。
「あらあら…少将殿?仏様の目がある場所で、色恋沙汰は御法度ですよ?」
「い、色恋っ!?」
言葉の意味に心臓が飛び上がりそうになったあかねを、背後から取り囲むように友雅の腕が抱きしめる。
「目をつぶって頂くように、尼君殿から御願い頂けないかな?何せ堂々と陽の下で心を通わせることも出来ない、哀れな私たちなもので………」
「きゃーっ!な、何するんですかぁっっっっ!!!」
うなじに友雅の唇が触れたとたん、静かな庭園にあかねの悲鳴が響いた。叫び声はこだまのように反響し、森の中全域にまで聞こえたかも知れない。
友雅の戯れ事にあかねは顔をまっ赤にして、必死にその腕から逃げようと暴れるがそうは行かない。明らかに力の差がありすぎる。
「少将殿、お戯れはそれくらいにした方がよろしいのでは?可愛らしい姫君のお顔が壊れてしまいますよ。」
「ん?それは困るね。仕方がない…あとはお任せ致すとしようかな。」
ふっと腕の力が緩んで、甘い香りが少し遠のいた。
「どうぞ中までお上がりくださいませ。たいしたもてなしは出来ませんけれども、ゆっくりと過ごすくつろぎのお時間くらいでしたらご用意させて頂きますよ。」
尼僧は微笑んでそう言うと、鮮やかな紫色の杜若を一輪あかねに手渡してくれた。
池の水に濡れた茎先が指先に触れると、ひんやりとした感触が少し熱を帯びた身体を冷やしてくれた。
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Megumi,Ka

suga