冬色四重奏

 001
うっすらと目を開けると、格子戸の向こうが明るい。
冬の朝は、夜よりもずっと冷え込んでいて、身体を覆う大きな衣にうずもれたまま、ずっと潜っていたくなる。
だが、そうもいかない。

「ほら、二人ともそろそろ起きなさい。もう朝なのよ?」
背中を揺する母の手が、千歳と文紀を目覚めさせようとする。
文紀は目をこすりながら、ゆっくり身体を起こした。そして、早朝の空気の冷たさに身震いした。
「まだ、外は寒そうよ、母様。」
「そりゃそうでしょ、冬だもの。でもね、父様はこんなに寒くても、夜遅くまで、そして朝早くから出仕されるのよ?」
衣をかぶって、顔だけを出している千歳と話すあかねを見て、祥穂と乳母達が笑みをこぼしながら角盥を手に、子どもたちの寝所へやって来た。

「さあ、文紀様、千歳様、お起きになってお支度をしなくては。お父上が待ちくたびれてしまいますよ。」
「父様が?もう出仕されているんじゃないの?」
乳母たちの言葉に驚いた二人に、あかねは笑いながら話す。
「二人とも、夕べは寒いからって早く寝てしまったから、言っていなかったのよね。父様は、今日は物忌みなの。だから、出仕はお休み。」
その話を聞いて、千歳はやっと起き上がった。
少しまだ眠くて、やっぱり震えるくらい寒いけれど、父と一日中一緒にいられるなんてことは滅多にないから、我慢しなくちゃという気持ちになったようだ。
やっと起きた子ども達に、着替えと支度を手伝うため乳母達が手を貸した。

「ああ、申し上げ忘れておりました。奥方様、鍋が丁度煮え上がりましたと、台盤所から聞いておりました。」
祥穂が文紀の髪を梳きながら、あかねに言う。
「わかりました、ありがとうございます。さて…早く朝餉の支度をしなくちゃ!」
そう言い残し、子ども達のことは祥穂たちに頼んで、あかねは足早に部屋を出て行った。

「ねえ、祥穂…どうして母様は、いつもお食事の用意をご自分でされているの?」
千歳の髪は父親に似て、長く豊かに伸びている。少し波打つ癖も、やはり彼に似ているところだ。
その半面で、色々な事に興味津々なのは、物事に捕われない母親似なのだろう。
「あのね、この間宇敦と話してた時に言われたの。『普通の貴族は、食事の支度は侍女がやるもので、奥方様はやらないものなんだよ』って。そういう家は見たことないから、珍しいって言ってたの。そうなの?」
「まあ、そのようなお話をされていたのですか?」
彼女の髪を梳いていた乳母は、自分の息子である宇敦が言った事に対して、気まずそうに苦笑した。

だが、確かに宇敦の言う通りでもある。
貴族の奥方が、使用人と同じ様なことを自ら行うなんてことは、あり得ないことだと言って良い。
この京中を探してみても、果たしてそんな奥方に会えるかどうか。
それくらい稀なことではある。

「千歳様、それは、お二人がお生まれになった時から、奥方様がご自分でそうされていることなのですよ。」
「えっ?そうだったの?」
驚いて祥穂に尋ね返したのは、千歳ではなく文紀の方だった。
彼もまた、どこかでそんな母の様子に疑問を抱いていたようだ。
それが、まさか母自身が率先してやっていることとは、今まで思っても見なかったのだろう。
「そうでございますよ。奥方様は、元々別のところで生まれ育った御方ですから、京の習慣やしきたりなどとは違った中でお育ちになられました。ですから、私共のような生活に捕われることのない、価値観をお持ちになられているのです。」
祥穂の話を、二人は支度を整えながら聞いていた。

自分たちの母であるあかねが、この世界とは違う場所からやって来たことは、赤ん坊の頃から寝物語に聞かされていて知っていた。
特殊な事であるからこそ、しっかりとそれを理解するように、とあかね達は子ども達に包み隠さずにそれを教えた。
そのせいで、そんな異空間ともいえるあかねの育った世界の話を、彼らは物語のように耳を傾けて育った。

「母様の世界では、そういうものなのね?」
「ええ、そのようでございますね。」
一概には言えないらしいが、そういうものなのだ、とあかねは言っていた。

+++++

「うん、まあ…こんなものかな。」
台盤所の竃の前で、煮える粥の味見をしながらあかねはうなづいた。
冬の朝は冷え込むので、主食は殆どを粥にしている。それに醤を添えて、少し青菜を散らして。
「えーと、あとは…昨日作った大豆の煮物と、蓮根の酢の物とー……」
一人一人の膳の上に、小鉢を載せていく。真っ白な湯気が、部屋の中に充満する。
「奥方様、羹も煮上がりましたので、碗にお移し致します。」
「あ、はい、よろしくお願いします!」

侍女たちと毎朝毎晩、こんな調子であかねは忙しく動き回る。
こんなことは使用人がするのだから、と友雅や祥穂達には言われたものだが、やはり料理くらいは自分でしたいと思ったので。
家族に…友雅や子どもたちに、手料理を食べさせてあげたくて、半ば強引にこんな習慣を得てしまった。

でも、続けて行くと、これが結構楽しい。
現代では当たり前だった調味料がなくて、それに代用出来るものがないかと探して、見よう見まねに作ってみたら…京では全く新しい料理で珍しがられたりして。
逆に、京の伝統的な料理を祥穂たちに教わったりしながら、いろいろな事を覚えていった。
「もうそろそろ、大豆の煮物が残り少なくなったようでございます。」
「じゃあ、今度は少し多めに作っておきましょうか。」
「ええ、その方がよろしいかと。奥方様の大豆の煮物は、美味しゅうございますから、すぐに切れてしまいますわ。」
思いつきで、常備していた大豆を蜂蜜と甘蔓で煮てみたのだが、こういうものは皆初めてだったらしく、気に入ってくれた。
甘みがあるので、子どもたちも喜んで食べる。それ以来、あかねの得意料理のひとつになった。

こんな風にして、ひとつずつ新しいレパートリーが増えて行く。
毎日、美味しそうに食べてくれる人達のことを思いながら、台盤所を所狭しと歩き回るのが、とても楽しい。

+++++

「朝寝坊だねえ、我が家の若君と姫君は。」
ようやく支度を済ませた子ども達が、母屋にやって来た。迷わず千歳は父の隣に座り、文紀は丁度向かいに腰を下ろす。
朝餉の席でも、夕餉の席でも、これが二人の定位置だ。
「お休みと知っていたら、もう少し早く起きましたわ。」
緋色の袿をひらりとはためかせて、隣に座る幼い娘の髪を友雅は撫でた。
「物忌みで、どこか具合が悪いとか…ありませんか?」
「ん?特に何も変わったことはないよ。むしろ、堂々と出仕を休めることで、二人と一緒にいられるのだから、悪いことばかりでもないさ。」
笑いながら答える父の表情が、いつもと変わらないことに文紀は少しホッとした。

「また!そんな事、子供たちの前で言っちゃダメですよ。二人とも、お仕事熱心なお父様って信じてるんですから。」
湯気の立ち上る小さな碗を、膳に載せてきたあかねが友雅にそんな事を言った。
「大丈夫だよ、文紀は父上のことをよく分かってくれているものね?」
目の前の文紀にそう尋ねると、彼は笑ってこくんとうなづいた。
「まったくもー…二人とも友雅さんには甘いんだから。」
苦笑いをしながら、あかねは小碗を一つずつ手渡す。
浮き上がる湯気は、つんとした生姜の香りがした。
毎朝、身体を冷まさないようにと、朝餉の前にこれを飲ませるようにしている。
少し甘みを付けて飲みやすくしたそれは、身体を芯から温めることが出来た。


「ねえねえ、父様。さっきね、祥穂たちに色々とお話を聞いていたの。どうして、母様がお食事の用意をするのかって。」
あかねが、再び台盤所へ消えて行ったあと、友雅の袖を引っ張って、千歳が話を始めた。
彼は、生姜湯の碗を膳の上に置いて、娘の話に耳を傾ける。
「そうだねえ。普通の家から見たら、ちょっと君たちの母君は不思議で変わっているかもしれないね。」
「でしょう?でも、それは母様がご自分でされていることだって、そう言っていたの。母様の生まれたところでは、そういうものだからって。」
千歳は、今朝祥穂に聞いた話を、友雅に説明してみせた。

正直なところ、あかねの生まれ育った世界では、どんな風習があったのかなんて、友雅には知る方法がなかった。
あかねが、そうなのだと言えば、それをそういうものだと認識するしかない。
子供たちが言うように、侍女たちの仕事こそが食事の支度などの雑用だ。それを、主の妻である者が行うことは考えられない。
でも、常識と言えるものを、軽々と飛び越えてしまうのが、あかねなのだ。

「父様も、母様が住んでいたところには行った事がないから、詳しい事はわからないのだけれど…。でも、昔母様が言っていたのはね、『せめて家族の分だけでも作りたい』って。」
知人を招いての宴の席などでは、とてもあかねの手には負えないだろうけれど、毎日の食事の支度くらいは自分でやりたいと、彼女はそう言ってずっとこの調子だ。
子供たちが生まれてから、朝と夜の支度を侍女たちと共にこなしている。
随分と骨が折れるだろうと思ったりするが、意外にそうでもないらしい。

"だって私は、元々貴族じゃなくて庶民ですから"と言って、笑った。
それが当たり前なのだ、と。

ただひとつ、彼女が言っていた言葉の中で、今でも友雅の心に深く刻まれているものがある。
「二人とも、母様が作ってくれる食事を、どう思う?」
友雅が尋ねると、その質問の意味が把握出来なかったのか、一瞬首を傾げて声を止めたが、すぐに隣の千歳が口を開いた。
「どうって?味についてのこと?それなら、とっても美味しいと思いますわ。」
その答えに笑顔でうなづくと、今度は向こう側にいる文紀を見る。
「僕も、美味しいと思う…。この間、弓の練習の後に母様が、甘い菓子を作ってくれたのだけれど…宇敦にも分けてあげたら、美味しいって言ってくれました、」
「そうか。それなら良かった。あのね、母様はいつもそう思ってもらいたら良いなって、そう思いながら毎日食事の用意をしてくれているんだよ。」
右手で千歳の髪を撫で、向かいにいる文紀に微笑みながら、友雅はそう答えた。



***********

Megumi,Ka

suga