7月7日、晴れ

 001
耳をすませば、空気の流れを読むことができる。
自然はいつでも問いかければ答えてくれる。
それが当然だと思っていが、どうやらそれは一般的なことではないらしかった。

「雨の匂いがする」

川沿いのサイクリングコース。土手ではキャッチボールをする親子の姿と、数人の仲間同士でサッカーボールを蹴る少年たちの姿が見えた。
夕暮れの時間が遅くなる7月。梅雨のど真ん中にいる割には、ここしばらく雨が降っていない。
このまま空梅雨の状態で、夏になってしまうのではないか…という話もちらほらと耳にする。

あかねと二人、帰路の道を散歩ついでに歩いている途中に、いきなり泰明がつぶやいた。

「雨…?だって、こんなに天気良いよ?夕焼けも綺麗だし…それに、ここのところ雨なんて降ってないし…」
あまりにも唐突に泰明が言い出した言葉に、あかねはとまどいを隠せなかった。
毎日家を出るたびに、目を通すテレビの天気予報では、週間予報もお天気マークのみだ。
それに加えて、『今夜も熱帯夜が続きそうです』などという、余計なコメントも続いている。

「雨の感触が近付いている。間違いない。近いうちに天から雨が降り注ぐ」
泰明は、絶対的な揺るぎない口調で答えた。

泰明の天気に関する予知の力は、科学的な知識を備えた天気予報士や気象衛星の能力よりも、はるかに正確で精密な答えをはじきだす。
京で彼が仕事としていた陰陽師というものは、一部では天文学や気象などの予測なども兼ね備えたものである。その資質が彼の感覚を鋭く磨き上げたに違いない。
ましてや…背後には稀代の大陰陽師である、安倍晴明の力が備わっている。信頼できることは間違いない。
その証拠に、以前もこんなことがあった。

その日、あかねは新しいスカートを着てデートに出掛けようとした。天気予報の降水確率は10%未満。空は眩しい太陽が照りつけていた。
が、出掛ける直前に泰明からの電話が入った。『夕立がある。傘と雨衣を忘れるな』。
天気予報の説明をしても、絶対に折れるということをしない頑固な泰明であるから、仕方がなくあかねは折り畳みの傘とレインコートを持って出掛けた。
そして、その日の午後三時-----------地響きのような大きな音と同時に、天から光が地に突き刺さった。次の瞬間に、シャワーの如く降り出した雨。
天気予報を信じて出掛けた人々は、びしょぬれになって町中を走り抜けて行く。
ぱっと傘を開いた泰明が、あかねをそばに引き寄せた。コートを広げてはおると、丁度スカートがすっぽりと隠れた。新しいスカートを汚さなくて済んだ。

あれから、あかねは天気予報よりも泰明のことを信じている。

そんな泰明が、いきなり言い出した。
『雨が降る』。

「…いつ、降るの?明日?」
「明日ではない。おそらく…3日後の7日の夜だろう」
「7日!!!」
それまで歩幅で歩いていたあかねが、立ち止まって大きな声を出した。
泰明はぴたりと足を止めて、後ろを振り返る。
「う、嘘でしょっ!?7日に雨が降るなんて…!!」
「雨の匂いと雲の動きを見れば分かる。間違いない」
「で、でもっ!!それは困るよっ!!」
「何故だ?ここのところ、雨が降っていないだろう。このままでは干ばつだ。作物や自然の木々も生きる術を失う。そろそろ雨が必要な頃だろう?」
「……そ、そうだけど……………!」

あかねは困った。いくらなんでも7日に雨なんて困る。
7月7日……といえば、七夕の夜じゃないか。
ずっと計画していた自分の楽しみが、雨が降ってしまったら企画倒れになってしまう。

「ど、どうにかならないの?雨を止めるとか…」
「何だって?」
泰明は、あかねの突拍子のない言葉に、思わず眉をひそめた。
「雨乞いとかじゃなくって…その逆って出来ないの?だって、泰明さんのお師匠さんの晴明さんって、雨を降らせたりすることが出来たんでしょ?だったら…その逆っていうのは…」
「無理なことを言うな。雨を降らせることも、そう簡単には行えるような術ではない」
「でもぉ〜………」
「諦めろ。これも自然の摂理だ。我々が左右する問題ではない。」
「だ、け、どー………」
あかねを背を向けて、泰明は前を向いて再び歩きだした。が、あかねもなかなかしつこい。どうしても諦めきれないらしく、後を追いかけながらずっと同じ事を繰り返す。

少し歩いて、泰明はため息をついて天を仰いだ。そして、また足を止めた。
「何故、そんなに7日に雨を降らせたくないと言い張る?理由があるのか?」
「えっ?理由…?」
泰明は、もう一度あかねの顔を見下ろす。
「そこまで言うのなら、それなりの意味があってのことだろう?言ってみろ」
「えーっと…それはー………」
さて、どうしよう?言うしかないだろうか?
でも…出来れば当日までお楽しみとして秘密にしていたい気もするのだけれど………。
「出来るかどうかは分からないが、事の内容によっては試してみるかもしれない」
「ホント?」
「だから、言ってみろ」
こうなったら、バラすしかない。
本当は名残惜しいけれど…当日雨が降るよりはマシだ。

「あのねー……七夕でしょ?7月7日って」
「……そうだな。」
「でね、泰明さん、七夕にまつわるお話って知ってる?」
「天文的な意味と暦の関係のことしか知らぬ」
「あのね、七夕っていうのはねー……………」
あかねは夕暮れが近付くまで、泰明に七夕の話を説明した。
子供に童話を聞かせるように、懐かしくて穏やかな口調で、天空に広がる恋人たちの伝説を。

「で?」
説明が一通り終わったあと、泰明はあかねに聞き直した。
「伝説は理解した。それで、何故おまえは7日に降る雨を阻止したい?何かあるのだろう?」
「それは……ねー……泰明さんと一緒に、二人で七夕のお祭りをしたいの…」
ほんのりと、あかねの頬が赤く染まる。
決してそれは、夕暮れの太陽が作用しているのではない。
「七夕の夜はね、笹の葉を用意して飾り付けをするの。でね、用意した短冊に願い事を書いて吊すの。そうすると、願いが叶うっていわれてるんだ」
「まじないの行事か?」
「うーん、まあ…そうかもしれないけど…でもね……」

おまじない、そうかもしれない。でも、もっと大切な違う想いが込められている。
それは、恋する少女しか味わえない想い。
星降る夜の伝説を、現実のものとするための。
「そんな夜だからね…雨は降って欲しくないんだ。泰明さんと一緒に見たいんだもん、たくさんの星空…。この世界の星空、ゆっくりと眺めたこともないでしょ?」

京で見ていた空とは違って、この世界での夜はあまりにも明るすぎて、天に広がる星くずの光を遮ってしまう。うっすらと薄曇りが天を覆い、月の出ている夜でさえ、星の全てを見ることが出来なかった。
「晴れれば、星を見ることが出来るというのか」
「うん、絶対に」
「京の夜のように、天空を覆うような光の粉を見ることが出来るのか」
「勿論。ちゃんと良く見える場所、案内してあげるから!」

あかねは自信たっぷりに言った。向こうの正解では右も左も分からなかったけれど、こっちの世界なら自分がナビゲーターとして泰明を連れて歩くことが出来る。
こんな七夕の夜ならば、高台にあるあの場所もきっと星が綺麗に眺められる。
「分かった。どこまで出来るか分からんが、やってみよう。雨雲を止める術を」
自然を動かすのは果てしない力が必要とされるが、あかねに笑顔で頼まれては…さすがに泰明でも無視することは出来ない。
自分だってあかねと共に時間を過ごすことが出来ることは、まんざら悪い気はしないのだから。

■■■


元々内面が真っ白である泰明だから、現代にやって来ても順応性はあった。
京都と呼ばれる現代の世界には、生まれ育った世界に酷似する部分も多く残されており、一つ山深く昇れば、天狗に会うことの出来るような場所が存在する。
小さな寺をやっている住職に出逢い、人里離れた山の麓に住まいを置く。人の声よりも、鳥の声や川のせせらぎの聞こえる場所。全てが自然のサイクルで動き出していることを感じる。
そのサイクルに、人間が意図的な思いを込めてくさびを打ち込むのは理に反する。師匠である晴明から、泰明はそう受け継いだ。それが、陰陽師である泰明が保たなくてはならないことだと思っていた。

しかし---------今の泰明は、陰陽師ではない。そして、人間だ。
泰明は静まり返った緑の中で、木々の隙間から覗く天空の空を見上げた。そしてその手を伸ばし、指で太陽に向けて五芒星の形を切った。
宙に描いた星の向こうで、きらりと光を放つ太陽。薄い雲が青空を通り抜けて行く。
「八百万の神に祈る。七月七日に流れ着く雨の気配よ、瞬きの彼方へ退き給え」
呼吸を整えて、閉じた瞼の闇の向こうに雲の動きを思い描き、その日が来るのを待つこと。
この現代にやってきて、彼の陰陽道の力がそのまま通用するか分からないが、泰明は念を続けた。

「御師匠殿………私に貴方の力を。七月七日、あかねの笑顔が消えぬように」
雲間からは、日差しが差し込んでいる。


■■■


約束は7月7日。夜の7時半に中央公園の東門の前。あかねは昨日、泰明にそう伝えた。
今朝の天気予報は、夕方から雨が降るだろうとアナウンサーが告げる。降水確率は40%。こういうパーセンテージが一番難しい。降るのか降らないのか、微妙なところだ。
だけど…きっと雨なんて降らない、絶対に降らない。
泰明が約束してくれたのだから、その想いはきっと天の雲さえもはじくだろう。
「お願いします。今日だけは雨が降りませんように……」
うっすらと漂う天の雲は、少し薄暗い色に見えた。

「大丈夫だよ、雨なんて降らないから、傘なんて持って行ったって邪魔になるだけだよ」
出掛ける間際に玄関先で、母から差し出された傘をあかねは拒否した。
「そんなこと言ったって、あなたは良いかも知れないけど、泰明さんまで濡れたら可哀想じゃないの」
「何よソレ★あたしは濡れて風邪こじらせても可哀想じゃないわけ〜!?」
「それはあなたの自業自得でしょ。」
母の手に添えられた、2本の水色の傘。信じたくない雨だけど…でも、もしも降ってしまったら?風邪…ひくかもしれない。夏風邪、治りにくくてひどくなったら?
「……一本だけで良いよ」
あかねは白いストライブラインの入った傘を、一本だけ母の手から取り上げて玄関を出ていった。


■■■


雨雲らしき空が広がる。山の向こうはもやのようにかすんでいて、遠くが見えない。
天気が芳しくないせいか、七夕だというのに歩道を歩く人はあまりいなかった。
時間が過ぎて行くとともに、辺りの灯りも消えて行く。街が眠りにつくまでには時間がありすぎるけれど、この付近ではそろそろ暗闇が町中を覆い包んで行く時間だった。昼間にぎやかな公園も、ひっそりと寂しげな雰囲気だ。
あかねはぶらんこに腰を下ろして、軽くこぎながら泰明の来るのを待った。
キー…キー…金属のきしむ音がする。
「待ったか?」
あかねはぶらんこを止めて、そのまま首だけを振り向かせる。泰明が、門の方から歩いてきた。
「ううん、ちょっと早く来たから大丈夫」
腰を上げて立ち上がったあかねは、泰明のそばへと近付いた。そんなあかねを目の前にして、泰明はしげしげと全身を目で追った。
「着物か」
「うん、浴衣。生地が薄いから、夏は涼しくて良いんだよ。似合う?」
そでをくるりと上げて、あかねはポーズを取ってみる。
「なかなか良い」
裏も表もない泰明の言葉に、あかねは少し照れたように満足げに笑ってみた。

街灯の灯りがぼんやりとホタルのように浮かんでいる。
「星は……見えないね」
今にも、ぽつりとしずくが落ちてきそうな雲が見えた。せっかくの七夕の夜なのに。
信じているけれど、雨なんて降らないと信じているけれど……その決心さえ揺らいでしまうような、どんよりとくすんだ雲。
「行かないのか」
空を仰いでため息をついたあかねは、泰明の声に気付いて顔を下ろした。
「星が眺められる場所に案内すると言っただろう。そこへ私を連れて行け」
泰明は、闇に溶け込んでしまうような紺色のジャケットを羽織っていたが、それでも彼から放たれる光のような青いオーラははっきりとあかねには見えた。
「でも、星は見られないかもしれないよ…お天気が良ければの話だもん」
あかねだって、泰明にあの星空の美しさを見せて上げたいと思った。だけど、それには月の明かりが必要だった。クリーム色の大きな月が見える夜じゃなくては……。
と、泰明の手があかねの手を取る。
「構わない。そこまで案内しろ。あとはそこに着いてからだ」
ガラスのように澄んだ泰明の瞳に吸い込まれるように、あかねはその場所へ連れていく、と首を縦に振ってしまった。

公園からは、そんなに離れた場所ではなかった。泰明の住む家のような山奥でもないし、少し高い丘陵になっているという表現が似合う。それでいて緑は豊富だ。おかげで、少し薄暗い。
「ここの裏山は、あまり人がこない穴場なんだよ。そこからは町が眺められるの。静かだし、星を眺めるには一番の場所なんだ」
木々の影に覆われた闇が、光を上手い具合に調節させている。山の中でさえ明るすぎた町の光も、ここではそう気になることではない。
「これで、天気が良かったらいいのになあ…天の川とか、きっと綺麗なんだろうな」
新しく仕立てた浴衣の気付けも覚えたし、そして…隣に泰明だっているのに。ここまでは準備万端だったのに、最後の『天気』だけが上手く揃わない。これが一番大切なことなのに。
天の神様は意地悪だ。なんて責任転嫁でもしないと面白くない。
だが、隣を見てあかねは黙った。
泰明はさっきからずっと、ずっと目を閉じている。そして、何か呪文のような言葉を唱えている。
両手の指先をぴっちりと伸ばして、閉じたまぶたの底で何かをずっと見つめているように見えた。

そんな仕草が10分くらい流れただろうか。声をかけることも気が引けて、あかねは泰明の祈祷のような行為が終了するまで、じっと隣で彼を眺めているしかできなかった。
「どうした、あかね。さっきから黙って何をしていた?」
泰明は、何でもなかったように平然と言う。
「何をしていた…って、泰明さんがずっと何かお祈りをしてるから、声をかけづらくなって………!」
「そうか。すまない」
目を伏せて、泰明は背を向けた。こう素直に謝られると、かえってそれ以上何も言えなくなる。
泰明に沿うように、あかねも高台の手すりに近寄って目を遠くにこらした。
「こうして見ていると、この町も…綺麗だと思う」
ぽつりとつぶやいた泰明の言葉に、あかねはにっこりと笑って答えた。
「何か、泰明さんにそう言われるの嬉しいなあ。私の生まれ育った町だもんね。それを誉められるのって、何かすごく嬉しい」
藍染色の生地に、赤い小さな魚の模様の浴衣姿のあかねが、泰明の隣に笑顔を咲かせていた。
「おまえが…生まれた町だから、だろう…な」
あかねが生まれ、そして育った故郷。不思議な偶然の重なりが続いて、遠い時空の彼方で生まれた者同士が巡り会った、おとぎ話のような出来事。
「おまえがここで生まれ、そして私の住む世界へ飛び込んできた。そんな偶然がなかったら、私はおまえに会うことも無かっただろう」
「そうだね。何で私が龍神の神子になったのかは分からないけど…そうじゃなかったら泰明さんにも逢えなかった」
「出逢いとは、不思議なものだな」
「でも、今は出会えて良かったって思うよ」
あの時の記憶が薄らいで行くと同時に、頭上に浮かんでいた雲がゆっくりと晴れて行った。
わずかな風が流れて行き、空一面を切り開く。
ふと、気付いた。泰明の背中を照らす、優しげな淡い光。

ゆっくりと、顔を上げた。
あかねの手が、泰明の背中を叩く。
見上げた、その空に浮かんだ------------黄金色の満月。

そして、水晶の破片を幾億もちりばめたような、星くずの川。

声を殺して、その光を見つめるあかねの手を、泰明の手がしっかりと握る。

「綺麗だな」

あかねは、こくりとうなづいた。

「一年に一度だけ、晴れたら…この天の川が見えるようになったら、織姫と彦星は会うことが許されるんだよ。そして、朝になったら…また離れてしまうんだ。そして、来年のこの日を待つの。それって…悲しいよね。一年間も、好きな人と会うことが出来ないなんて………」

悲しい、切ない、恋人達の神話。恋をした頃から、この二人の気持ちが痛いくらいに分かるようになった。
離れることが、どれくらい辛いことなのか。どんなに寂しいものなのか。
そして、離れても想いは消えたりしないことも。

「私は、ここにいる」

強く、泰明の手があかねの手を握りしめる。

「私も、ここにいるよ」

握り返して、泰明の顔を覗く。少し頬を染めて、笑うことにも慣れてきた。

「この世界にやって来て…良かったと思う。おまえと、幾つもの風景を見ることが出来たことが、素直に嬉しいと思う」
「もっともっと、いろんな所、綺麗な所、見せてあげるよ。楽しみにしてて」



がさがさ、とあかねが手持ちのかすり模様の巾着を開いた。
「はい。泰明さんの分」
取り出したのは、筆ペンと黄色の短冊。そして、あかねは後ろの薄暗い林を指さした。
「向こうに竹林があるの。七夕だから、これにお願い事書いて飾って帰ろう?」
七夕の願い事。泰明はペンを手にして、しばし短冊を見つめたまま考えた。あかねの方はと言うと、さっさと何かを書き終えたらしく、一人で先に竹林の方へと歩いていった。
「おまえは、何を書いた?」
「えっ!?そ、そんなの人に言ったら、効力がなくなっちゃうよっ!」
と言っても、泰明もこの竹に短冊を飾るのだろうから、その拍子に見られてしまうかもしれないのだけど。
しっかりと短冊をくくりつけているあかねを眺めながら、泰明は散々悩んだ。
が、書きたいことは浮かんでいるのだ。それを素直に書いていいのだろうか?…しかし、それ以外には思いつかない。仕方がない、泰明は筆を短冊にしたためて、あかねの少し上にくくりつけた。

「叶うといいね、願い事」
「そうだな」

降り注ぎそうな星の明かり、月の光。
二人の想いを夜の闇に閉じこめて。


『いつまでも、泰明さんと一緒にいられますように 元宮あかね』

『この世界であかねとともに生きて行けるように  安倍泰明』





-----THE END-----




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