Kiss in the Moonlight

 Story=29-----01
小さな手が、袖を握りしめる。
うつむいたその顔は、覗き込もうとしても低くて見えない。
ただ、見下ろす細い肩が少しだけ震えていて、髪の間から見える耳朶が赤い。
かすれた一声が、その唇からこぼれ落ちて数分。
それっきり、続く言葉は出てこなかった。

"キスしてください"------------。
彼女が口にするものを、聞き間違えるはずがない。
どんなに小さな声であっても、彼女の声なら聞き取れる自信があるから。

何も言わないでいたら、このまま沈黙をやり過ごしてしまいそう。
けれど重苦しい気持ちはなくて、むしろこうして言葉もなく寄り添っていられたら…それもまた良いだろう。
しかし、彼女のぬくもりと髪の香りが鼻をくすぐるたび、じっとしていられなくなるのも事実。
抱きしめたいと、心が本音をつぶやく。
一人の男として、彼女をこの手で奪ってしまいたいと、自分勝手な想いが渦巻くけれど、必死に抑えて友雅はあかねの肩を叩いた。

「どうして、いきなりキスのお強請り?」
「あ、あの……」
言ってしまってから、あかねは戸惑いを覚えた。
何で突然、こんなことを言っちゃったんだろう…。
キスしてください、だなんて、ちょっとはしたないじゃない。
どうして?…って聞かれても…。
「夕べ、その…おやすみのキスをしてなかった…から」
「ああ…確かにそういえば、そうだったね」
友雅は答えると、あかねの顎を静かに持ち上げた。
ようやく、目と目が一直線で互いを見つめる。
「おやすみのキスなら、"キスしてください"と言うのは、私の方だよ?」
ふっと手を離した友雅は、普通と変わらない笑みを浮かべ、あかねの顔を見た。
そうして、いつものように唇を近付ける。

おやすみのキスは、あかねから。
心から信頼していることを、自ら歩み寄って唇を重ねることから証とする。
------なんて、調子の良い戯れ言を、真実のように今まで続けてきた。
その結果、確かな信頼は得られたけれど、困ったものまで得てしまった。
友雅の心の中でだけそれは成長し続け、切なさともどかしさばかりを与え続ける。

あかねが、一歩近付く。
ややうつむいていた顔を、唇の前で少し上げて……。
花びらのように柔らかな、それでいて甘い香りのする唇が重なった。
彼女が王宮にやって来た時から、欠かさなかった秘密の儀式。
それがいつしか、こんなにも鼓動の早まるものになるとは。
掃除の行き届いていない新しい部屋は、どこもかしこも埃が積もっている。
少しでも歩けば窓からの光が、舞い上がる細かい塵を映し出すけれど、こうして口付けを交わしている間だけは、それらさえも星屑のようにきらめいて見える。
たかがキス。されどキス。
想いを抱く相手と唇を重ねることが、目に見える世界まで変えてしまうこと。
彼女に出会って、初めて知らされた。

「おやすみの前にしては、ちょっと長すぎやしないかい?」
友雅の手がそっとあかねの両肩を押して、互いの唇はゆっくりと離れた。
「そんなに長く可愛い唇を重ねられたら、興奮して眠れなくなってしまうよ」
「こ、こ、興奮…っ…?」
「眠る前には、刺激が強すぎるということだよ。もしや…とか、あらぬ期待をしたりして」
「そっ、そういうわけではっ!」
目の前で、くすっと笑う彼の笑みは艶やかで、こちらがどきどきしてしまう。
キスは何ともないのに、向けられた笑みと瞳に…胸がときめく。
「ちがいます!何でもないです!別に期待されるようなことはっ!」
「ああ、分かった分かった。ほら、足元あぶないから。その後ろにも本が積んであって…」
部屋はそれなりに広いけれど、荷物が片付いていないおかげで、そこら中に箱や本が散乱している。
無造作に置きっぱなしな荷物たちは、足場を遮ることもある。

「あかね殿!」
軽いパニックに陥ったまま、後ずさりしようとしたあかねの踵に、本の束がぶつかった。
ぐらりと身体がよろめき、本と荷箱の海へ倒れ込みそうになった彼女の手を、友雅がすぐに引っ張り上げる。
だが、あいにくと彼の足元近くにも,大量の本が山積みで。
突然あかねの重心を受け入れたおかげで、今度は彼が後ろに倒れてしまう羽目となった。
幸いだったのは、背後が彼のベッドだったことくらい。
マットのスプリングのおかげで、身体を傷めることはなかった。
「だから危ないって言っただろう」
「ご、ごめんなさい…」
窘めるように言いつつも、怒っているわけではない。
むしろ、あかねに怪我がなかったことに、ホッとしている表情だ。
「散らかっているからね。足元に注意して歩かないと、あちこちでまた躓くよ」
友雅はそう言って、あかねの頭を優しく撫でた。

指先ですくいあげても、こぼれ落ちてしまうサラサラの髪。
絹糸にも似た感触が心地良くて、何となく手放せないでいる。
竪琴を奏でるような仕草で髪を梳くと、ふいに指先が彼女の耳朶に触れた。
「………っ」
びくっとして咄嗟に目を瞑り、頬に紅がさす。
小さく開いた唇は言葉を発さず、全身の神経が耳朶に集中しているかのようで。

……そんな顔されたら、どうしようもなくなるじゃないか。
心の中でつぶやいたあと、彼の手はあかねを抱きしめていた。


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メイドたちが集まる詰所内で、藤姫はすっかりマスコット扱いだ。
とにかく幼いながらも仕事は一生懸命だし、あかねに対しては甲斐甲斐しいし。
難しい人間界の、しかも王宮特有のしきたりについても、積極的に覚えようと頑張る姿は、いつも場を和ませてくれる。
「あらまあ、綺麗なお花。外の花壇で摘んできたの?」
「ええ、あかね様のお部屋に飾ろうと思いまして。たくさん摘んだので、こちらにも少し飾ってみましたわ」
中庭にあるたくさんの花は、自由に摘んで部屋に飾るために植えられている。
色とりどりの薔薇を始めとして、白いマーガレットや黄色いミモザなど。毎日の気分に合わせて、新鮮な花を飾る。

「そういえば、今日は午後からあかね様のお仕立て合わせなのよ。早いうちに、ご用意をして差し上げないといけないわね」
メイドの一人が、藤姫の生けた花を眺めて話す。
間近に迫った、上級巫女継承儀式。
"お仕立て合わせ"というのは、儀式当日に次期上級巫女が身に着ける聖衣を、直に袖を通してあつらえを確かめる。
その後聖堂へ行き、儀式の段取りを復習する。つまり、リハーサルである。
「上級巫女様が身に着けるものですもの。しっかりお仕立てしなくてはね」
「私も精一杯、お手伝いいたしますわ」
花束を握りしめて答えた藤姫に、メイドたちは顔を見合わせて微笑んだ。



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Megumi,Ka

suga