不器用な口笛

 001
「いってらっしゃいよ。たまにはこんなデートも良いものでしょう?」
母がそう言いながらペアチケットを差し出したのは、出かけるほんの30分前。いつものようにあかねは鏡の前で、あれやこれやとばたついていた時だった。

「ご近所の奥さんが趣味で楽器をやってるらしくて。どうぞって頂いたんだけれど、せっかくだからあなたたちにあげるわ」
薄いクリーム色にパステルブルーのインク一色で刷られたチケットには、市立の音楽堂の名前が書いてあった。
「どうせいつもウインドウショッピングやら、お茶したり…とか、代わり映えしないデートコースなんでしょ?少しは新鮮なんじゃないの?」
笑いながらそう言った母の言葉は、殆ど図星と言って良い。

見たいな、とずっと思っていた映画などもあった。何度か泰明を誘っていこうか、と思ったりもしたのだけれど……果たして彼に映画の背景やシチュエーションを理解できるかどうか?と思ったら、誘えなくなった。
冷静な表情を携えながら、そのくせ人一倍好奇心には旺盛な彼だから、おそらく上映中にずっと質問されっぱなし、ということもあり得る。
カラオケなんか行ってみよう、と思っても、現代の歌なんて泰明が知る由もなく。
そうなると…本当に出かける場所はかなり限られてきて、なかなか新しいコースを開拓するチャンスはない。
はっきり言って、泰明と一緒にいられること自体があかねにとって最大の意味を持つのであるから、そんなことは二の次なのだ。
しかし、でも、しかし………やはり新鮮な気持ちは常にあった方が良いに決まっている。

あかねは母から手渡されたチケットをバッグの中にしまい込んで、玄関のドアを開けた。

第三日曜の朝の日差しは、初夏のように眩しかった。


■■■


「『クラシックコンサート』……とは、なんだ?」
見慣れない言葉の発音と文字を見て、泰明はあかねに疑問符を投げかけた。
「えーっと……楽器を奏でたりする演奏会だよ。向こうでもあったでしょ?」
「琴や琵琶や笛を演奏することか?」
「うーん…楽器の種類は違うけど、そんなところ。色々な楽器でみんなで演奏するの。」
「-----分かった。で、その演奏会に行くというんだな」
「そう。お母さんがくれたから……。泰明さん、行く?」
「あかねが行きたいのなら、構わない。共に行く。」

こういう時、絶対に泰明は誘いを断らない。この時代の色に順応して行こうという、本人にも気付かないくらい強い向上心があるからだ。
勿論、それにはあかねの存在があるから故のことだが。


■■■


新築してまだ間もない音楽堂は、キャパシティは小さくとも市民に有効活用されており、学校の部活の演奏会や個人サークルのコンサートなどによく利用されている
思った以上に広い円形のラウンジ。赤い絨毯を敷き詰めた観客席。少し薄暗いホールの中で、チケットに記された席の番号を何度も確認する。
席は22列目の44、45番。ちょっと横にやられた席だが全体は見渡せる。
二人は席に腰を下ろし、入口で手渡されたパンフレットを開いた。

「この黒い大きなものは何だ?」
泰明がピアニストの写真を指さした。
「これはピアノっていう楽器。琴みたいにこの中に糸が張ってあって、この白黒の板を押すといろんな音が出るの」
「この琵琶のようなものは何だ?」
「これは……チェロ。うん、そう…外国の琵琶みたいなものだよ」
「では、この笛のようなものは何だ?」
「これは……フルート。泰明さんの言うとおり、笛の一種だよ」
あかねがあれこれと説明をすると、泰明はじっとその写真を穴が空くほど真剣に見つめる。
「銀のような色をした笛だ。」
「うん、金属で出来ている笛だよ」
その説明を聞いて、更にじっと興味深そうに泰明はパンフレットを見た。勿論演奏をする人間ではなく、彼らの持つ楽器に興味があるらしい。
その姿が、無邪気な子供のようで微笑ましく思える。

「泰明さん、音楽を聞く時はあれこれ考えないで良いんだよ。ただ、流れてくる音を聞けばいいの。席に座って、音を耳で聞いているだけで良いんだよ」

あかねがそう言った直後、ブザーと共に客席の照明が消えた。


■■■


クラシックの演奏会なんて、中学の頃に吹奏楽部の友達のつき合いで行ったきりのような気がした。学校の勉強の延長線上にあるような感じがして、どことなく疎遠に扱っていたクラシックという音楽だったけれど、たまに聞いてみるのもいいな、と今朝の母のチケットプレゼントに感謝した。

三時間の演奏会が終わると、午後二時を過ぎていた。丁度日差しが高くなった頃。やんわりと吹いている風が木々の葉を揺らしていた。
「ね、泰明さん…コンサートどうだった?」
公園を一緒に歩きながら、あかねは泰明の背中に向かって尋ねた。
「向こうの楽器の音とは違うでしょ。どんな感じだった?」
泰明の感じたことを聞きたくて、少ししつこいと思いながらも何度も尋ねてみる。

「響くような音だった」

ゆるく結んだ長い髪が、身動きと共に波打って揺れる。

「深く、沈むように深く響いてきた……聡明な音だった」

胸に手を当てる。心音が伝わる。その中に幾度となく、初めて聞いた楽器の音は重なりながら響いていった。
穢れなく、澄んだ音は泰明の身体に蓄積されて行く。
ずっと、その音に抱きすくめられているような、そんな心地よい感覚があった。

「良かった?気に入った?」
「……………悪くない」

その泰明の答えを聞くことが、あかねは何より嬉しかった。


■■■


「昔、お師匠がやって見せてくれたので覚えた。私の出せる音など、これくらいなものだ」
泰明は長めの草を一枚指先で取り、薄い桜色の唇に当てた。

風を思い起こさせるような、高い音。空気に乗って流れるような、草笛の音。

「うわー、泰明さんてそんな才能があったんだ!すっごい!」
あかねが感心しながら泰明の奏でる草笛を見た。
「おまえも口笛くらいなら吹けるだろう?」
泰明は何でもないように言った。が、あかねは一瞬真っ青になって、そして少し顔を赤くした。
「ダメなんだもん、昔から口笛ってへたくそなんだもん★」

そう言いながらも泰明に言われて、仕方がなく吹いてみるようなことになってしまった。
くちびるをとがらせ、空気をそっと吹き出すようにしてみる。昔教えてもらったとおりにやってみる………けれど、全然音にはならない。

何度やってみてもまともに音が出ない。かすれたような音。音階を作るなんてことは、不可能に近い。
無気になって唇をとがらせるあかねを、泰明は微笑みながら見る。
「不器用だな、おまえは」
「どーせあたしは器用じゃないですよーっ」
今度は不機嫌そうに唇をとがらせて。

伸ばした指先で、そっと泰明はあかねの髪を撫でる。
「不器用でも問題ない。おまえの奏でる音が、一番私は好きだ」
泰明は静かに微笑んでつぶやいた。

あかねの奏でる音。
それはどんな楽器の音よりも胸に響く。
泰明の心の奥に、水の波紋のように広がりながら、そしていつか彼の心となって溶けて行く。

そして、二人で歩いていく道が生まれる。





-----THE END-----




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