瞳・水晶

 001
情熱という言葉を自分の中に見失っていてしばらくの時間が流れ、そんな感情が存在していたことさえも忘れていた頃だった。
咲き誇る一つの花を見つけた時、自分の中にあった遠い記憶が呼び起こされるようにして、その花を手の中に閉じこめようと手を伸ばした。

それが、情熱というものの形だったこと。
燃えさかる炎のように熱く、明るく世界を照らすその感情を手にして世界が変わる。

幸せとか幸福とか、そんな縁遠い言葉を思い浮かべるようになってから…………
そしてまた、その情熱の恐ろしさを知ることにもなった。

情熱のその先には、迷いというものも存在すると言うことを。


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一ヶ月も前からカレンダーに印を付けて、一日一日その日に近づく日々の流れを楽しんでいた。
六月になると、ほぼ毎日雨の日が続く。湿気は多いし雨に濡れたり、良いことなんてあまりなかったシーズン。
近所の垣根に大きく咲き誇る、紫陽花の色の移り変わりを眺めるくらいが楽しみだったけれど。
でも、今は違う。
大好きな……大切な人の誕生日があると思うと、その日に向けてのんびりなんてしていられない。

自分よりもずっと年上の彼には、いつまでたっても釣り合う年令にはならないけれど、彼に喜んでもらえる何かを考えるだけで時間は結構早く過ぎ去っていってしまう。

どんなものを贈り物に選んだら、彼は私を大人と認めてくれるだろう?

年なんて取りたくない、と周りの友達は口を揃えて言うけれど。
だけど今は、少しでも大人になりたい。彼と直線で見つめ合えるくらいの立場になりたいと、真剣に思う。



「でもなぁ…お父さんに贈るようなものじゃ色気ないし…。だからって天真くんたちに贈るものじゃ子供っぽい気がするし……」
かれこれ一ヶ月間、こんな調子で毎日が過ぎて行った。
近づいてくる友雅への誕生日に、どんなものを贈ったら彼が喜んでくれるか。ずっと同じ事で悩んでいる。
決まったと思えば、また違うものが気になったり。そしてまた違うものに目が移ったり。きりがない。
誕生日なんて毎年来るものなのだから、今年に限ってそこまであれこれこだわらなくてもいいと思うのだが、やはり自分の審美眼が問われるものであるからか、物選びには慎重になってしまう。

物でつる…というわけじゃないが、でも、気合いを入れてしまうのも仕方がない。
好きな相手に良いところを見せたい…と思うのは、恋をしたときから誰でも思うことなのだから。



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やっと慣れてきた現代で手にした仕事から帰ると、留守番電話の赤ランプが点滅していた。
午後6時半。明かりのない部屋でその光は存在を誇示しようと強く光を放っている。
ボタンを押すと、人工的な女性の声に続いてあかねの声が録音されてあった。
『もしもし?友雅さん?あかねです……まだ帰ってないのかなー。最近お仕事忙しい?あまり電話してくれないからちょっと心配になって電話してみました』
友雅は軽めの手荷物をソファの上に放り投げてから、ごろりと床の上に腰を下ろした。
あかねの声は、まだ続いている。

『何か必要なものがあったら、言ってね。出来るだけ私、用意してあげるから』

くすっと小声で友雅は笑った。
精一杯背伸びして、大人のように振る舞おうと懸命になっているあかねの姿が目に浮かんだ。
彼女のサポートがなければ、右も左も分からないこの世界で生きて行くことは困難だ。ようやく町中の雰囲気や、人との付き合い方が理解してきたとは言え、覚えたとたんにまた新しい何かが次々と生まれてくる。追いつくのは結構骨が折れる。

彼女がいなかったら…………。
元の世界で自分は今までと同じように生きていただろう。
それが果たして自分にとって幸せだったのかどうか。

今、この世界にやってきて友雅は、ふと考えることが多くなった。

もしかしたら、人にはそれぞれ自分に合う場所があるのではないか、と。

ここの世界は、自分が居るべき場所ではないのではないか、と。

あかねの声が途切れたあとも、友雅は明かりを灯ける気にはならなかった。



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いつも通りに日々は流れて行き、やっと取り付けた二人のデートは、前回から既に一ヶ月近く経っていた頃だった。
京にいた頃でさえ、こんなに顔を合わせない時間を長く過ごしたことなどなかった。ましてやお互いを何よりも大切な存在だと認め合った現在、共に過ごす時間にささやかな幸福感を得られることは充分に分かっているはずなのに。

友雅がこの世界にやって来た頃は、休みのたびにあかねがあちこちへ彼を連れ出すのが当然のようになっていたが、一人で彼がこの世界で行動して行くことが出来るようになってからは、こうして彼の住むマンションで過ごしていることが多くなった。
たまに近くのスーパーに買い物に出かけたり。覚えたての料理を振る舞ってみたり。
そこには二人しかいない空間があって、その中で時が流れるままに互いの存在を実感していることが幸せだった。

「でね、この間のホームルームでね………」

未知とも言える現代の食べ物の味覚も、あかねの手料理の工夫で馴染めるようになっていた。毎回新しい料理を覚えてきては、友雅の舌を楽しませる。
その料理を挟んで、あかねは色々な話をして会話に華を咲かせた。いつも耳を傾けながら、彼女の生き生きとした表情を眺めるのを友雅は楽しんでいた。

しかし……………。

「もしかして、今回失敗だった?」
あかねが顔を近づけて覗き込んだ。友雅の箸が進んでいなかったことが、さっきからずっと気になっていたらしい。
「やっぱりそう簡単にはお母さんの味付けはマスター出来ないかなぁ…。ちゃんと教えてもらったとおりに作ってみたつもりだったんだけどなあ……」
一向に減らない煮物の器を眺めながら、あかねは残念そうに頬杖をついた。
「いや、そういうわけじゃないよ。なかなか良い味付けに仕上がっているよ」
「でも…全然友雅さん、食べてないじゃない〜。いつもならちゃんと食べ終えてくれるのに。」
つい、もの思いにふけってしまっていた。目の前にあかねがいるのに、彼女のことを見つめることに集中出来ないで居た。ずっと、違うことを考え続けていたからだ。
「大丈夫。私は好きな味だよ。君が作ってくれるものに、嫌いなものなんてないさ」

いつものように、そう甘い言葉で答えてくれる友雅だったが、何かが違う。あかねが気付かないはずがなかった。

ずっと見ていたからこそ、敏感に気付く。わずかな違い、微妙な違和感。
ただ、それがどんなズレなのかまでは分からない。



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Megumi,Ka

suga