Mint Wind

 第3話
次の日の朝、モーニングを済ませてからすぐに、チェックアウトすることにした。
これまた泰明の意向で、チェックアウトタイムが近付くと、エントランスに人が多くなるから避けたいとのことで。
トランクケースに荷物を詰め込み、いよいよ夢のような避暑地とお別れだ。

「あかね、おまえが前に座れ」
「え?私…がですか」
ドアを開けようとした時、向こう側にいた泰明が運転席を指差した。
「私は後ろで寝かせてもらう。着いたら起こせ」
そう言うと、彼はさっさと車に乗り込んで、後部座席にごろんと横になる。
着ていたジャケットは、ブランケットがわりに身体に掛けて、それっきり目を閉じて無言になった。

「仕方ないですね。じゃあ元宮さん、隣にどうぞ」
「あ、はい…」
バッグの中から、半冷凍してあったドリンクをホルダーに置かせてもらい、シートベルトを確認すると、車はゆっくり走り出した。



まだ午前中の早い時間だったため、道路はかなりスムーズに進んでいた。
逆に反対車線はゆるい渋滞が始まっていて、ところどころで動きが止まっているところもあった。
確かに、今の時間なら遊びに出掛ける者の方が多いし、向こうから帰ってくる者でも、もう少し遅くまで遊んでいるはず。
急用でもなければ、朝早く帰路に着くなんてないだろう。

後ろで泰明が寝ているので、カーステレオやラジオも掛けづらかった。
カーナビで現在地が映し出され、地図の上をどんどん進んで行くのを、ただ眺めている。
「二泊三日の旅行、お疲れになったでしょう?」
ドリンクを飲もうと蓋を開けると、隣でハンドルを握る鷹通が口を開いた。
「学会関係のことばかりで、堅苦しい内容が多かったですから…元宮さんには退屈だったんじゃありませんか?」
「い、いいえ!楽しかったですよ!普通経験出来ることじゃなかったし。」
思い掛けなく連れて来られた、初めての軽井沢の夏は、たった二泊三日でも充実した日を過ごせた。
都会では触れられない、緑の香りや日差しの輝き、水のせせらぎ。
生き生きと育つ木々に囲まれて、ひんやり涼しい避暑地の夏。
「自分じゃこんなところ、来る機会なかったですから…楽しかったです。」
それは本音。

「先生も、今回は随分と楽しい時間を過ごされたようで、なによりです」
ミラーで後部座席をチラッと見ると、泰明は熟睡しているようで、まったくあれから身動きもしない。
「でも、学会のセミナーとかは…殆ど鷹通さんに代役頼んで、ほったらかしだったじゃないですかー」
楽しいどころか、つまらないから放り出して来たんじゃないか?
それに、恩師の博士との再会も、ろくに話もしないで出て行ったりして。
「所謂…人嫌いに属する方ですからね、先生は。」
鷹通はそう言って、苦笑いした。

「それでも元宮さんとご一緒の時は、とても楽しそうでしたよ」
「楽しそう…って、泰明さんがですか!?」
どんな風にしたら、楽しそうに見えるんだろう。
泰明がはしゃぐとか、大声で笑うとか?
---------0.5%も想像出来ない。
「普段の先生でしたら、部屋に閉じこもって専門書でも読みふけっている所ですよ。それを、元宮さんを連れて行ってやりたいとおっしゃって。」
私を連れて行ってやりたい…って、泰明さんがそんなこと言ったの?
それまた、何で、どうして、どういういきさつで、どういう理由で?

はっとして、鷹通は失言したな、と思った。
後ろで泰明は爆睡しているし、会話は聞こえていないだろうけれど…これは本当なら、あかねにはオフレコにしておいた方が良かったのかも。
つい滅多にないことだから、口が滑ってしまった。
「実は先生が元宮さんをお誘いしたのは……その傷のお詫びを、というお気持ちもあったんです。」
鷹通が視線で示したあかねの手には、ほんの少しのかすり傷。
昨日は絆創膏をしていたけれど、一晩経ったら既にうっすらかさぶたが出来ていて、絆創膏もいらないくらい薄くなって。

たったこれだけの傷。
それを負い目に感じて、一緒に出掛けてくれた…と言うのか?あの泰明が。
「それと、どこかに行きたそうだったけれど、同行者がいなくて躊躇していたみたいだ、とも言っていましたよ」
何でそんなこと、分かったんだろう。
一人じゃ心細くて、外出しようかどうか迷っていたのを。
しかし何より、こんなかすり傷を泰明がそこまで気にしていたなんて。

「こんな傷…もう、よく見ないと分かんないくらいなのに」
「それでも、自分の不注意から招いたことだから、と言ってました。だからせめて、外出に付き合うくらい、しても構わないだろうって」


ああ、まただ。
小さく小さく鼓動が響き出して、どんどん音が大きくなる。
自分にしか聞こえない、心臓の音。
ミラーに映る泰明の姿を見て、そんな胸が熱くなる。
どうしてそんな風に、いつもと違う姿を見せてくれるんだろう。
だから何度も戸惑って、過剰に反応してしまうんじゃないか。

ここに着いた時は、そんなんじゃなかった。
なのにこの二日間の中で、想像も出来ない別の泰明がそこに現れる。
ちょっとした傷を気遣ってくれて、その詫びにと観光に付き合ってくれて。
セミナーや晩餐会を抜け出すほどに、自分は人混みなんか嫌いなくせに…黙って行きたいところに着いて来てくれて。
「泰明さん…ホントはそんなところなんか、行きたくなかったはずです。着いて来てくれたけど、楽しかったはずないですよ」
「そんなことはないですよ。人混みは確かに好きではないかもしれませんが」
交差点で赤信号に引っかかり、車が止まった。

「元宮さんと一緒にいるのが、きっと心地良かったのだと思いますよ」
青信号になって、車が滑り出す震動が身体に伝わった。
と、同時に大きな心音もまた、あかねの中に鳴り響いた。

今回のことに限らず、彼女を研究の手伝いに呼んでいることも、それだけ信頼をしているという証だ。
鷹通の場合は、元々知識があったことも幸いして、助手として認めてもらえたのだが、人間的にはまだ微妙だと自分でも思っている。
仕事に関してなら、任せてくれる。私的なことにも、それなりには促してくれる。
でも、あかねは…彼女はそこにいるだけで、泰明は心の扉を開け放っているように見えた。
それで安心を得ているような…。

「以前から先生は、"人より植物の方が信頼できる"と、口癖のように言っていましたからね」
そういえば一昨日の夜に、外で会った時にもそんなことを言っていたっけ。
「だけど元宮さんは…信頼されているようです」
開け放った車の窓から、山の空気が流れては抜けて行った。



「あ、あの…鷹通さんっ、これ…気分転換にどうぞっ」
ぱらぱらと手のひらに、数粒のミントタブレットを乗せて,彼に差し出した。
「ありがとうございます。眠気覚ましに良いですね」
穏やかに微笑んで、鷹通はその二粒を口の中に放り入れた。
そしてあかねも、一粒口に入れてみる。

夕べは何とかすっきりして…治まったのに、今日は…全然駄目みたい。
口はすうっとするのに、胸の奥はまだ熱くて冷めてくれない。
……どうしよう。
彼は寝息も立てずに、固まって眠ったままだ。

「可愛いケースですね。お土産ですか?」
何気なく、鷹通はあかねの手にあるミントケースを見て、そう尋ねた。
そう、お土産です…。
持って帰って…ずっと使うつもりでいた。

この夏をいつでも思い出せるように、と思っていたのだけれど……こんなものなくたって、ここでのことは忘れられそうにない。







-----THE END-----





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Megumi,Ka

suga