幸せを唱えよう

 001
「かぐや姫も日本の古典なんだよって、先生が教えてくれたんだけど」
「はっきりは分かっていないけれど、おそらく平安時代には既にあったと伝えられているんだよ」
「えー?そんなに古いの?」
清々しい檜の香りが、白い湯気と共に浴室の中に立ちこめる。
明るい木目は季節によって心地良さを変え、今の時期はぬくもりを感じさせる。
「じゃあ、他にも古いお話ってあるのかな」
「そうだねえ…あとで文紀でも読めそうな本を、書斎から探してあげよう」
さすがに源氏物語や伊勢物語は無理だから、御伽草子とかなら良いだろうか。
とは言っても、内容の描写や文体を考えれば、脚色された子ども向けのものを買ってやった方が良いかもしれない。

パジャマに着替えさせ、髪をしっかり乾かしてやってから寝室へ連れて行く。
室内は丁度良い温度になっていて、枕元には加湿器が蒸気を吹かしていた。
「おやすみなさい、父上」
「おやすみ。夢の世界も楽しんでおいで」
文紀を床に着かせて、部屋の明かりを落とし外へ出ると、今度は隣のドアをそっと開けてみる。
寄り添うように並べたふたつのベッドの上で、枕を並べ寝息を立てる天使が二人。
彼女たちがどんな夢を見ているのか気になるが、邪魔をしてはいけないと友雅はそのまま部屋を出た。

子どもたちは既に眠りに着いたが、リビングはまだ煌煌と明かりが灯っている。
あかねと祥穂はダイニングテーブルを挟んで、何やら話し込んでいた。
「文紀を寝かせてきたよ」
「あ、ありがとうございます!」
祥穂がガラスのティーポットに、ハーブティーの茶葉を入れる。
湯を注ぎ入れると、透き通った黄金色のお茶が出来上がる。
リンゴにも似た香りのカモミールティーを、友雅はゆっくりと味わって飲む。
「ところで、二人で何を話しているんだい?」
テーブルの上に移動された卓上カレンダーと、あかねの手元にピンクのスケジュール帳。
「来週の金曜から、お花の発表会が始まるじゃないですか」
永泉の流派が年に3回主催する生け花コンクールで、入賞した作品がコミュニティホールで展示される。
毎回あかねも足を運んでいたのだが、今回はいつもとは少し違う。
華道を習い始めて早五年目。ようやくあかねの作品が、優秀賞として展示されることになったのだ。
「だから、今回は初日だけでもお手伝いに行こうと思ってたんですけど」
「けど?」
「その日のまゆきのお迎え、どうしようかなって」
初日ともなれば、各方面からの来場者が多くなる。
一応入賞した立場だし、挨拶せねばならない相手もいるだろうから、それを考えると保育園のお迎え時間に間に合うか微妙なのだ。
「ですので、その日は私がお迎えに参ろうかと思っておりましたの」
そう、祥穂が代わりに答えた。
お迎えと言っても、ドライバーが運転する車に乗って、まゆきを連れて帰ってくるだけのこと。
祥穂はもはや、橘家の一員と言っても過言ではない。子どもたちのことも彼女なら、安心して任せられる。
「じゃあ、すみませんけどよろしくお願いします。夕食の用意は出来るだけ整えておきますので…」
外出する時くらい、祥穂に全て任せてしまえば楽だろうに。
でも、そういうことをしないのがあかねだ。
元々の頑張り屋気質に加え、他人任せにすることの負い目があるのかもしれない。

「いっそのこと、私がまゆきを迎えに行こうか?」
「……は?」
いきなり聞こえて来た友雅の声に、あかねと祥穂は揃って聞き返した。
「早めに仕事を切り上げれば、保育園が終わる時間にも十分間に合うし」
今はそれほど多忙を極めてはいないし、スケジュールの調整も十分に可能だ。
たった一日早めに退社したところで、特に差し障りはないだろう。
「それに、姫君のお迎えは昔から男がするものだろう?」
カモミールティーを口にしながら、笑みを浮かべてそう言う友雅を見たあかねは、思わずくすっと笑い声をこぼした。
その意味を察した祥穂もまた、あかねに声を投げかける。
「奥様、せっかくこうおっしゃって下さっているのですから、友雅様にお迎えをお願いされては?」
「ええ、そうですね。じゃあ友雅さん、行ってくれますか?」
「喜んでお迎えに上がりますよ」
おそらく彼の本心は、まゆきの顔を見に行きたいことが優先しているのだ。
そう、ここはお言葉に甘えて…というより、彼のためにもお任せしてしまうのが正解だろう。
祥穂とあかねはもう一度顔を見合わせ、合図をするようにふっと笑った。


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海外からの客人を玄関で見送ったあと、時計を見ると午後2時過ぎだった。
「思ったより早めに終わったね」
「お子様のお話をされたのが、功を奏したのかと思われますよ」
会談に同席していた秘書が、その内容を思い返しながらそう言った。
日本と比べて、海外では家族の話題が上るとウケが良い。
当人の私生活の一片であるし、子どもや配偶者に対してどんな感情を持っているかで人格が分かる、という考えが少なからずあるらしい。
実際、部屋にある子どもたちの写真を見つけ、そこから会話が弾むことが多い。
そうなるとお互いの緊張が解け、本音でスムーズにコミュニケーションが広がる。
今日もこれから子どもを迎えに行くのだ、と言ったところから話が始まり、あかねのことや文紀たちのことなど随分と盛り上がってしまった。
はっきり言って本題の商談よりも、そちらの話の方が長かったと思う。
「どうされますか。本日の予定は終了いたしましたが」
「早めに終わったから、お迎えも早めに行くとしようかな」
保育園が終わるのは午後3時だが、ここから車で行けば20分くらい。
愛しい姫君になら、どれだけ待たされてもまったく苦にならない。

保育園にやって来るのは、随分と久しぶりだ。
普段はあかねに任せっきり、子どもたちが学び舎でどんな過ごし方をしているのか、分かりにくいのが父親の辛いところでもある。
「橘様、お久しぶりです」
「こちらこそ、大変ご無沙汰してしまい失礼致しました」
職員室を訪れると、園長のシスターが出迎えた。
千歳もここに通っていたので、付き合いは結構長くなる。
「お忙しいのですもの気になさらずに。その代わり、奥様がよくお子様を見ておられますよ」
園長より少し年の若いシスターが、熱い紅茶を入れてくれた。
彼女もまたよく知る顔で、あまり言葉を交わしたことはないが、確か副園長だったかと思う。
「生憎と今日は習い事で用がありまして」
「確か、お花を習われているのでしたね。では、お二人ともお花が好きなのはお母様似かしら」
「まゆきも、そのような節が見られますか」
「ええ。花壇のお手入れなど、いつも楽しそうに頑張っていますよ」
小さい頃から千歳たちと一緒に、庭の花壇をいじったりしていたせいだろう。
家族で買い出しに出掛けたりすると、我が家の女性陣は必ずガーデニングコーナーに立ち寄って苗木や球根を買って帰る。
彼女たちのおかげで、数寄屋造りの正統派日本家屋の我が家だが、裏庭は色とりどりの花がいつも咲いている。
去年植えた水仙が、そろそろ蕾をつけてくる頃。
地面に小さな芽しか見えないチューリップも、温かくなるにつれて成長が早まって来るだろう。
まだ寒さの残る季節に生まれた子たちは、その先に待つ春に憧れながら花木を愛でているのかもしれない。



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Megumi,Ka

suga