夏と翼と花景色

 001
少し動いただけで、すぐに汗ばんで来てしまう気温。
近所を散歩していると、雨の中で色付いていた紫陽花の姿は消え、ひまわりや朝顔の姿を多く見かける。
7月も終わりかけたカレンダー。
大人にとっては何の変哲もない暦だが、子どもたちにとっては待ってましたの季節到来だ。

「はい、よく出来ましたね。全部正解ですよ」
「ホント?良かった!」
鷹通からの言葉に、千歳はホッとしたように喜んだ。
「お二人とも、ちゃんと綺麗に書かれていますし、書き順も間違っていませんよ」
「良かったわ。何度もそこ間違ってたの。そうしたら兄様が、繰り返し書けば覚えるからって、何度も何度も書いたの」
「そういう心構えが、大事なんですよ。諦めないで丁寧に繰り返していれば、ちゃんと覚えられるようになりますからね」

この子たちの良いところは、何事にも放置しないことだ。
良い意味で負けず嫌いというか、失敗してもそこで諦めることはない。
何とか成功させようと、結果が出るまで続ける持久力がある。
そのせいか、教えたことはしっかり正確に覚えて、その後同じ箇所を間違うことは殆どなかった。
「では、一学期の復習はおしまいです。二学期の予習は、お出掛けから帰って来たらやりましょうね」
「はい。ありがとうございました」
文紀と一緒に千歳もぺこりと頭を下げて、机の上に置かれたノートや教科書を片付け始める。
初等部の一年生では、まだそれほど真剣に学ぶものは少ない。
用意する教材も、二人分揃えてもたいした量じゃないので、すぐにまとめられる。

コンコン
ドアをノックする音がして、続いて外から声が聞こえた。
「失礼。今日の二人のおつとめは、もう済んだかな?」
「ええ、どうぞ」
鷹通が答えると、ゆっくりとドアが開く。
帰宅したばかりなのか、友雅はYシャツのボタンを緩めにした格好で、下はまだスラックスのまま。
その腕には、小さな姫君が抱かれている。
「お二人とも今日一日で、随分とお勉強が進みましたよ」
「それは良かった。よく頑張ったね」
まゆきを抱きながら、もう片方の手で二人の頭を優しく撫でると、彼らは嬉しそうに笑って父を見上げた。

「ところで、これから夕飯なんだが。よかったら君も一緒にどうかな」
時計を見ると…なるほど、もう夕方という時刻も過ぎている。
一般的に見ても、夕食を囲む家庭が増えて来る時間だ。
「もうこんな時間ですし、私はこれで失礼させていただきます」
せっかくの一家団欒の時間。仕事も終わったことだし、ここは遠慮させてもらうのが正解だろう。
しかし、帰り支度を始めようとした彼の腕を、千歳がぎゅっと握りしめた。
「まあどうして?私、鷹通先生とごはんいただきたいわ」
「何か用事でもあるのかい?」
「いえ、そうではありませんが…」
「だったら、是非同席して欲しいね。もう君の分も用意してあるのだし」
友雅は、そう言う。
そして腕にしがみつく千歳と、文紀もそろってきらきらした瞳でこちらを見る。
「では…ご迷惑でなければ…」
「そんなことありませんわっ。ねえ父様っ」
「そうそう。さあ二人とも、先生を案内して差し上げておくれ」
片付けを簡単に済ませて、子どもたちは鷹通の手を引きながら客間へと誘う。
こんなに朗らかな笑顔に囲まれては、お招きを断るなんてとても出来ないな、と鷹通は笑った。


朝食はダイニングルームだが、夕飯は必ず和室の広間で摂る。
全体的に日本家屋の橘家であるが、完璧に和風というわけではない。
寝るのはベッドだし、リビングにはソファもある。
ほどよく和洋折衷…というより、ほんの少し和の風情が強い程度というところだ。
「鷹通先生っ、ご飯のおかわりいかが?」
「いえいえ、もう十分ですよ。とても美味しかったです」
まぐろのステーキや豆腐のサラダ、煮物と酢の物も添えられて。
お手伝いさんがいながらも、食事はすべてあかねが用意しているという。
「一人暮らしだと、こんな夕飯は久々だろう。それとも、ちゃんと用意してくれる人がいるのかな」
「そんな…私はそれほど甲斐性ありませんし」
恋愛の話はおいといて、確かにこうした食事は久しぶりだ。
外食でもなければ、これほどの品揃えを毎日食べられはしない。

「うちの学芸員になってくれれば、毎日食べに来てくれても良いんだがねえ」
友雅のさりげない誘いに、鷹通は苦笑いをする。
父親同士の親しい付き合いで、長く顔なじみであった友雅の方から、大学在学中より何度もオファーを受けていた。
しかし、残念ながら美術や骨董という芸術系の知識には疎く、生物学専攻だったこともあり、学芸員は学芸員でも博物館の方に就職してしまったのだった。
それでも、学生時代から塾の講師や家庭教師のバイトをしていた知性を買われ、今もこうして子どもたちの家庭教師を続けている。

「おとーふ!」
「はい?」
あどけない声に顔を上げると、まゆきが鷹通を覗き込んで器を指差した。
落ち着いた砂目の小鉢には、刻んだ野菜をちらした白い豆腐。
「おとーふ」
「ええ、お豆腐ですよ。まゆき様、よく覚えましたねえ」
絹糸にも似た手触りの髪を撫でながら、鷹通は彼女に微笑みかけた。
二歳のまゆきも、日に日に単語がしっかりと言葉になっていく。
おそらくあっという間に、一人前の会話が出来るようになる。
そうしたら、更にこの家は賑やかになるはずだ。
「母様、別荘に行ったら、私がこのサラダ作るわ。良いでしょ?」
「はいはい。じゃあ、サラダ担当は千歳に決まりね」
あかねは千歳の話に耳を傾けながら、空になった汁物の碗を片付けた、

「夏休みは高原の方へ?」
「ああ。私の休みが取れるのは一週間ほどだから、それほど長居は出来ないのだけれどね」
橘家の別荘は、全国的にも有名な避暑地にある。
山奥ではないが緑多い高原が近く、自然に囲まれた静かな地区の邸宅付近には、子どもたちが遊べる小川や池なども多い。
冬は雪が多いのであまり訪れたりしないが、暑い夏には大人にも子どもにも過ごしやすい。
「でもね、別荘から帰ったら、今度は沖縄のおじいさまのおうちに行くのよ」
千歳が楽し気な表情で、鷹通を見ながら言った。
あかねの両親は、今は沖縄に住んでいる。滅多に顔を見られない孫たちと会えるので、夏休みや年末年始を楽しみにしているのだ。

「この子たちを先に行かせて、私は仕事を済ませて後から合流。いやはや、夏は本当に忙しいよ」
「よろしいではないですか。夏休みの想い出が、たくさん出来ますね」
夏休みの宿題の定番といえば、やはり絵日記。彼らにもちゃんと、学校からノートが渡されている。
しかし、普段からこうして楽しそうに過ごしている彼らには、夏休みであろうとなかろうと、書きたいことが山ほどあるだろう。
「鷹通先生にも、お土産買って来ますわね」
「ありがとうございます。楽しみにしておりますね」
楽しみにしているのは、彼らから聞かされるはずの想い出話。
夏の終わりに、またこうして二人と再会した時、どんな話をしてくれるのか。
青空から注ぐ眩しい陽射しを、全身にたっぷりと浴びた元気な彼らに会うのが、今から待ち遠しい気がした。



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Megumi,Ka

suga