幸せのかたち

 001
今よりもっと小さい頃から、彼女の泣き顔を見た記憶は殆どない。
いつも想いのまま正直に、元気いっぱいにはしゃぎまわっては、笑って、そして時々拗ねたりして。
でも、あからさまに泣いたことなんて、なかったはずだった。


「ただいま、千歳。母様は、お忙しいのかい?」
その日も普通同様に、左近衛府の仕事を終えて帰宅した。
庭の橘も花の盛りを終えて、少しばかり、暑さを感じる日が続いていた頃だった。
毎日友雅が帰宅すると、娘の千歳と妻のあかねが揃って出迎えてくれる。
けれども、その日は千歳が一人だけで入口に立ち、父の帰りを迎えた。
そして----------

「父様…っ!!!」
嬉しそうに飛び付いてくるはずの彼女が、友雅の顔を見上げたとたん、両目から大粒の涙をぼろぼろとこぼしてしがみついてきた。
「千歳、どう…したんだい?」
思いも寄らない千歳の姿に、友雅は狼狽えずにはいられなかった。
それでも彼女は父の胸に飛び込み、ぐすんぐすんと泣き続けている。
「ほら、泣いていちゃ分からないよ。綺麗な瞳が赤く腫れたら勿体ないだろう。」
指先で涙を何度も払ってやるけれど、それは止まることを知らない。
大切な自分の宝石のひとつ。
どんな時でも、その笑顔を守り続けてやろうと…彼女が生まれた時にそう誓った。
そして、何とか守ってこられたと思っていた…今の今まで。
なのにどうして…。
彼女を泣かせた理由は、一体どんなことなんだろう。

「母様…が…っ…」
「え?母様が、どうかしたのかい?」
ぎゅうっと友雅の袖を掴んで、声を上擦らせる千歳が言ったのは、母のこと。
あかねに、何かあったのか?
彼女は新しい命を身体に宿して、三ヶ月を過ぎた頃だ。
泰明や侍医に体調を診て貰っているが、特に問題なく順調だと聞いている。
けれども、普通の身体ではないのは確か。
まさか、何か異変が起こったなんてことは………。

「母様がぁ……ご、ご気分…悪い…って…寝込まれ…ちゃいました…の……っ」
「寝込んだ?今朝は元気だったろう。それから、容態がおかしくなったのかい?」
「…ゆ、夕餉…のお支度をしようと思ったの…。そうしたら……具合が…」
午後になり、そろそろ夕餉の支度をしようかとあかねが言った。
千歳も手伝いをしようと、着替えを終えて厨房に向かうと、そこにいた母は侍女たちに取り囲まれていた。
急に気分が悪いと言い出して、侍女たちも慌ててあかねを寝所に連れて行ってしまったのだと言う。
「母様…ぁ……」
わああんと友雅の胸に顔を埋めて、堰を切ったように千歳は大声で泣き出した。

あかねの容態は、何よりも心配だ。
けれども、こんなにまで泣きじゃくっている千歳を、このまま放ってはおけない。
目の当たりにした母の急変に、どんなに不安が募っていたか。
周囲が慌てる中、一人で何も出来なかった彼女の気持ちを思ったら…。

「千歳、とにかく…母様のところに行こう。父様も容態が心配だからね。」
彼女を両腕で抱きかかえ、友雅は西の対にある寝所へと向かった。




そっと寝所の戸を開けて、几帳から中を覗き込んだ。
引かれた床に、静かに横たわるあかねの姿。
枕元には、文紀が一人でぽつんと座っている。
「おかえりなさい…父上。」
「ああ。びっくりしたよ、千歳が泣きついて来たものだから…」
千歳を胸に抱いて、友雅は文紀の隣に腰を下ろす。

「母様は、まだ気付かれないのかい?」
「はい…。僕が来てからは全然…」
友雅は、もう一度しっかりあかねの顔を伺った。
見たところ、顔色はたいして悪いようには見えない。
呼吸も落ち着いているし、病というよりは熟睡しているように思えるが…。

「母上…ご病気だったんでしょうか…」
「いや。それなら侍医か泰明殿が気付いてくれるだろう。それはないよ。」
今は特に大事な身体だから、普通よりもしっかり体調を診てくれるように、口を酸っぱくして言っている。
泰明は、こういうことに立ち会うのは二度目だし、言われなくても母体と胎児の様子は細かくチェックしてくれているはず。
それに彼なら、あかねに異常があればすぐに察知できるだろう。
だから安心していたのだが。


「僕がもっと、お手伝いをして差し上げてたら…お身体に障らなかったのかも…」
ぐすん、と文紀が鼻をすすりながら、細い首をうなだれた。
「お屋敷のお掃除とか、朝餉と夕餉の後片付けとか…それくらいやってあげたら良かった…」
「そんなことはないよ。文紀はちゃんと、手伝いをしているじゃないか。いつも母様は、文紀に感謝しているよ?」
友雅は小さな文紀の肩に、そっと手を伸ばした。
笛や弓の稽古などに通っているので、最近は外出する機会も増えた文紀。
それでも早く家に戻ったときは、千歳と一緒にあかねの手伝いや、部屋の掃除なども率先して頑張っている。
あかねの口からも、"文紀は男の子なのに、いろいろ手伝いをしてくれて有り難い"と、何度も聞いているし、それらは侍女たちからも聞く言葉だ。

「でも、今の母上はお身体も大変だし、もっと今まで以上に頑張ってあげてたら…きっと…」
文紀はぽろりとこぼれてくる涙を、ごしごしとこすって拭こうとするが、やっぱり止めるのは無理なようだ。
男の子が簡単に泣くなんて、みっともないからしっかりしないと…。
分かっているのに。
だからどんな時でも歯を食いしばって、涙がこぼれる前にぐっと飲み込んだのに、今回だけはどうにも出来ない。
「文紀、今は良いんだよ。無理しなくても。」
崩れそうな文紀を抱き寄せて、二人一緒に腕に抱えてやる。
隣で声を殺す兄の姿に、千歳も小さくなってぐすんと涙を啜った。

やりきれないな…。
我が子がこんなに悲しんでるのを、眺めているしか出来ないなんて、父親として情けないよ。
抱きしめてやったところで、結局この子たちの涙を止めるのは、彼女が元気に目を覚ます以外には術が無い。
文紀を傍らに抱き寄せて、友雅は安らかに眠るあかねの寝顔を眺めた。

ねえ、あかね。
いつもどおりの元気な笑顔で、早く私を見てくれないか。
おかえり、って軽やかな声で千歳と共に、私を迎え入れて欲しかったんだよ。
早く起き上がって、そうしたら二人で…この子たちを抱きしめてやろう。
私だけでは、駄目みたいなんだ。
君が必要なんだよ。私も…この子たちも。

一刻も早く、目を覚ましておくれ。
寂しがっているよ…………。
もちろん、私もだよ。



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Megumi,Ka

suga