晩夏の旋律

 001

今年の夏の暑さは、あまりにも厳しい。
確か長期予想では冷夏と言っていたはずだが、冷夏どころかこれは酷暑だ。
バイトから帰って部屋のドアを開けた瞬間、サウナのような空気が顔に当たるのは不快極まりない。
なので、ここ最近は帰宅する10分前にエアコンが起動するよう、タイマーをセットして出掛けるのが習慣になっている。

程よく空調が効いた部屋で休憩したあと、着替えついでにシャワーで汗を流す。
それからは、夕飯の支度。
夏はあまり作りおきが出来ないので、毎日の献立には頭を捻る。
「お豆腐でさっぱりめに作ろうっかな」
冷蔵庫の中身と相談して、取り敢えず一品は決まり。
おかずだけでなく、晩酌にも合いそうなものを。
あかね自身は殆ど飲めないが、仕事を終えて帰ってくる彼のために。

PPPPPPPP
呼び出し音が鳴り響いたが、音の出所はキッチンの壁に掛けられた電話ではなく、あかねの携帯の方だ。
慌ててバッグから取り出すと、画面には相手の名前が明記されていた。
「もしもし、あかねちゃん?今大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
電話の相手は、天真の妹の蘭だ。
背後が少し騒がしいので、おそらくバイト先から掛けて来ているのだろう。
「あのねえ、お兄ちゃんから聞いたんだけど…、夏の演奏会があるんでしょ?」
蘭が切り出したのは、来週友雅が参加する演奏会についてのことだった。

夏になると、毎年あちこちで祭りが開催される。
結構な人出になる市内某地区の夏祭りでは、観光の中心でもある神社で行われる古典芸能の演奏会が名物のひとつだ。
その神社とは、友雅が毎月出向いて指導をしている場所。
つまり、去年二人が挙式をした神社だ。
賑わう祭りの盛り上がりも兼ねて、演奏会のチケットは毎回結構な売れ行き。
来場者には他県からの客も多いと聞く。
「お兄ちゃんは行かないって言ってたらしいけど、私行きたいんだー。今から二人分の席って確保出来る?」
「二枚?うん、多分大丈夫だと思うけど…」
あかねの両親はもちろんだが、詩紋と天真にも声を掛けてみたのだが、生憎詩紋は夏期講習、天真は性に合わないとのことであっさり辞退。
蘭にも伝えてはおいたが、少々ギリギリな時期の返事ではある。
しかし、友雅に頼めば二枚くらいは何とか都合が付くだろう。
「じゃ、おねがい!」
「OK。確保出来たら改めて連絡するね」
「ありがと。でね、もうひとつ…ちょっと相談があるんだけどー…」
と、いきなり蘭が声を潜めて、あかねに耳うちをするように切り出した。



「ああ、それくらいなら調整するよ」
「ホントですか?良かった」
彼の口から確実な言葉を聞いて、あかねはホッと一安心した。
チケット代は払うと言われたけれど、そこは友達だし招待客扱いにしてもらって。
「明日にでも、スタッフに連絡しておこう。席は…あかねの近くが良いかい?」
「うーん…。私は構わないけど、どうかなあ」
蘭が何故チケットを"二枚"と言ったのか。
もちろんそれは同行者がいるからであるが、その同行者が誰なのか。
「どんな彼氏なのかなーって、ちょっと好奇心もあるしー…」
バイト先で知り合り、お付き合いを続けているという蘭の彼氏。
親にも天真にも内緒だけれど、女の子同士なら秘密の共有が出来る。
「うん、やっぱりせっかくのデートだし、少し離れたところに席を取ってあげてください」
「了解。恋人同士のお邪魔は禁物だからね」
それでもやっぱり気になるので、ちょっと挨拶に行けるくらいの距離が良いかも。

「そうだ。もうひとつ友雅さんに、相談したいことがあるんです」
淡い桔梗色の徳利に、キンと冷えた吟醸酒。
彼が手にする切子の盃に、あかねはそっと注ぎ入れる。
「あの辺りに、旅館とかってあります?」
「旅館?いくつか民宿のようなところは、あると聞いているけれど」
神社自体が観光名所だから、それらの周辺には宿泊施設がそれなりに点在する。
しかし、中心街から離れている分、どこもかしこもこじんまりとした家族経営の宿ばかりだ。
「民宿ですか。どうだろう…」
首をかしげるあかねを見て、友雅はすぐに気がついた。
「なるほど。確かに民宿はちょっとアットホームすぎるかな」
「ですよねえ。だって、彼氏とのお泊まりですよ」
おそらく、初めてであろう二人きりの旅行。
他人の気配が感じる民宿より、完全に自分たちの空間が作れる宿の方が良いはず。
「私たちが泊まる旅館はどうだい?」
「それも良いですけど、知り合いが多いじゃないですか」
あかねたちだけではなく、両親たちも同じ宿だ。
そこそこ広い旅館ではあるけれど、ばったり顔を合わせた時のことを考えると、少し気まずくはないだろうか。
「うちの両親も、蘭のことは知ってますけどねえ」
オフレコの約束は守っているはず。
でも、あの母のことだから、遭遇したらおせっかいを焼きそうな気もするし。

「…なかなか難しいねえ、こちらの世界の逢瀬というものは」
話を聞きながら、友雅は苦笑いを浮かべる。
現代では、世間体というものが重要視されている。
だが、思えばあちらの世界も大差なかった。
家柄や自身の立場を意識し、相応の相手を望むのが普通で、それにそぐわない相手との恋は"禁忌"と呼ばれることもあった。

「それを思うと、私たちは随分と恵まれていたのだね」
冷酒のグラスをテーブルの上に置き、空いたその手があかねの指先を求めた。
デートをするときも、両親に挨拶をしたときも、こちらが神経質になる必要はなかった。
彼女と昼夜を共にすることさえ、咎められたことなど一度もない。
「うちの両親が特異すぎるんですよっ」
友雅が母のハートを、いともあっさり掴んでしまったから。
すぐに両親公認となったおかげで、難なく関係はスムーズに進展し、今やこうして新しい生活を歩き始めている。
「何にせよ、大切な姫君を譲って頂いたことに、感謝しきれないほどだよ」
伸ばした手に、添えられる手。
差し出した肩に、寄り添う肩。
あたりまえのようにそこにあるけれど、奇跡がなければ触れ合うこともなかったものたち。

「さて、そんな姫君をより美しくする代物を、ここにお見せしようかな」
抱き寄せて数回口づけを交わしたあと、友雅はそばに置いていた紙袋をあかねの前に差し出した。
見覚えのある店名は、彼が仕事で贔屓にしている呉服店。
「あ、もしかして浴衣ですか?」
わくわくと覗き込む彼女の目の前で、友雅は紺色の箱の蓋を開いた。



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Megumi,Ka

suga