時計が示す時間は午後3時半。
友雅はオフィスの機器をすべてシャットダウンした。
「そろそろ終わるから、車の手配を頼むよ」
向かいにある秘書室へ内線を入れ、帰宅の用意を始める。
立場上定時というものは特にないのだが、普段は午後5時前後が多いので今日はかなり早めだ。
外はまだ気温が高い。ジャケットは羽織らず手に抱え、ドアを閉めてエレベーターで1階へと下りた。
ロビー前には、既に車が到着していた、
「ジュニアシートひとつでよろしかったですか」
「ああ。今日は王子様一人だけだからね」
そう答えた友雅は、程よくエアコンの効いた車内へ乗り込んだ。
自宅の方向とは逆の道をしばらく走り、『運動公園』の標識が見えて来る。
緑に覆われた広い施設の周りに遊歩道が設けられ、ジョギングを楽しむ人々を横目に車は駐車場に向かう。
車から降りて事務所のエントランスに行くと、文紀は品の良さそうな男性と話をしていた。
真剣に耳を傾けているので邪魔をするのは気が引けたが、車を長く待たせるわけにもいかない。
そうしているうち、男性の方が友雅に気付いたようだ。
向きを変えた文紀は、こちらにやって来る父に視線を定めた。
「待たせたかな?」
「ううん、着替えて今出て来たところだから」
文紀の頭を軽く撫でたあと、友雅は男性に軽く頭を下げた。
「いつも息子をご指導頂きまして、ありがとうございます」
「いえいえ。文紀くんの姿勢にはこちらの方が学ばせて頂いておりますよ」
彼は大学の弓道部で長く顧問を努めていた範士で、退職後はここで老若男女に指導をしている。
文紀が体験教室を経て道場に通い始めてから、ずっとお世話になっている師匠のような存在だ。
「次は少し間が空いてしまうけれど、それまで元気でね」
「はい、ご指導ありがとうございました」
親子揃って会釈をし、外に出てくると熱気が肌にまとわりつく。
一気に汗がじわりと浮き上がり、そこだけジャングルの空気が現れたかのよう。
早く家に帰ってシャワーを浴びよう、と考えていた時。スマホがポケットの中で小刻みに震え出した。
液晶画面に表示されているのは、彼の最愛の女性の名前。
『あ、友雅さん?今、どこですか?』
「武道館だよ。王子様を車まで誘導しているところだ」
車のドアを開け、先に文紀を乗せた。
荷物を後ろに積み込みながら、あかねとの会話は続いている。
そして文紀の隣に乗り込んですぐ、"メモを取ってくれるかい?”と尋ねた。
バッグから慌ててメモ帳を取り出し、友雅が読み上げるものを素早く記録する。
黒こしょう(詰め替え用)、パルメザンチーズ、バルサミコ酢、そしてコンソメ(顆粒)。
「母上からおつかいを頼まれてしまったよ。少し遠回りしないといけないね」
本当は黒こしょうだけで良かったのだが、それだけでも何なのでいくつか買い足しをお願いしたいとのこと。
千歳とまゆきが夕飯の支度を手伝ってくれているので、あかねが出掛けるわけにはいかないらしい。
「じゃあ行先変更だ。近くのスーパーまで頼むよ」
ドライバーは彼の指示通り、ナビに示された商業施設へ向かった。
店内はやや混雑している。
時間的に見て、夕食の材料を買いに来た人たちが多いせいだろう。
さほど重い買い物ではないので、レジのバスケットは文紀が持ち、友雅はメモを片手に商品を探す。
「黒こしょうはスパイスのコーナーかな」
案内板に従ってやって来ると、多種多様なスパイスがずらりと棚に並んでいた。
黒こしょうもブラックペッパーと名前を変え、粒状だったり粉状だったり容器も色々ある。
あかねは詰め替え用をと言っていたので、小袋に入ったものを選べば良い。
適当に友雅が手に取ったところで、文紀が違う袋を指差した。
「あ、それじゃなくこっちが良いと思う」
彼が指定したのは、友雅が取ったものの隣にあった別メーカーのもの。
「これとこちらとで、味が違うのかい?」
「うーん…分からないけど、母上はいつもこのメーカーのを買うから」
なるほど。いつもと同じものを買っていれば、まず間違いはないということか。
それなら文紀の助言に素直に従おう。
「えっと…コンソメは袋じゃなくて、小袋が箱に入ったこっち」
パルメザンチーズは緑の筒、バルサミコ酢は蓋が赤くて細い瓶…と、文紀は次々と的確に商品を棚から選んで行く。
たくさんの種類があるというのに、彼は一瞬たりとも迷ったりはしない。
「ひとつひとつ、よく覚えているねえ」
「買い物に着いて行くうちに、何となく覚えちゃった」
キッチンのスパイスラックに並んでいるものが、いつも変わらないことも印象に残っていた。
覚えたくて覚えたわけじゃなく、自然に頭の中に刻まれていた母の姿。
祥穂と話しながら、自分たちを交えながら、食事の支度をする光景はすぐにでも浮かんでくる。
レジで精算を済ませ、買い物袋に商品を入れたらミッションコンプリート。
「さて、急いで家に帰らないと」
我が家のレディたちがディナーを用意して、自分たちの帰宅を待っている。
とびきりの笑顔と料理がセッティングされた我が家は、ミシュランレストランさえ霞んでしまう。
文紀の手を取り、駐車場に向かおうとした友雅だったが、ある店の前で何かに気付いて足を止めた。
そこは、入口近くのアイスクリームショップ。
常時20種類以上のフレーバーがあり、季節を問わず客足が絶えない。
「買い物を無事に終えられたのは、文紀のおかげだからね。好きなものをひとつ選んで良いよ」
「えっ、夕飯前なのに食べても良いの?」
夕飯が食べられなくなるから、夕方はおやつを控えるようにと言われている。
母はもちろんのこと、父も同じように言っていたはずだけど…。
戸惑ってフレーバーを選べないでいる文紀に、友雅はひとつ提案をした。
「じゃあ、父様と半分こしよう。それなら夕飯に差し支えないよ」
アイスひとつくらい大目に見ようと思ったが、文紀が気にするのならこういうのもアリ。
ホッとしたのか、文紀はバナナチョコレートのフレーバーを選んだ。
カップの中にひとつのアイス。でも、スプーンはふたつ。
バナナの濃厚な甘さとチョコのほろ苦さ。口の中であっという間に溶けて消える。
「ねえ父上」
プラスチックのスプーンを舐めながら、向かいに座る友雅を見る、
「今度みんなで出掛けるとき、千歳たちにもアイス食べさせてあげたいな」
自分だけ味わっている罪悪感なのか、それともこの美味しさを彼女たちと共有したいのか。
おそらくどちらも正解だろう。彼はそういう性格の少年だ。
「優しい兄上だね。約束するよ」
その時はきっと、この笑顔が三倍になる。
「今日の夕飯は何だろうね」
「母上が今朝、ハンバーグにしようかなって言ってたけど、どうかなあ」
「それはみんな喜びそうだね。期待しながら帰ろうか」
手をつないで駐車場へと歩いて行く。
思えば文紀とこんな風に手をつなぐのは、随分と久しぶりのことだ。
いつも彼は妹たちの手を引いていて、常に彼女たちを守ってくれている。
そんな頼りがいのある文紀も、友雅にとっては愛しい我が子。
彼が妹たちを守るように、自分は親としてこれからも彼を守ろう。
小さなその手のひらが、同じくらいの大きさになる時が来るまで。
-----THE END-----
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