恋愛論理

 第1話
明け方から天高く昇った太陽の日差しが、暖かな光を地上へと注ぎ込んでいる。桜の時期を終えて、瑞々しい若葉が小枝を包み込むように芽吹き始めていた。
………季節は、春。外を流れる風にも、もう桜の花びらが混じることはなくなった。

「神子様、本日はどのようなご予定をお考えですか?」
朝餉もしばらく前に終えて、のんびりと庭先でくつろいでいるあかねの横で、雛人形のように鮮やかな十二単姿の少女が微笑みを携えている。
「うーん……とりあえず、出掛けないとね。」
「では、本日はどなたに同行を御願い致しますか?」
藤姫は大きな漆黒の瞳で、あかねを覗き込むように見た。
「今日は………うーん………」


現代から何の前触れもなく、この異世界である「京」へ転がり込んで二ヶ月が過ぎようとしている。肌寒さを覚えていた当時から比べて、今は暖かく過ごしやすい春の最中。
龍神の神子である自分に与えられている使命が、どんなものであるのかもやっと自覚が出来るようになったが、それでも馴染めない部分は多々ある。
所詮違う世界で生まれ育ったのだから、どうにもならない感覚もあるだろう。
それを割り切ってしまえば、結構気楽に生活が出来るものなのだ、ということにも気付くようになった。

「神子様?どうかなさいました?」
はっと我に返ると、ぼんやりしていたあかねの顔を、少し不安そうに藤姫が見ている。
「あ、ううん…何でもないよ。えっと…一緒に着いていってもらう人を決めなくちゃね」
あかねは自分の置かれた現状に意識を戻して、改めて今日一日の予定を立てることにした。

「どうしようかな。今日は確か洛北が方忌みだったんだよね?」
頭の中に京全体の地図を広げて、場所の確認をしながら今までのことを思い出してみた。
「……昨日は確か泰明さんと詩紋くんで、船岡山と河原院に行って……その前は……」
一日一日の出来事を再確認する。これまでの事。今までに話した色々な事。
「如何致しますか?頼久は勿論、天真殿や詩紋殿でしたらすぐにお呼びすることが出来ますけれど……」
悩み続けているあかねに、藤姫が声をかけた……その時だった。

「おや?こんな時間に屋敷におられるとは、本日は出掛ける予定はないのかな?」
ふわりと漂う雅やかな香りと共に、緩やかな長い髪の男が顔を出した。
とかく起床も就寝も、現代に比べたら格段に早い京の世界。普通ならあちこちのオフィスが起動するような時刻であっても、既に仕事を始めている者たちが多いのだ。
あかねのサイクルも世間に違わず、これくらいの時刻なら既に八葉の誰かと共に、京の町へと出掛けているのが普通だった。
それが、まだ屋敷でのんびりとしているとなれば、友雅が首をかしげるのも無理はない。
「今、神子様がお出かけになるとのことで、お付き添いになる方を探しておりましたのです。」
呼び名と同じく藤の花のように小柄な姫は、今の状況を簡単に友雅に告げた。
「ふうん?…でも、もうそんなことで悩む必要はないから、二人とも安心していいよ。」
「え?」
あかねたちがほぼ同時に、揃って友雅の顔を見る。
「こんな時間じゃ神子殿の顔も拝めないだろうと、半ば諦めながらやってきたのだけれど…ね。なのにここで出会えるとは、それは龍神の思し召しというものじゃないのかい?」
そう言って友雅は扇をひるがえし、端麗という言葉そのものに艶やかに笑顔を作った。
「友雅殿が特別なご用がないのでしたら……せっかくですから、神子様?一緒にお出かけになってみては如何でしょう?」
「あ………」
あかねはちらり、と一瞬だけ友雅の方に瞳の方向を変えた。かすかに視線がつながると、彼女を見据えた友雅はもう一度微笑んだ。
「じゃ…そうしてもらおうか、な……」
「我が姫君の仰せのままに」
そう言って友雅は微笑んで、ゆっくりと腰を上げた。そしてそのしなやかな手を、あかねに差し述べようとしたとき、はっと我に返った藤姫が顔を上げた。
「友雅殿、お待ち下さいませ!まだもうお一方の八葉をお選びになっておりませんわ!」
京の町を出歩くときは、大概八葉の中から二人が選ばれて三人での外出となる。鬼達の襲撃や怪かしなどに襲われた際に、最低二人があかねの警護として付いていくのがいつものことなのだ。
しかし友雅は、慌てている藤姫の様子を窘めるように笑って答えた。
「今日は私一人で良い。他の八葉を呼ぶ必要はないよ。」
「ですが友雅殿…何かあったときにお二人だけでは手が足りなくなるかもしれませんし、もしものときのためにも……」
と、わたわたと戸惑う藤姫に対して、友雅は畳んだ扇を手のひらの上でことんと鳴らし、大きな漆黒の瞳を見つめる。
「藤姫殿は神子殿のことになると、いつも以上に神経過敏になられる。その気持ちも分からないでもないがね、この私が一緒なのだから…少しは安心してもらえないかな?」
………友雅が一緒だからこそ、もう一人誰かを…と言いたいところを藤姫が何とか心の中に留めていると、今度はあかねが口を挟んだ。
「大丈夫だよ、藤姫。そんなに心配しなくても、最近は妖怪とか色々変なものとかも前よりは減ってきてるし。何となくやばそうな所も分かってきたから、そういうところには絶対に足を踏み入れたりしないし……ね?」
あかねに嘆願されるように言われて、強くそれをはねのけることが出来る藤姫ではない。彼女の中であかねだけは、特別な存在であるのだから。
「そうそう。神子殿のことを信じて差し上げてくれないものかね?もしも神子殿が羽目を外しそうになったら、そのときはこうしてしっかりと引き止めるから平気だよ。」
「きゃぁぁーーーっ!!!!」
広げた友雅の両腕で背後から抱きしめられたとたん、屋敷の中に響くあかねの悲鳴。

……これだから心配だ、と言うのだ★。
頭を抱える藤姫の姿がそこにあった。


■■■

「そもそも友雅殿は、悪ふざけが過ぎるのです」
薄紫の花が枝垂れる車寄の近くで、今だ支度の済んでいないあかねを待っている間、友雅は頼久と他愛もない会話を楽しんでいた。
とは言っても、相手は『生真面目』という言葉に拍車の掛かった頼久のこと。友雅の悪戯を笑って過ごせる男ではないことはあきらかで。
「神子殿の驚く顔が愛らしくてねえ…ついつい手を出したくなってしまうんだよ。」
「お戯れも限度がございます」
そう不服そうに答えた頼久に、友雅は何も答えず目を伏せて微笑んだ。

まだ年端も行かぬ幼い少女は、異世界からやってきた龍神の神子。
京とは全く違う環境の中で生まれ育った彼女の心は、この世界には相容れない色を持っている。
その色はどこまでも透き通り、一滴の染料の雫でさえも吸収していく。

いたいけなほどの素直さと、真っ直ぐの瞳に表情を映して。
心のそのままが浮かび上がる、彼女の変化を見届けるのが楽しくて、そしてどこか嬉しくて。
「いつからそんな風に思うようになったんだろうねぇ……」
独り言のようにつぶやいた友雅の目の向こうに、あかねの姿が見えた。
こちらに向かって足早にかけてくる姿が、少しずつ近づいてくるのを友雅は眺めつつ、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「すいませんっ!支度が遅くなっちゃって…っ!」
「いや、そんなに急がなくても日はまだ高いからね。ゆっくり出掛けるとしよう。」
そう友雅が言ったとたんに、あかねの身体がふわっと浮き上がった。梳いた髪の毛先が頬に揺れてかすれる。
「ちょ、ちょっと友雅さんっ!下ろしてくださいっ!」
「車に乗せてあげるだけだよ。じっとしておいで。」

友雅が近づくたびに鼻をくすぐる侍従の香りが、甘く豊かに漂ってくると………何故かどきどきして鼓動が早まる。

軽々と両腕で抱えたあかねを車の中に乗せると、友雅が後に続いて乗り込んだ。
「それじゃ、行って来るよ頼久」
友雅の隣にいるあかねが、小窓から頼久に向かって手を振る。
頼久は牛車の姿を見届けてから、その場を後にした。
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Megumi,Ka

suga