悪戯Tactics

 001

建物は古びているが、比較的広い間取りと陽当たりの良い南向きのバルコニー。
キッチンや浴室なども最新とは言い難いけれど、使いやすくリフォームされているため、何の問題もない。
数少ない家具は、ダイニングセットと大きめのソファのみ。
そして、水草やライトを綺麗にレイアウトした水槽。
さぞかし鮮やかな熱帯魚でも飼っているのだろう…と思うと、その中で泳いでいるのは3匹の金魚。
彼らは広い水槽の中を、悠々と気持ち良さそうに漂っている。

そんな1LDKのマンションに、突然彼は飛び込んで来た。


「っていうわけで、俺は全然その気はなかったんだぜ。こっちはただ、純粋に遊びに行っただけだしさ。」
差し出された冷たい烏龍茶を一気飲みして、何とか彼は落ち着きを取り戻したらしく、事の一部始終を話し始めた。
「なのにさあ、その女がくっついて来ちゃって。でもって、そいつの彼氏が俺に逆恨みして突っかかってきやがって。もー…店の中を逃げ回り通しよ。」

ここまで聞いた話をまとめると、彼はいつものように馴染みのダーツクラブに、遊びに出掛けていたらしい。
そこでたまたま知り合った女性と、単に飲みながら話していただけだった。
が、どうやら彼女はその気になったようで、あからさまにモーションをかけて来たのだという。
もちろん彼は全くそのつもりもなく、何とか距離を置こうとしていたところに…彼女の恋人が登場。

「俺が言い寄られてる方だぜ?なのにヤツは、俺が先に色目使ったとか言いがかり付けやがってよぉ!」
当然、その場はちょっとした修羅場。
男は彼に文句をつけ、女はそんな彼氏に文句を付けつつも、モーションをかけ続けるから、状況は悪化する一方。
ついに店を飛び出して、逃げて来たというわけだ。

「しっかし、あいつら二人ともしつこくてさあ!店の外まで追いかけてきやがって。どーしようもねえの。何とかあちこち逃げ回って、丁度この近くまで来たってわけだ。」
「うちは駆け込み寺ではないんだがねえ…」
天真の騒動を聞きながら、呆れ気味に友雅は答えた。
「女性にモテるというのも、大変なんだねえ…。」
「おまえが言うなっ!」
軽く友雅にツッコミを入れると、天真はおかわりのグラスを突きつけた。


時計の針は、すでに午後11時。
学生の天真がこんな時間まで外をフラついているのは、正直あまり感心しないことではあるが、明日は休日だし、大目に見てもいいか。
そう思いながら友雅は、冷蔵庫から烏龍茶をボトルごと取り出した。
「で、来客に失礼な事を言うようだけど、いつ頃までここにいるつもりだい?」
「あー…あと1時間くらい居座らせてくんね?」
天真が気付くはずないが、友雅はその時妙な冷や汗が背中を伝った。
1時間?まだ1時間もここにいるつもりなのか?
「っていうかさ。親父に迎えに来てもらおうかと思って連絡したんだけど、今夜残業で帰り遅いんだってさ。で、多分午前様になったら会社を出るから、そしたらこっち回ってくれるってんで。」
まあ、もう少し世話になるわ、と気楽に天真は言ったが、友雅としては喜ばしいことではなかった。
1時間も天真がここにいる……。
向こうはいくら長く見積もっても、あと1時間は掛からなそうな気がするが…。
さて、どうなることやら…。



まるで自分の家のように、遠慮もなく天真はソファに寝転がる。
そして、手元にあるリモコンを取り、テレビのスイッチを付けた。
あまりテレビを見る習慣のない友雅と違い、完全なテレビっ子の天真は、バラエティ番組を見ながら暢気に笑い声を上げている。
こちらは、いつ変わるとも分からない現状に、どう対処しようかと思考中。
熱めに入れた緑茶も、あまり湯気を立たなくなっていた。

「お、旅行のパンフじゃん」
飾りのように置かれている椅子の上に、数冊の旅行会社のパンフレットがあるのを天真は見つけ、それを友雅に見えるようにちらつかせた。
丁度今は、紅葉真っ盛りの季節。
通学途中の街路樹や公園の木々も、良い色に染まっている。
こういう時期こそ観光シーズンで書き入れ時、とばかりに、旅行会社は色々な企画を展開しているようだ。
パラパラとめくってみると、近場から少し遠出のコースまで、行先は多種多様。
名所観光や温泉旅行、手軽な日帰りのバスツアーなど…趣向を凝らしたものが用意されている。

「そういやさあ、明日の休みはうちの蘭とあかね、日帰り旅行で紅葉を見に行くみたいだよな」
パンフレットの紅葉を見て、天真は思い出したように言った。
郊外にある森林公園の紅葉が綺麗で、ちょっとしたイベントも開催されているとのことで、あかねと一緒に出掛けるのだと散々蘭が言っていたのだ。
「せっかくの休みだってのに、蘭に先を越されて残念だったなー」
ニヤニヤしながら、天真は友雅の顔を伺う。
出掛ける用事がなければ、ここで一晩お泊まりデートなんかするつもりだったんだろうに、次の日に出掛ける用事があるんじゃ、さすがにそうもいかないだろう。
「もしかしておまえも、あかねを連れて紅葉でも見に…とか思って、こんなの集めて来てたんじゃねえの?」
「ま、私にはいくらでも次があるさ。遠出じゃなくても、近場の一泊旅行のプランだって多いしね。」
そこで日帰りではなく、一泊旅行を選ぶところが、やっぱり用意周到な男だと天真は頭を掻いた。



ガラリ。ガラガラ。ガタン。
その音は、キッチンの奥の方から聞こえて来た。
「あ?何の音だ?」
天真は反射的にそちらを見るため、起き上がって身を乗り出した。
ガラス戸というか、何か建具が動いたような音だ。
しかもそれは、自動的に動いたような規則的な音ではなくて、明らかに人の手で動かした、微妙なズレのある音。
一体何だろう…と、不思議そうに目を凝らした次の瞬間、目の前に現れた姿に天真の目は点となり、そして身動きがぴたりと止まった。

「もう!友雅さんっ!?私が置いといた着替え、一体どこに隠したんですかあっ!!」

ぴたぴたとフローリングを歩く、濡れた素足の音。
そのつま先にぽたり、と落ちる髪の毛からの雫。
そして、白い湯気に混じった、柔らかなフローラルソープの香り。
目の前に突然現れたあかねは……タオル一枚の湯上がり姿。
バラ色に染まった肌に水滴を付けたまま、リビングにいる友雅の所へやって来て、彼のいたずらに小言を言ってやろうと思ったのだが。

「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっっ!!!」

ここが角部屋で、隣が空室で良かった…と友雅は思った。
もしも左右の部屋に住人がいたとしたら、今の悲鳴を聞いて「何事か?」と通報され兼ねない。
あかねはそんな絶叫を残し、再び浴室へと駆け足で逃げ隠れてしまった。

取り残されたのは友雅と、未だ硬直している天真の二人だけ。
はっきり言って……少し気まずい。


「な、何であいつ…こ、ここで何してんだよっ…」
「風呂に入っていたんだよ。見れば分かるだろうに。ま、本当はあんな姿は見せたくはなかったけど。」
不可抗力だから仕方ない、と友雅は苦笑する。
「そ、そういう意味じゃなくってさあっ!あいつ、明日は蘭と出掛けるって言ってたじゃんかよ!な、なのにこんな時間にっ、ふ、ふ、ふ…」
ふ、ふ、ふ、と言っても、別に笑っているのではない。
いや、笑っているような震え声であったことは確かだが、それはこの状況に動揺しているせいだ。
既に時間は午後11時半。
明日の待ち合わせは、午前9時に駅前のロータリーで…と聞いた。
なのに、前日にこんな時間まで友雅の部屋にいて、しかも悠々と風呂に入っているということは、つまり……そのまま朝までここに待機?
そう考えるのが、自然なことだと思う。というか…他に考えつかない。
何せ、ここが友雅の部屋だと思えば…。

「おまえーっ!疲労困憊なまま、あかねを出掛けさせるつもりかーーっ!!」
思わず友雅の胸ぐらを掴んで、怒鳴った天真だったが、その顔が真っ赤だったのがおかしくて、つい友雅は吹き出して笑ってしまった。
「そこまで可哀想なことはしないよ。安心しなさい。」
「出来るか!つーか、信用出来るかっ!!」
思った通りの声が返って来て、思った通りの睨み顔が、友雅を噛み付くように見下ろしていた。



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Megumi,Ka

suga