遠くて近い場所

 第3話
「あ、見えます?あそこのマンションなんです…うち」
しばらく歩いていると、公園の向かい側に立つ7階建てのマンションを指差した。あそこの、5階の一番角が自宅なのだ、と彼女は説明した。
見上げる建物には、個々に明かりが付いている。そこには、人々の生活が存在している。
あかねの自宅も、眩しいほどの明かりがカーテンから漏れていた。

「お父さんは、まだ帰ってないかな…」
思い出したように、彼女が隣でつぶやく。
「お父様は、帰宅がいつも遅いのですか?」
「最近はちょっと残業が多いらしくて、不規則みたいで。」
両親と一人っ子の三人家族なのだ、とあかねは話した。

そう、父と母と…そして彼女と三人。それは、幸せな家庭の構図だ。
これ以上増えても、減っても幸せにはならない。今が一番最良な形に違いない。
頼久はそんな風に考えていると、彼女はまるっきり正反対の事を口にした。
「でも、ちょっと三人じゃ寂しいかな…。兄弟も良いけれど、お爺ちゃんとかお婆ちゃんとかいたら、良かったのになあって思いますよ。」
兄弟は別として…祖父母。彼女の家に、その二人がいたとしたら……と考える。
「友達とか、お婆ちゃんにお裁縫とか教えてもらってる子がいて、いいなあって思いますよ。」
親に甘えるのとは違うものを、祖父母には持っているから憧れるのだ、と彼女は言った。

……そんなこと、あるわけがない。
あの人がここにいたら、また彼女の幸せは砕かれてしまうだけだ……間違いなく。
頼久の記憶には、いつでもあの人の存在が付きまとっていた。
とても忘れられなかった。すべての元凶が、あの人のせいだったのだと。

「お爺さまとお婆さまは…もう?」
「うん…そうです。私が生まれる前に、もう二人とも亡くなってしまったって聞いたので…」
彼女が生まれる前に?それは…もう一方の祖父母の事を言っているのだろうか。
確か住職の話では、昨年にあの人は亡くなったはず。
それなら、彼女が知らないはずはないのだが。
「お二人とも…ですか?お父様の方も、お母様の方も?」
「そうみたいです。お父さんの方は写真もあるので顔は分かるんですけど、お母さんの方は…写真も全然なくて。だから、どんな人かも知らないんですよ。」

あり得ない。そんなことは。
彼女が、あの時の少女であると、もう十分に確信しているというのに、その言葉では釣り合わない。
父方の祖父母は別だが、少なくとも…母方の祖母は彼女にとっては、忘れ難い幼い日の記憶に残された傷なのだ。

ひとりぼっちで泣いて、寂しそうにうずくまっていた。
その手を引いて、頼久は彼女を連れ出した。
彼女が……永遠に笑顔でいられる所へ連れて行ってやろうと。
そんな克明な面影が、ずっと今まで消えてなくならないほどに、植え付けられてるのに。

でも、彼女が、彼女であるなら……何故、祖母の存在を知らない?
そんなはずは絶対にないはずなのに。


「何だ…そこにいるのは、あかねか?」
落ち着いた男性の声が、彼女の名前を呼んだ。
気付くと、既に頼久たちはマンションに辿り着いていた。
駐車場には、紺色の車が停まっている。丁度そこから下りて来た男性が、今の声の主だったようだ。
「お父さんお帰りー!」
彼女は、父と呼ぶ彼のところへ駆けて行った。
娘を抱きとめると、彼は頼久の姿に視線を向ける。黙ったまま、礼儀正しく会釈をする。

「あ、あのね…紹介するね。源頼久さん…。鷹通さんの大学の図書館で、司書をやってる人で…家まで送ってくれたの。」
近付いてみると、随分と背の高い青年だ。髪は長いようだがきちんと束ねて、身なりもそつなく整っている。
あの時、あかねが改札まで下りて行って話していた、彼だ。
「娘が世話になりまして、ありがとうございます。」
「いえ、私など何も…。藤原さんのお宅にいらしていたのですが、夜分遅いのでご自宅迄お送りしただけのことで。」
真面目そうな口振りは、今時の若者にしては珍しいくらい芯が通っている。

「遅くまでお嬢様をお引き止めしてしまいまして、申し訳ございませんでした。」
ぴんと伸びた背筋を畳み、頼久は父に向かって頭を下げた。
「あの…お父さん?別に頼久さんや鷹通さんが悪いわけじゃなくてね!私も時間を見ないで、他の家なのにのんびりしてたのがいけないの!だから、別に頼久さんが謝るようなことじゃなくて……」
「分かってるよ。かえって、近い距離にも関わらず、送ってもらって礼を言いたいのはこっちだ。」
慌ててフォローをするあかねの頭を、父は大きな手で撫でながら笑った。

「本当に娘がご迷惑をおかけしまして、すみません。」
「…いいえ、お気になさらずに。」
静かに微笑みを作る頼久の目は、その奥に強い光が輝いていた。



「あかね…この間、おまえと買い物に行った時、改札に行って話していたのは、あの人だったよな」
上昇するエレベーターの中で、父が話しかけて来た。
あかねは、どきっとした。
そういえば…あの時は父と一緒だったから、既に頼久のことは知っていたのだ。あくまで一方的にだが。
「藤原さんの息子さんと、親しいと言っていたよな?」
「う、うん…そう。だから、図書館で色々と話をしてて…」
何だか、恋人を父親に紹介したあとみたいな、微妙な感じだ。

…恋人?いや、そんなわけじゃ全然なくて……。
自分で考え出したことに、あかねは恥ずかしくなって顔を覆いたくなる。
しかし、その隣で黙っている父は、決して穏やかな表情ではなかった。

+++++

「お世話様でした。意外にご近所でしたでしょう?」
ドアを開けると、リビングから鷹通が頼久を出迎えてくれた。
コーヒー豆の香りが漂う。
図書館に常備してあるような、安っぽいインスタントの香りとは全く違うものだ。
再び部屋に上がった頼久に、彼は熱いコーヒーのカップを差し出した。

「鷹通さん……ひとつ、お聞きしても良いですか」
珍しく、頼久の方から話しかけて来た。
鷹通は、不思議に思ったが快く受け入れることにして、うなづいて返事を返した。
「お聞きするというよりも、助言を頂けたら…と思いまして。」
神妙な顔つきで、彼はコーヒーに手も付けないまま、じっと自分の拳を見つめている。
どうしたというのだろう。

「何か、気にかかるようなことでもありましたか?」
「………」
言い出したのは自分のはずなのに、頼久はそれを口にしていいのか、直前でためらった。
掘り返してはいけないものも、この世にはあるはず。それは、決して必然なものではない。
もしも、それによって全てが再び、動き出してしまったとしたら…。
取り返しのつかないことになってしまったら…。

だが、ここまで目の前に近付いている疑問に、今更知らぬ振りなど出来ない。
二十年近くも、抱いていた記憶だ。ずっと、忘れられなかった彼女のことだ。
昔も今も、変わらない。
彼女のことを護ろうと……その想いは今も刻まれて消えることはない。
だからこそ、現在の彼女のことが気にかかる。


「人間というのは、例えば忘れたいほど辛い記憶を、自ら何もなかったのだと思い込んで、完全に消去してしまうようなことは…可能なのでしょうか。」

遠い目をした頼久は、ぽつりと鷹通にそんな事を口にした。



-----THE END-----



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Megumi,Ka

suga