金銀砂子

 001
橘家の朝は、いつも慌ただしい。
どこの家でも朝はそんなものだが、一風違うのがこの家だ。

一番早く起き出すのは、女房頭の祥穂であろう。
目覚めるとすぐに、隣の子供部屋の様子を確認する。
すやすやと寝息を立てる彼らを確認してから、次に侍女たちを起こして厨房へと向かう。
常に種火が消えない大龜からは、沸々と湧きあがる白い湯気。
湯を汲み、米をとぎ、野菜を刻み……と、侍女たちがそれぞれに作業を始める頃になると、橘家の女主人がやって来る。

「おはようございます。今朝は良いお天気ですねー」
長い髪をきゅっと束ね、袿ではなく軽い生地で作った小袖に身を包み、袖をまくりあげて。
侍女でさえそんな格好をすることはないのに、動き回るにはこっちの方が機能的だし、と笑って答える。

大祓が終わり、暦の上では季節が夏から秋に移り始める。
だが、この立ちこめる湯気に触れることを、あまり心地良いとは言えない日々が続いている。
「ええと、祥穂さんは?」
厨房を見渡してみると、彼女の姿が見えない。
「広間の方で、お支度をされておりますわ」
「そうですか。じゃあ、私お鍋を持って行きますね」
野菜が程よく煮えた鍋を、よいしょと持ち上げる。
主がするようなことではないのに、それが当たり前であることが橘家のまた一風変わったところ。

「まあ、奥方様申し訳ございません。お手伝いに参りませんで」
あかねが鍋を抱えてやって来ると、慌てて祥穂が駆け寄って来た。
小窓の下には竃があり、薪に火が灯されている。
冬場には暖を取れて重宝したそれらも、この時期はちょっと困りものなのだが、蔀も格子戸もほぼ全開にしてあるため、広間の風通しは良くなっている。
そうしているうちに、鍋の中身はふつふつとし始め、侍女たちは厨房から料理を運び入れる。
「奥方様、こちらは私共が用意致しますので、そろそろお子様方を…」
「そうですね。今日は忙しいから、少し早めに起こさなきゃ」
衣桁に掛けられた子どもたちの衣は、色も仕立ても夏用の涼しげな装い。
あかねはそれを手に、彼らの部屋へと向かった。


部屋の前まで来ると、中から声が聞こえる。
まるで庭先の小鳥たちが集まって、さえずっているような賑やかさ。
「あっ、母様!おはようございますっ」
静かに戸を開けたあかねの姿が見えると、三人は既に床から出てごろごろと寝転がっている。
「ままー、おはおー!」
「はいはい、みんな朝から元気ねえ」
太陽が昇るのと、彼らが目覚めるのと、一体どちらが早いだろう。
普段から、寝過ごすことは殆どない子どもたち。
一分でも長く遊んでいたいから、眠ってなんていられない!という感じで元気いっぱいだ。
「いつから起きてたの?」
床の上に腰を下ろし、持って来た衣を広げながらあかねが言う。
「早く目が覚めてしまったの。だって今日は、およばれの日ですもの」
「千歳ってば、夕べも眠れない眠れないって遅くまで起きてたから、寝坊するかと思ってたのに…僕より早く起きてるんだもの」
「だって、久しぶりなんですもの。土御門のお屋敷に伺うなんて」
今日は家族全員、土御門家に招かれている。
揃って帰宅を許された藤姫と中宮から、是非とも遊びに来て欲しいと文が届いたのは一昨日。
龍神の神子として、幼い藤姫と共に過ごした土御門家は、あかねにとって懐かしい実家のような存在。
そして子どもたちにとっても、藤姫が宮中に上がるまでは度々遊びに訪れたりしたせいで、親しみを感じる場所なのだ。

「おや、寝顔を眺められるかとやって来たのだが、一足遅かったようだね」
「ぱぱ!おはおーおはおー!」
続いて現れた父の姿に、真っ先に反応したのはまゆきだ。
「ああ、おはよう。今朝は一段とご機嫌だね姫君」
小さい彼女を抱きかかえて、柔らかな頬に唇を寄せる。
その傍らで文紀たちを抱き寄せることも、彼は絶対に忘れない。
「きっとまゆきは、土御門のお屋敷に行くのが楽しみなんだわ」
千歳たちと違い、まゆきは一度も土御門家を訪れたことがなかった。
彼女が生まれた時、既に藤姫は宮中で屋敷にはおらず、何となく行きにくい気がして今に至っている。
あちらの女房たちは皆顔なじみだし、武士団には頼久もいる。
左大臣の藤姫の父もとっつきにくいわけではなく、むしろ神子の頃から世話を焼いてくれていた。
なので、別に気兼ねする必要はないと分かってはいるのだけれど…やはり藤姫がいないと、どこか他人行儀な気がして。
って、実際のところ他人の家ではあるのだが。

「まゆき、土御門のお屋敷には綺麗な藤がいっぱいあるのよ。そしてね、母様のため藤姫様が植えてくれたお花が、いっぱいあるの。お庭も広くて綺麗なのよ」
一生懸命まゆきに説明する千歳だが、まだ彼女には全部理解するのは到底無理。
でも、姉の言葉に耳を傾けて、時にはしゃいだり笑うのは、何となく意味が伝わっているのかもしれない。
「さあて、お出かけのためにも、早く着替えて朝餉にしなくてはね」
几帳を立て、千歳とまゆきはあかねに任せて。
こちら側では、友雅が文紀の身支度を手伝ってやる。
とは言っても既に彼は、一人で衣を整えるくらいきちんと出来るので、さほど手を貸す必要もない。
「今日は琵琶と笛と、どちらを持って行くんだい?」
「笛にしました。最近、ちょっと調子が良いから…」
幼い頃から文紀は琵琶と笛を嗜んでいるが、どちらもそれなりに上達している。
出来不出来に差はないと思うのだが、本人なりに感じるものがあるのだろう。納得行く何かがあるのなら、それを尊重してやっても良い年頃だ。
「永泉様も、今日はいらっしゃるかなあ」
「お誘いはしているからね。所用がなければ、いらっしゃると思うよ」
笛の名手と名高い永泉は、子どもの文紀の耳にも惹かれる音色を奏でる。
会う度に色々と手ほどきをしてもらっているので、今日もそれを楽しみにしているはずだ。


友雅たちが広間に入ると、既に使用人たちが朝餉を摂っていた。
「おはようございます。失礼ながら、先に頂いております」
「ええ、構いませんよ。どうぞどうぞ。」
主と同じ広間で主よりも先に食事をするなんて、普通あるまじきことだが、これもまた橘家流。
こうして日常生活が豊かに過ごせているのも、使用人である彼らが日々働いてくれているからだ。
自分たちは雇い主であるけれど、彼らの勤めに感謝をしつつ、元気でいてもらわなければならない。
彼らに振る舞われる料理も、殆ど家主たちと同じもの。
こんな上等なものを毎日食べている使用人なんて、京中を探してもなかなか見つからないだろうが、元気でいてもらうには栄養が一番大切なことだと、あかねが提唱した故のはからいである。

「羹のおかわりは?たくさんあるから、もっと食べてくださって結構ですのよ?」
彼らの手の中にある椀が、空っぽになっていることに気付いた千歳が、駆け寄ってきておかわりを勧める。
せっかくの勧めなので、お言葉に甘えて…と彼らが答えると、彼女は椀を持って竃の方へ足早に向かう。
侍女たちに羹をよそってもらい、盆に乗せてまた彼らに手渡す。
文紀はというと、母の手伝いをしながら、自分たちの分を友雅とまゆきのところへ運んだ。

"自分のことは自分でしましょう”
"人に頼るだけではなく、頼られるような人になりなさい"
何度となく両親が優しく伝えてきた言葉は、子どもたちの中でしっかりと芽吹いている。
まだしっかりとした自我のないまゆきも、いつか同じような芽が伸び、兄と姉のように健やかに成長していくだろう。



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Megumi,Ka

suga