涼風肌に心地良く

 001
「ねえ祥穂、泰明殿と鷹通殿がご一緒にいらっしゃるなんて、珍しいわね」
「そうでございますねえ。普段はあまりお二人がご一緒なのは、なかなかお見かけ致しませんね」
厨房で千歳は、母の来客である泰明と鷹通のために、祥穂と二人で飲み物を作りながら話す。
「一体どんなご用で、いらしたのかしら?」
今日は友雅も参内しているし、二人がやって来た時にあかねは"お待ちしてました"と言っていたのを見ると、急な来訪ではなかったみたいだ。
「当家のお風呂のことで、何か奥方様にお話があるようでございましたよ」
「お風呂?お風呂がどうかしたのかしら」
さあ、そこまでは…と祥穂の情報も、ここまでしか辿れなかったらしい。

橘家には、この時代には珍しいことだが、風呂を兼ね備えた部屋がある。
時折寺院などで、蒸し風呂や沐浴に似た場所が設置されていたりもするが、橘家の風呂は、湯に浸かって身体を洗えるという、現代に近い様式だ。
もちろんこの発端は、あかねの提案から始まったもの。
現代の風呂には到底及ばないが、身体を洗うということは行水でも分かる通り、気持ちの良いもの。
それが湯であるなら、寒い冬などは芯から暖まる。

「それでは千歳様、お飲物お一人でお持ちになれますか?」
「平気よ。これくらい全然重くないわ。いつもお手伝いしてますもの。」
あかねの分を含めて、三つの碗を盆の上に乗せて、千歳は彼らのいる母屋へと向かった。


「あら?母様ー?泰明殿ー?鷹通殿ー?」
母屋にやって来ると、そこはもぬけの殻。
名前を呼んでも反応はなく、簀子に出て庭を見渡してみても、やはり人の気配は見当たらなかった。
「せっかく冷たくした麦湯が、ぬるくなってしまいますわ」
みんな、どこに行ったんだろう?
取り敢えずそれらを部屋の隅に置いて、千歳は廊下に戻ってみる。
そして、ぱたぱたとそこら辺りの部屋を覗いているうちに、奥にある土間の向こうから声が聞こえてきた。



「そうか。ここで湯を沸かせば、蒸気が上がって室温も冷えないということか」
「蒸気で身体を暖めるというのは、寺院などでよく聞きますが…確かに、洗い流した方が、衛生的には良いですね」
「それに、冬場はちゃんとお湯に浸かると、身体の中から暖まりますよ。」
千歳が声を頼りに部屋を覗き込むと、あかねたちは風呂の中で何やら話している。
泰明は周囲を興味深げに眺め、鷹通もそれらの造りに感心しながら、あかねの話に耳を傾けていた。
「周囲は…岩と粘土で固めているのか。」
「そうです。土台はしっかり固めて、中はほら…板を周囲に組んで大きな桶みたいにしてるんです」
板を内側に張れば、熱い湯で温度の上がった表面に肌が触れても、火傷するような温度にはならないのだ、と彼女は説明した。
「実に面白い造りだ。これならお師匠も納得するだろう。近いうちに屋敷でも、実験的に設置してみるとしよう」
泰明はしみじみと、あかねの言葉に納得していた。

「おや、千歳殿。いらっしゃっていたのですか?」
柱の陰から、こちらを覗いていた彼女を見つけ、鷹通が真っ先に微笑みかけた。
「お飲物のご用意が出来たので、お部屋にお届けしたら誰もいないんですもの。探してしまいましたわ。」
「ああ、ごめんね千歳。ちょっと泰明さんたちに、説明することがあって…」
三人は一旦話を切り上げ、風呂部屋から出て母屋に戻ることにした。

「ねえ、お風呂でどんなお話をしていたの?」
「その風呂についてのことを、あかね殿からお教え頂き、いろいろと助言を頂いていたのですよ。」
あかねに手を引かれながら、千歳は後ろの鷹通を振り返る。
彼女の問いに答えたつもりだったが、まだ彼女には意味が通じなかったようで、続けて泰明が補足した。
「この京では、この屋敷のような風呂は滅多にない、珍しいものなのだ。」
「えっ!そうですの?私、どこにでもあるものだと思ってましたわ!」
びっくりして、千歳が三人の顔を交互にきょろきょろと見る。
そんな話をしているうちに、すぐに母屋へ着いた。


「まあ、お風呂っていうものは、そんなに珍しいものでしたのねっ」
泰明と鷹通から、京の風呂事情について話してもらった千歳は、驚きながら話を聞いていた。
生まれたときから、湯に浸かるという風呂があった彼女にとっては、あるのが当然という感じだったのだろう。
だが、それは全く違っていて、限られた階級の人々…そして、このような風呂なども、滅多にないものと初めて知ったようだ。

「私の世界では、直接お風呂の下で薪を焚いたりして、それごと沸騰させるような感じなんですけど…それはちょっと無理なんで。」
橘家では厨房と隣り合わせに、大きな釜を造りつけ、その中で常に湯を大量に沸かし続ける。
そして風呂に入る時は、湯を風呂に汲み分けてから、水で温度を調節する。
「手間暇掛かって、面倒なんですけどねー」
「しかし、常に清潔な湯を使えるのですから、良いことでしょう。我が家にもいずれ是非、設置したいものです」
鷹通はそう言って、うなずいた。
彼らが今日ここにやって来たのは、他でもない。
この橘家を参考に、自宅にも風呂を取り入れようという考えでの、つまり現場見学だったのだ。



「ああ、鷹通と泰明殿か。今日来る予定だったんだね」
「父様!兄様!おかえりなさいませ!」
弓の練習に行った文紀を連れて、友雅が帰宅してきた。
外は既に夏本番の暑さ。
文紀は父から借りた扇を、小さな手でぱたぱたと扇いでいる。

「風呂の見学だったっけね。どうだい、我が家の自慢の風呂は。」
「とても効率の良いものですね。これなら個人宅だけではなく、町の人々にも浸透させたいものです」
「そう、その事なんだけれども……」
友雅が懐の中から、折り畳んだ一枚の文を取り出した。
ノウゼンカズラを一輪添えた、淡い若草色の上質な和紙を開いてみると、そこには達筆な文字が認められている。
「あかね宛てに、主上からの直々の御文だよ」
「え、私に!?」
そんなものが、何故あかねに直接送られてきたのだろう?
彼女は突然のことに、驚いている。

友雅はあかねの代わりに、文を開いて読んでくれた。
「丁度今、鷹通が言っていたことと重なるんだ。実は町中に、公共の風呂のような施設を作るのはどうか、って話があってね」
随分前のことになるのだが、帝に自宅の風呂の話をしたことがある。
その話に帝は随分と興味津々で、いろいろと詳細を尋ねられた。
帝自身は禊ぎなどで、沐浴や行水などを日頃から行ってはいるが、湯に浸かってのんびりするという感覚が、新鮮で珍しかったらしい。
「で、うちのような風呂を見習って町の一角に作り、人々が気軽に湯浴みができるようにしたらどうか…って話なんだ。」
「それは素晴らしいお考えですね。これから更に暑さが増しますから…。」
夏の猛暑がやって来れば、何かと不衛生な部分が多くなる。
そこから疫病が流行らないとも限らない。
こんな施設があれば、市井の者も気持ち良く夏が過ごせるだろう。

「というわけで、主上のお考えでは、その計画に是非、あかねの助言を頂きたいということなんだよね」
「わ、私が助言ですか!?主上の提案に!?」
開いた文を閉じて、友雅はあかねにそのまま手渡す。
「こういった斬新な発想ができるのは、あかねだけだしね。色々と力になってもらいたいので、一度参内してくれないかって。」
そんな大掛かりな計画に、自分が参加するなんてこと…ホントに良いんだろうか?
京の町を過ごしやすくするための、スケールの大きな一大事業じゃないか。

「私に…出来るんですかね…?」
「大丈夫ですよ、あかね殿。あかね殿のお知恵があってこそ、こんなにも豊かな京が育まれているのですから。」
声に反応して顔を上げると、眼鏡の向こうで穏やかに微笑む鷹通の瞳がある。
続いて泰明が、表情も変えずにこちらを見て言う。
「問題ない。おまえの知識は十分に京の為になる、画期的な知識だ。存分に活かさねば勿体ないぞ。」
鷹通も泰明も、そして友雅も黙ってあかねを見ている。
無言の中に、"あなたなら大丈夫だ"と、力強く励ますような表情で。

「その時は私も一緒に付き添うよ。」
さすがにあかねを、一人で参内するのは不安が残る。
それに、是非千歳たちも連れて来るように、という主上の言葉も承っているし。
「わ、わかりました…じゃあ、あとで…」
少々戸惑いは残るが、大切な京の町が潤うための手助けになるなら。
神子として過ごしたあの日の頃のように、もう一度頑張ってみようか…とあかねは思った。



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Megumi,Ka

suga