Stand By Me

 01

カーテンを開けると、空の色はどんよりと重い。
時計は間違いなく明け方の時刻なのに、朝日らしいものは全く見えない。
……今日も雨が降るのかなあ…。
このところ、天候が不安定だ。
日中は初夏らしい青空かと思えば、夕方には激しい雷雨に見舞われたり。気温も昼と夜とでは差があり過ぎたり。
そろそろ衣替えもしたいのに、こうも寒暖の差があるとタイミングが掴めない。

天気が悪いと、気分もすっきりしない。
別に具合が悪いわけでもなく、至って普通の日常生活が続いているはずなのに、笑顔よりも溜息がこぼれてしまう。
それでも、仕事に行かねばならないのが社会人というもの。

レースのカーテンを閉じて、あかねは寝室を後にする。
まだ目を覚まさない彼を起こさないように、そっと気配を忍ばせて。



「朝から重くないですか?エスプレッソって」
「いや、これくらいの方がしっかり目が覚めて良いよ」
目が覚めるようなほろ苦い香りに、濃いめの色合いの熱いエスプレッソ。
朝にゆとりのある休日以外は、いつもアメリカンブレックファストだ。
夜の仕事である友雅とは違って、あかねは一分でも朝の時間に余裕を持ちたいので、手軽な洋風スタイルのメニューにしている。
それについては彼も納得しているので、文句など一言もない。
だが、コーヒーだけは彼の要望に沿っている。

これまではずっと朝はアメリカンだったのだが、最近エスプレッソに切り替えた。
職業柄、ワインなどのアルコール類にはこだわりを持っている彼。
逆にコーヒーなどの嗜好品には、さほど独自の趣味を強く抱いていなかったのだが、最近はよくエスプレッソに口を付ける。
「イタリアでは朝から晩まで、エスプレッソだからね。ただ、どこもやたらに甘くて…それが困るな」
苦みの強いエスプレッソも、砂糖入りが一般的。
ビスケットやクロワッサンに、更にジャムなどを塗って食べたり。
町中のパン屋も、デニッシュのような甘いものばかりが並んで…それらがイタリアの朝食。
「朝食は、ホテルのサービス以外は遠慮したいねえ」
「えー、私は美味しかったですよ?ホテルの並びにあったパン屋さんの、焼きたてのチョコパンとか」
数年前の夏休み、渡欧する彼に連れて行ってもらったイタリア、そしてスイス。
完全にリゾートだった後半のスイスより、賑やかさに溢れていたイタリア・ベネツィアの方が想い出深い。
運河とドゥオーモと、キラキラしたベネツィアンガラス。
真っ青な空と海に挟まれたベネツィアの夏は、写真なんかなくても記憶が鮮明だ。

「あ、そろそろ支度しなきゃ。ごちそうさまでした」
キッチンカウンターの上にある時計を見て、あかねは椅子から立ち上がる。
勤務先は、ここから電車で一本。
駅までは徒歩だが、ゆっくり歩いても10分掛かるか掛からないか。
学生の時からルートは同じ。あかねが通うのは、4年通った大学のキャンパス。
ただし、行先が講義室ではなく、敷地内の図書館に変わっただけである。

このマンションを選んで正解だったな、と友雅は思った。
元はといえば、彼女が大学からスムーズに来られることを条件に、馴染みの不動産屋に探してもらった部屋だ。
だが、こうして社会人となった彼女にとっても、通勤が楽になるとは思ってもみなかった。
大学生の頃から…そして社会人の今も、彼女はここから出掛けてゆき、またここに帰って来る。
当たり前に、何の違和感もなくこんな毎日が過ぎて行くけれど、いつまでこんな日々が続くのか見通しは立っていない。
彼女には学生の頃から借りているアパートがあり、未だにそこを解約していない。
この部屋で過ごす時間がどんなに長くても、その部屋がある限り、彼女の家はここではない。
本当の意味で彼女が帰る場所は、ここではない別のところ。
そこに、自分の姿はない。

あかねは寝室で着替えを済ませ、メイクをしている。
出会った頃も社会人になった今も、ごく薄いナチュラルメイクで、ルージュも色の濃さより艶が引き立つものばかり。
変わらない関係と、変わらない彼女の素直さや穏やかさ、愛らしさ。
恋人として分かち合った時から、気持ちも変わっていないのに、もう一歩先に進みたい気持ちが今はある。
これ以上進歩する、その意味が何なのか。
薄々自覚出来るようになったけれど、立ち止まった足は前にも後ろにも動かない。

どうするべきなのか、どうあるべきなのか。
自分たちは今後、どういう未来を進べきなのか---------なんて。
そんなことを考えながら口に含むエスプレッソは、とびきり苦みが強く感じた。


出勤する時刻になると、外はぱらぱらと小雨が降り出していた。
今日は明るい色のボトムは止めて、カフェオレ色のクロップドデニムを選んだ。
例え少しくらい泥はねしても、この色ならさほど目立たなそうだからだ。
「駅まで車で送って行こうか?」
「大丈夫ですよ。弱い雨だし」
シューズボックスの横に立てかけておいた、赤い小花柄の傘をあかねは手に取る。
玄関ドアを開けても、目の前の通路は屋内に面しているため、1階のロビーに下りるまでは雨の心配はない。
「じゃ、行って来ますね」
そう言うと、友雅は引き寄せたあかねの髪に、軽くキスを落とした。
唇に、フローラルなヘアエッセンスの香りが重なる。
「魔法が解ける前に帰って来るんだよ、シンデレラ」
友雅に見送られながら、彼女はエレベーターホールへと足早に駆けて行く。
静かな雨の降る朝は、マンションの住人たちも殆ど顔を出さない。

ドアを閉めて、友雅は室内に戻った。
エスプレッソをもう一杯入れて、部屋の静寂を誤摩化そうとテレビをつけると、二カ国語放送の海外ニュースが放送されていた。
耳と字幕を同時に追いながら画面を眺めていると、携帯がカタカタと震動して着信を伝えた。

「おはようございます」
朝早くとも普段と乱れのない、誠実な口調の鷹通の声。
「ああ、おはよう。今朝は…何か予定があったかな」
「いいえ。ですが、お客様から急な連絡がありまして、早朝に失礼ながらお電話させて頂きました」
『JADE』のオープンは、午後8時。
スタッフが出勤してくるのは、せいぜい開店3時間前辺りから。
バーテンダーや厨房スタッフは、早めに入って下ごしらえや買い出しなどをし、フロアスタッフは2時間ほど前に入り店内の掃除や雑用をする。
しかし、鷹通のようにマネージャーともなると、顧客管理の仕事も兼ねて、昼頃から店舗に向かうこともある。
最近はそういう事務作業も増え、勤務時間も随分と長くなった。
「11時にお店を拝見したいと申しておりますので、ご昼食にお招きするのは如何かと思いまして」
「そうだね。その時間なら丁度良い。手配しておいてくれるかい」
「了解致しました。では、10時頃にお迎えに参りますので」

午前中はゆっくり出来ると思ったのだが、どうやらそうも行かなそうだ。
鷹通だけではなく、友雅自身も昼間の用事がどんどん増えている。
仕事の幅が広がった分、与えられた責任も多くなっている。
「このままでは、いられないしね」
満足しているけれど、満足したままでは先に進めない。
それは仕事にも言えることで、自分自身にも当てはまることだ。
現状維持は気楽だ。それでも良い。現在を楽しんでいれば良いじゃないか、という感情はとうに薄れてしまって。
いつか来るかもしれないその時のため、少しずつ変化を求め、歩き出している。



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Megumi,Ka

suga