Valentine Panic!

 001

「あれっ?蘭、これから出掛けるの?」
靴箱の上に置いてある時計は、午後5時を過ぎている。
2月の午後5時と言ったら、外はすっかり夕暮れも深まって暗くなる頃。
普通なら「ただいま」と言って、帰宅してくる時間だ。

「こいつ、今からバイト。夕方からの短時間&短期バイトなんだってさ。」
天真がスニーカーを脱ぎながら、ブーツを履き終えた妹の背中を軽く叩く。
「へえー。どこに行ってるの?」
「駅チカにある、お菓子屋さん。チョコのお菓子が美味しいとこ、知ってる?」
チョコが有名なお店と言ったら、この辺りの若い女の子が知らないはずはない。
駅の地下街に並ぶ洋菓子店の中で、行列が途切れない有名店。
国内の大会などでも、何度か受賞しているショコラティエがいることで、雑誌やテレビの取材が度々ある店だ。
「そこで、14日までバイトなの。つまり、バレンタイン商戦のお手伝いってところかな。」
学校が終わってから出勤で、5時半から8時までの時間は店頭で接客。
店が閉まったあとは、次の日の支度として包装紙やリボンなどを揃えたりと、雑用は数知れず。
結局のところ上がれるのは、午後10時近くになる。
「うわ、それじゃ大変そうだね…」
「だけど時給は良いの。だから短期でも結構良いお給料になるのよ。」
時々帰りがけに、余ったケーキとかも安くもらえるし…と、本音をこぼしながら蘭は笑った。

「どーせフリーだから、14日なんて用事ないしねー。それに、売れ残ったチョコはお父さんとお兄ちゃん用に、貰って来られるし。」
「おいこら!売れ残りで済ますつもりかよ、俺らのチョコは!」
「当然。お小遣い少ないからバイトしてるのに、そんなので出費したくないじゃないのよ。」
"そんなの"って、またボロクソな…。
可愛い顔して、意外と容赦ない毒舌娘の蘭に笑いながら、あかねはバイト先に向かう彼女を見送った。



「そっか、バイトかー。良いな、私もやろうかなあ…」
「何、おまえも懐具合厳しいの?」
キッチンからコーヒーを持って来た天真が、カップをあかねの前に置いた。
そりゃあ蘭と違って、あかねはデートとかもするだろうけど、いくらなんでもそれは彼氏持ちだろう。
何せあかねが欲しそうにしているものなら、チェックも素早そうだし。
強請らなくても、何か都合付けてプレゼントくらい平気でやりそうだし(実際、ハンガーに掛かってるコートだって貢ぎ物らしいし)。
そうなると、あかねが直接財布を広げる機会なんて、あまりなさそうだけどな…。
……とかなんとか、少しずつカフェオレを啜る猫舌の彼女を見て、天真は考える。

母の田舎から送られてきた、蜜がしっかり詰まった甘そうな林檎。
蜜柑は父の田舎で、叔父がやっている農園から送られたもの。
たくさんあるからお裾分けに、と呼ばれてやって来た天真の家で、彼の母は段ボールから綺麗な実を品定めしている。
「ねえ、天真くん。蘭のバイト先って、まだ募集とかしてないかなあ?」
「え、おまえ本気でバイトしたいの?」
二個ほど剥いて貰った林檎を、かじりながらあかねが言う。
「うん…。実はねー、バレンタインのプレゼント…本命の品物が予算厳しくって、泣く泣く諦めてたんだけど。」
資金が足りないだなんて、一体どんなチョコレートを考えていたんだ?
世の中では、1個○千円とかいうチョコが世の中にはあるらしいが、まさかそんなものを買うつもりだったんじゃ…。

「冗談じゃないよー!違うよ!チョコじゃないの。扇なの。」
慌ててあかねは、プレゼント第一候補の品物の名前を告げた。
扇?扇って…あの、ひらひらした扇子の事か?
着物の時に持ったり、日本舞踊とかで使うアレのことか?
「うん。お稽古場に飾ったら、綺麗なんじゃないかなあって、思っていたんだけど…また高いのよ、それが!」
あかねが店で見つけた飾り扇は、四季それぞれの柄で4種類あった。
春は桜、夏は鮎と青紅葉、秋は紅葉、冬は雪景色と梅。
「四つセットで欲しかったの。季節ごと変えて飾れるように。でも…ひとつ8000円くらいするの。」
ということは、8000円×4=32000円…。
そりゃたしかに、簡単に予算の都合が着くような値段じゃない。
「何とか切り詰めて20000円近くは溜め込んだんだけど、やっぱり辛くて。だからって、四季揃ってるのに欠けているのも、何か…でしょ?」
「そりゃなあ…見映え的にはな」
「だから、短期でもバイトしたかったんだー。蘭と違って自由登校だから時間あるしー…」
バイトは元から考えてはいたのだが、やはり思い付いたのが遅すぎたらしい。
良さそうなところは募集を締め切っていて、他にどこかないかと漠然と探していたのだ。

「天真、あとで蘭に聞いてあげなさいよ」
キッチンで林檎と蜜柑を袋詰めしていた母が、カウンターから顔を出した。
「あそこのお店、お客さん多いんだから人手欲しいでしょ。蘭が学校終わってからだから、その前の時間を手伝ってもらうとか、出来ないの?」
知るか、そんなの。俺は店のオーナーじゃねえんだし…と、腹の中でつぶやく天真。
しかしあかねも、真面目な顔で手を合わせる。
「ねえ天真くん…ダメ?蘭に聞いてもらってくれない?」
「ほら、あかねちゃんも頼んでるんだから、聞いてあげなさいよ!男なんだから」
「…何で俺がそんなに言われなきゃいかんのよ」
俺なんか売れ残りのチョコが貢がれるの、目に見えてるんだぜ、まったく。
そんな風にブツブツ言いながら、天真はコーヒーを啜った。



テレビの音は、単なるBGM。
騒がしい話し声や笑い声は邪魔だから、オーケストラの番組などを流している。
普段、琵琶や琴、笛などの和楽器の音ばかりに触れているので、こうした西洋楽器が奏でる音というのも、新鮮でなかなか面白い。
ソファに腰を下ろし、友雅は古本屋街で購入した本を読んでいる。
それらはすべて古典で、古い文体で書かれているものばかりだ。

じゃれつくように後ろから抱きついて、肩に顎を乗せて彼が開いているページを見る。
「それ、面白いですかぁ〜?」
「なかなか面白いよ、僧侶の方の随筆だけど、どこか俗っぽいところがあってね。それに、よく知っている場所が出てきたりするのも興味深いし。」
古典は正直、あまり良い成績じゃなかったあかねには、現代文で書かれていないと理解し難い。
かと言って…現代文で訳されていても、決して自慢出来る成績ではなかったが。
「ほら、これなんかだと、あかねもよく知っているだろう。」
友雅が指を差した文字。
それを辿ってみると、確かにあかねにも見覚えのある文字が目に入った。
「あ、朱雀門…。民部省…大学寮?」
「そう。仁和寺は、永泉様がいらしたところだね。京の荒れた光景が書かれていて、少し痛々しい感じもあるけれど。」
ほんの数ヶ月しかいなかった京。
だけど一生忘れられないほどの、記憶に残る想い出が刻まれた場所。

「今となっては、文字を見るだけでも懐かしくなるね。」
「……帰りたいとか、寂しいとか…思います?」
彼にとって、そこに書かれているものはすべてリアル。
その世界で生まれ、その場所で生きていた。何年も、何十年も。
ここで過ごす時間を、どうやっても超えられない長い時間の中に、彼の想い出がたくさん詰まっているはず。
ほんの一瞬の"懐かしさ"が、もしも"帰りたい"に通じてしまったら、どうしよう。
もう、彼と別の世界で生きるだなんて…考えられないのに。

「全然。」
ぶらりと延ばしていたあかねの手を、友雅は自分の手に絡ませた。
「あかねのいない世界なんて、それこそ寂しくてつまらないよ。例え戻ったとしても、きっとここに帰りたくなるからね。」
「ホント…に?」
「嘘だと思うの?花嫁修業の成果を、今から楽しみにしているのに?」
小指と小指。結んだ約束。
ずっと離れないと誓い合った約束。
これからも一緒に生きていこうって決めた、二人だけのひみつの約束。

「こっちにおいで。」
開いていた本が閉じられて、ソファの隅に追いやられる。
その代わりにあかねを膝の上に乗せ、今度は友雅が後ろから抱きすくめた。
「素敵な花嫁になれるように、私の期待を裏切らないでね?」
「あ、あー…出来るだけ…頑張ります…はい…」
狼狽えるあかねの耳に、くすっと笑い声が聞こえたあと。
顎を引き寄せられて、そのまま視界と唇を塞がれた。

+++++

Megumi,Ka

suga