あたたかい冬

 001
つい先日のことだ。
随分と寒い朝だな、と思いながら戸を開けてみると…白粉で化粧を施したような光景が、目に映った。
そういえば最近になって、朝になると水瓶にも薄い氷が張ることがある。
形に見えて、気付く季節の移り変わり。
いよいよこの京にも、本格的に冬将軍が到来したようだ。



「ねえ、兄様。本当に行かないの?」
「うん。今回は…僕は良いんだ。」
朝早くから侍女たちに囲まれ、綺麗な厚手の袿と髪を結わえた千歳。
そんな彼女は父の腕に抱えられて、目の前に立っている兄の姿を見下ろした。
「藤姫様、兄様にも会いたがってらっしゃるって。藤壺様や主上も昇殿するのを楽しみにしているって、父様もおっしゃってたのに。」
「ん、でも…」
千歳の言葉と父の視線に、文紀は少々後ろ髪を引かれるかのように、ややうつむいて声を途切れさせる。

「まあ、今回は仕方がないよ。文紀にはね、大切な仕事があるのだから。」
なかなか状況を受け入れられない千歳に、友雅が横から口を挟んだ。
"大切な仕事"
齢五つの少年がやらなくてはならない仕事なんて…と、誰もが首を傾げるだろう。
しかしそれは彼自身が、自ら父に申し出たことだ。
「留守の間、よろしく頼むよ、文紀?」
「…はい。お留守の間は、ちゃんとしっかり家を護ります。」
顔を上げて、しっかりと話す。
齢五つの少年…のはずが、こうして改めて見ると、なんと頼もしいことか。
「ああ、文紀がいてくれるなら、父様も千歳も安心して出掛けられるよ。」
友雅の大きな手のひらが、小さな文紀の頭にそっと延びる。
柔らかくて、さらりとした…母譲りの髪が指に絡む。

「じゃあ、よろしく頼むよ。なるべく早めには、帰るようにするからね。」
「はい。お気を付けてお出掛け下さい。」
二人が車に乗り込み、ゆっくりと動きだすのを見届けてから、すぐに文紀は家の中へと戻った。




千歳がいないと、家の中はぐっと静かな雰囲気になる。
とにかくいつもちょこまかと、あちこち落ち着きなく歩き回っているせいだろう。
その足音がないだけで、小鳥のさえずりが妙に大きく聞こえるような。

「あの…何かお手伝いすることとか、ありませんか?」
文紀はまず、厨房に顔を出した。
中では侍女たちが集まって、朝餉の片付けと昼の支度について話し合っている。
一般的に、京の食生活は朝と夜だけの二食だが、橘家は昼を含めて三食が日常だ。
当家の奥方が、二食では栄養が足りな過ぎるとの助言で、こうなった。
三食分の支度は容易ではないけれど、そのおかげで橘家の住人は、皆病気知らず。
未知の知識が豊富な奥方の言葉には、いつも感心しきりである。
「まあ、文紀様。何かご用でも?」
「いえ…あの、僕にお手伝い出来ることがないかと…」
すると、一人の若い侍女が慌てながら、彼の小さな両肩を支えた。
「とんでもございませんわ!文紀様のお手を煩わせるようなことなど、とても…」
と、答えようとした侍女の肩を、今度は祥穂がそっと遮るように前に出た。

「文紀様、お心遣い有り難う御座います。…そうですわね。では、奥様のお側でご様子を見ていて下さいませんか?」
「母上のそばに、ですか?」
「ええ。お身体も今が大事な時期ですから。お一人でいるよりも、文紀様がご一緒にいて下されば、きっと奥方様も気持ちが安らぐと思いますよ。」
二度目の出産が来年に近付き、彼女も随分と身体が重くなってきた。
体調は安定していて、特に問題ない健康状態ではあるのだが、愛息が側にいてくれれば心安まるだろう。

「分かりました。じゃあ母上のお部屋に…」
「ああ、申し訳ありませんが、それならば今、暖かい飲み物をご用意致しますので、お持ちになって頂けます?」
今日も冬の寒さが、身体の奥に染みこむような日だ。
火桶などで部屋は暖めてあるが、喉を潤し体内を暖めるものも恋しい頃。
「はい。じゃ、用意ができるまで、ここで待っています。」
「では、急いでご用意致しますね。」
祥穂はそう言って微笑むと、すぐに侍女たちを指示して作業を始めた。




ふう。
溜息をついて、あかねは膨らんだ自分の腹部に手を当てた。
なんのかんのと、あっというまの妊娠生活だったな…と、思うことがしばしば。
文紀と千歳を身籠もった時には、何もかも初めてで戸惑うばかりで。
今度は二度目なのだから、少しは落ち着いて対応出来るかな?と感じてはいたのだが、そうも行かなかった。
だが、既に最初の二人も大きくなって。
そして以前のように、友雅もフォローしてくれているし。
大変ではあったけれど、子どもたちや彼に支えてもらいながら、新しい命を自らの身体の中で育てる期間は、幸せでもあったな、と思い出す。

「みんな、楽しみにしているのよ。あなたに、会える日が来るのを。」
まだ見ぬ我が子に向けて、あかねはそんな風に語りかけた。


「母上、中に入っても宜しいですか?」
部屋の外から聞こえてきたのは、文紀の声。
「ええ、良いわよ。入っていらっしゃい。」
あかねが答えると、静かに戸が開いた。
彼女の幼い息子の手には、小さな黒塗りの碗がふたつ。
ふわっと白い湯気が立ち上り、爽やかな香りが鼻をくすぐる。

「柚子湯をお持ちしました。身体が暖まりますから、お飲み下さいって祥穂が用意してくれたので…」
「そうなの。あとで御礼言っておいてね。」
文紀はうなづいて、あかねの隣にやってきた。
静かにその場に座り、盆の上の碗をそっとあかねに手渡す。
すると彼女は碗を片方の手に持ち替え、空いた方の手で文紀の背中を、自分の方へ優しく引き寄せた。
「文紀もね。お手伝いしてくれて、ありがと。」
「あの、何かご用がある時は、僕が誰かを呼びに行きますから。」
「お願いね。でも、今はゆっくり一緒に、ここで暖かい柚子湯を飲みましょう?」
あかねは自分の碗を傍らに置き、彼の分の碗を文紀の手に握らせた。

清々しい柚子の香りに、口に含むとほんのり甘い暖かな舌触り。
「暖まるわねぇ。寒い時はこんな柚子湯とか、生姜湯が良いわよね。」
「本当は、葛湯の方が良いかなって言ったんですけど、上手く作れるかどうか分からないって…」
昔はこんな日になると、母が生姜を少し入れた葛湯を作ってくれた。
とろりと優しい舌触りで、じわじわと芯から身体が暖まる。
外に出ても頬がぽかぽかして、文紀はそれがお気に入りだったのだが、どうやら上手く作るコツがあるらしい。

「来年になってお腹が落ち着いたら、今度は母様が葛湯を作ってあげるわね。」
母がそう言って微笑むと、文紀は嬉しそうにうなずいた。



***********

Megumi,Ka

suga