天使のキスで眠らせて

 001

時計の針は、あと15分ほどで午前3時を示す。
"丑の刻"と言うと不気味な感じもするが、意外にこの時間の病院内は静かで
、穏やかな空気が漂っている。
もちろん、病院や専門科によって違うだろうが、現在は事態の深刻な入院患者が殆どいないだけに、今の時刻は当直医も看護師たちものんびりとしている。

今夜の急患は7名。殆どが火傷や打ち身などの、比較的軽傷の症例だった。
こんな時間に怪我させてしまうなんて…と、嘆きながら怪我した子どもを連れて来た主婦を、若い看護師が宥める。
「もう大丈夫ですよ。今日の当直の先生は、うちの病院でもトップクラスのドクターですから。」
白衣を身に着けた当直医が、診察室へと入って来る。
「こんばんわ、夜遅く大変でしたね。さて…可愛いお嬢さんの治療をしましょうか。」
すらりとした長身で、髪を緩く後ろで束ねている彼は、外科医らしいしなやかな指先で、幼い子供の傷の手当を始める。
物腰は柔らか…というよりも、華があると言った方が相応しい。
話す声や表情に、気付く目を奪われていることもしばしば。

「ああ、たいしたことはありませんよ。二、三日で傷は消えます。驚いて泣いてしまったんでしょう。可哀想にねえ。」
泣きわめいて目を腫らした子供を、彼は優しく撫でた。
「塗り薬を処方しますので、入浴後に塗ってあげて下さい。」
手早く記入を済ませたカルテを受け取り、看護師は診察室のドアを開けて母子を外へ連れ出して行く。
その後ろ姿を、ドクターが呼び止めた。
「お母さんもゆっくりお休みになると良いですよ。お嬢さんは大丈夫です。もうご心配なさらずに。」
「は、はい…。あのっ…夜分遅くありがとうございましたっ」
若い母親は深々と頭を下げて、子供の手を引いて慌てるように外へ出て行く。
そんな彼女の頬は、熱もないのにほんのりと赤らんでいた。


「……というわけでね。ホントに橘先生には敵いませんよ。」
患者の手続きをしていた看護師が、コーヒーをすすりながら同僚たちに話を聞かせると、みんな揃ってうんうんと頷く。
「何が敵わないって?普通に診察しただけなんだがね、私は。」
「普通にしてて、ああですもんねー。違う意味でも凄腕ですよ、橘先生は。」
看護師だけではなく、同じく今夜の当直医である内科医も、笑いながら納得している。

この病院で、友雅は整形外科医をしている。
"橘友雅"という名は学会でも知られており、まだ三十代前半だと言うのに海外での医療キャリアはもとより、国内でも名高い治療実績を持ち、学会専門医でもある。
それだけのドクターであるから、遠方からの患者も後を絶たない。
まあ、つまり…いわゆる"名医"と呼ばれる人種だ。
更にその正確な腕とキャリアに加え、女性からの人気の高さも桁違いで…。
『ドクターなんかより、モデルとかクラブとかの世界の方が、稼げるんじゃないのか』というのは、以前誰かが言った言葉。
その言葉に、誰も反論はしない。
それだけ、納得せざるを得ないルックスの持ち主であるからだ。

「橘先生、そろそろ仮眠に行っても構いませんよ。」
煮詰まったコーヒーをマグカップに注ぎながら、少しだるそうに身体を延ばす友雅に内科医が言った。
「ああ、そうしようかな。日中の疲れもまだ抜けないしねえ。」
カレンダーでは祝日なのに、友雅のスケジュールはオペの予定。しかも3件だ。
難しい症例ではなかったけれど、やはり神経を使う作業は疲れが残る。
「まったく…勤労感謝の日とか言っても、医者の勤労は労ってもらえないもんだね。その上に夜勤の当直だなんて、酷使し過ぎだよ。」
勤労を感謝する日に仕事だなんて、この世は不公平だと苦笑しながら愚痴ると、ナースステーションに笑い声が上がった。

「特に今日は、元宮さんが夜勤じゃないですからね。そのせいで疲れが取れないんじゃないですかー?」
と、そんな事を言ったのは、若い女性看護師だ。
「あっちは休日なのに、先生は昼から夜勤まで病院に入り浸りですもんね。辛いですよねえ、予定がズレるのって。」
「本当にね。たまにはゆっくり、二人でデートとかしてみたいねえ…。」
冗談めいた口調で本音を口にすると、深夜にそぐわない華やかな女性たちの声が沸き上がる。
陽気な看護師たちの表情は、その場を明るくしてくれる。
だけど、そこにもう一人の天使がいてくれたなら、少なくとも友雅の疲労は解消してもらえるのだが。

「それじゃ、しばらく当直室に引っ込むよ。5時くらいまで休ませてくれれば有り難いんだけど、急患があった時は携帯で呼び出しを頼むよ。」
「僕が引き受けますから、6時くらいまでは大丈夫ですよ。ゆっくり休んで下さい。」
内科医がそう言ってくれたので、友雅はその言葉に甘えることにした。
たった3時間程度の休憩だが、せめてその間だけは医師ひとりで賄える急患に留まってくれるように…と祈りつつ、友雅はナースステーションを後にした。

+++++

午前3時の夜風は冷たい。
院内の廊下もひんやりとしていたが、外はさすがにそれ以上の冷え込みだ。
友雅は当直室に立ち寄り、白衣をベッドに脱ぎ捨てたあと、車のキーと携帯だけを手にして裏口から外へ出た。

行き先は、職員専用駐車場。
外来病棟の裏手にある、広々とした二面のパーキングエリアだ。
こんな時間に駐車している車は、夜勤の看護師や当直医のもの。すべて、通用口に近いところに停められている。
しかし友雅のBMWは、奥のがら空きエリアの…また更に奥ばった、大きな木の枝が垂れ下がる場所にある。
そしてその隣に、真っ赤なPASSOが寄り添うように停められていた。
いつのまにか、吐く息が白く見える深夜。
友雅は足早に駐車場へ急ぎ、PASSOの運転席の窓を軽く叩いた。

「待ったかい?」
「うん、ちょっとだけ待ちましたけど、大丈夫ですよ。」
パワーウィンドウを開けて、彼女が顔を出す。
現金なもので、それまで寒々としていたのが彼女を見たとたんに、少し和らいだような気になる。
「私の車に移ろうか。」
ガチャンという音を立ててBMWのロックが開くと、あかねはエンジンを切って荷物を抱え、友雅の車に乗り込んだ。


「今夜は忙しかったですか?」
「いや、今日はそれほどでもないよ。軽傷の急患が数人と、院内も別に変わったこともない。」
「そうですか。良かった。」
「でも、おかげで暇を持て余してるんだよ。」
「ダメです!いつ急患が来るか分からないんですよ!ドクターはどんな時も、出来るだけ人数多く待機してもらわなきゃ!」
救急指定の病院であるから、いつどんな患者が搬送されてくるか分からない。
重病患者が入ることもあり得る。一人でも多く医師が待機していてくれれば、命が助かる可能性は高くなるのだ。
そんな風にして、彼女はいつも患者のことを気にかけている。
例え、自分が休みの時でも。
まったく、看護師の鏡だな…と医師の立場から見れば感心しきりだ。

「とにかく、朝まで頑張って下さいね。」
「はいはい…気を引き締めて当直に当たりますよ。でも、今日くらいは勤労に励んでる旦那様を、優先して労ってくれても良いだろう?」
助手席に座るあかねの肩を引き寄せ、頬に軽くキスを浴びせる。
正式にはまだ、夫婦とは言えない婚約状態の身ではあるけれど、疲れた夜はそんな風に彼女に甘えてみたくなる。
「勿論、労ってますよ。だから、ちゃんとリクエストのお夜食を作って持ってきたんですからね。」
そう言ってあかねは、膝の上にあるタータンチェックの包みを差し出した。

受け取ったランチボックスはほんのりと暖かいが、手渡されたステンレスボトルは、少し熱かった。
「こっちはコーヒー入ってます。豆はキリマンジャロですよ。出がけに入れてきたんで、まだすごく熱いですからね。」
「ああ、ありがたいな。看護師たちが入れてくれるのは良いんだけど、私にはちょっと合わない豆でね。」
「当直室でゆっくり食べて、休んで下さいね?」
あかねは荷物を彼にすべて手渡し、助手席のドアの取っ手に手を掛けた。

「何だ…このまま帰ってしまうのかい?」
「え、だって、御夜食の差し入れに来ただけですもん。」
まだ友雅は夜勤が残っているし、これから少し仮眠を取る時間だ。あまり長居して話をしていても、休む時間が少なくなっては申し訳ない。
だが、帰ろうとするあかねの手を、友雅は引き止める。
「ここで夜食済ませるから、それまで一緒にいてくれても良いじゃないか。」
「でも…」
戸惑うあかねの様子も構わずに、友雅はその身体を引き寄せた。
「一人で心細い夜食を摂らせるつもりかい?心優しい白衣の天使様は、そんな無慈悲なことは言わないよねえ?」
「もうーっ!調子に乗りすぎですよっ」
そう言いつつも、あかねは彼の腕を解こうとはせずに、結局そのままここに留まることを了承した。



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Megumi,Ka

suga