春を呼ぶ声

 001
梅の花は満開をやや過ぎて、桜が咲くにはまだ早い。
それでも外は、すっかり春めいて来た陽気があふれて、過ごしやすい日々が続いている。

「あれ?文紀様、お出掛けなんですか?」
外出用の半尻を着て、靴を履き終えた文紀を玄関先で見つけた宇敦が、すぐにこちらへ駆け寄って来た。
「今日は何か、お稽古がある日でしたっけ?」
「ううん、今日は何もないよ。」
文紀は武芸をみっつほど、それぞれの師範の屋敷に通って習っている。
笛、弓、書…。それらはすべて幼い頃に、彼が自ら興味を示したものである。
父の友雅は知人のつてを頼り、文紀にしっかり技術が学べるような人物を探してもらった。
そういうわけで文紀は、週に3日は稽古で外出する予定がある。
双子の妹である千歳と共に、もうすぐ齢六つとなる彼。
なかなか多忙な少年である。

しかし今日の彼は、別の意味で忙しいのであった。
「これから、桃の花を探しに行くんだよ。明日は桃の節句だから。」
「あ、そうか…。そういえば、そんな時期ですよね。」
暦は明日で上巳。
人形(ひとがた)などを水に流し、穢れを払う儀式があちこちで行われる。
だが、橘家ではそんな儀式に加えてもうひとつ、華やかで賑やかな宴が毎年繰り広げられる。
「だからうちの母も、お屋敷の手伝いで忙しくしてたんですね。」
「うん。母上も祥穂たちも、みんな明日の用意で大変そうだよ。」

上巳の日は、桃の節句。
文紀たちの母が生まれ育った世界では、女の子の健やかな成長を祝うお祭りなのだと言う。
華やかな装束の男女の人形を飾り、豪華な料理を作って宴を開く。
人形の横には、右近の橘と左近の桜になぞらえて、左右に桜と橘を飾る。
「橘は家の庭にいっぱいあるからね。」
「桜も、まだ他では殆ど咲いていませんけど、特別な一本があるから心配はないですよね。」
永遠の緑と、永遠の桜。
そんな不思議で…栄華を表すような光景が、橘家には存在している。

「でも、桃の花はないんだよね、うちの庭。」
母が嫁いだときに、かなりの植樹と植苗をした庭。
しかし梅や桜があるのに、桃の花はどこにも見当たらない。
何故なのかと尋ねたら、母は
『桜と梅をたくさん植え過ぎちゃって、桃の木を植える場所がなくなっちゃったのよねえ』。
そしてある時、同じ事を父に尋ねてみたら、
『桃の木なんて、うちには必要ないんだよ。愛しい家族がいてくれるだけで、もうここは桃源郷だから。』
笑いながら二人は、そう答えたけれど…果たして真実は、どっちだったんだろう。

ま、そういうことは置いといて。
「一応桃の節句って言うんだから、やっぱり花は飾らなきゃね。だから、これから探しに行くんだ。」
トントンと踵を叩きながら、春の陽射しの中で文紀は背伸びをした。
「じゃあ、僕も一緒に行きますよ。一人より二人の方が、たくさん持って帰れるでしょう」
「宇敦は忙しくないの?乳母やに、おつかいとか頼まれたりしてないの?」
「そんなの、他のヤツがやりますって。文紀様のお手伝いって言えば、きっと大丈夫ですよ。」
あれこれ母たちに使いっ走りをされるより、文紀と一緒に出歩いている方が、よっぽど楽しい。

彼らが生まれたときから、時には兄弟のように。
ある時は、気の知れた友達のように。
"私たちは、あくまで使用人のようなもの。主の方々には、身分を弁えてお付き合いしなきゃいけない"
母は口煩くそんなことを繰り返す。
けれど、彼らや主の友雅とあかねはと言えば、全く逆のことを言う、
"年も近い友達同士なのだから、かしこまった言葉遣いなんて、いらないんだよ"
そう友雅が言えば、文紀も同じように言う。
"普通にしゃべろうよ。何か…堅苦しくて、こっちが緊張しちゃうし。"

敬語とかそんなもの、二人で遊ぶときには不必要。
そんなものを覚えるのは、もっと大人になってからで充分だ。





山に向かって続く川沿いには、あちこちに市が出ている。
寒さも遠のき、ようやく商いを始められる季節となったことで、町中もどんどん賑やかになってゆく。
「今年はね、桃の枝も出来るだけたくさん、持って帰りたいんだ。」
菓子売りから買った飴を頬張って、文紀たちはてくてくと歩きながら話す。
「千歳だけじゃなく、今年はまゆきもいるからね。花はたくさんあった方が、華やかで賑やかで良いし。」
「そーですね。女の子のお祭りですからねー。そういうのが良いですよね。」
艶やかに華やかに、ふわりとした桃色の花があちこちに飾って。
夢のような優しい色に囲まれて………女の子には、そんな景色がよく似合う。

「良い子に元気に育ちますようにって、願いごとをするんだよ。」
そう話す文紀の表情は、どこか幸せそうで楽しそうだ。
まゆきも早いもので、生後2ヶ月を過ぎた。
生まれるまでの間も落ち着かなかった橘家だが、生まれたあとはもっと大賑わいの毎日が続いている。
そんな中で小さな彼女は、すくすくと大きくなっている。

「最近、まゆき様はよく笑いますよね。」
宇敦も乳母をしている母に付き添って、まゆきの世話を覗き込むことがある。
大抵そこには、千歳か文紀がいるのだけれど、ちょっとあやしてやると声を上げて笑うことが増えた。
「僕らより、反応が早いって言ってたよ、父上も母上も。」
健やかに育っている、ということだろうか。
それなら、なによりだ。

「で、どうしますか文紀様。桃の木の宛てはあるんですか?」
「うん。去年と一昨年、父上と一緒に行ったところがあるんだけど、やっぱりそこが良いかなあ。」
確かそこは、大豊神社の近くだったような。
「ちょっと歩いて行くには、遠すぎませんかね?」
「そうかなあ、やっぱり…」
あの時は父と一緒に、牛車で出掛けたのだった。
桃の枝を抱えて歩いて行き来するには、遠すぎるし疲れてしまうだろうか。


そんな二人の前に、一台の牛車が停まった。
何だろう?と足を止めた文紀たちの前で、車の小窓がカラリと開いて、中の者が顔を出す。
「ああ、やっぱ文紀じゃんか。宇敦も一緒になって、二人でこんなところで何やってんだ?」
「あ…イノリ殿」
まさかこんなところで、彼と遭遇するとは。
「えっと…桃の花の枝を探してるんですけど。」
「桃の花?」
文紀は取り敢えず、イノリに尋ねてみることにした。
町で育った彼は、あちらこちらに顔が利く。
もしかしたらもっと近くに、桃の木がある場所を知っているかもしれない。

「そうだなあ…。ここらはちょっと宛てがないけど、伏見稲荷の近くになら心当たりがあるぜ?」
伏見稲荷と言えば、この四条から歩いて行くには…やはりちょっと遠いか。
特に子どもの足では、かなり無理があるかもしれないし。
「だったら、おまえら一緒に乗ってけよ。俺、伏見稲荷の鳥居修理に行くんだ。ついでに連れてってやるよ。」
「え、良いんですか?」
願ってもないことだが、そんなの図々しくないだろうか。

するとイノリは車から降りて来て、文紀たちの手を引っ張った。
「ほれ!子どもは遠慮なんかしないで良いっての!」
イノリはひょいっと二人を抱え込み、車の中へ押し込む。
そうしてすぐに、車はゆっくりと進み始めた。



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Megumi,Ka

suga