over the rain

 01

早いもので、今年も半年近くが過ぎようとしている。
あっという間に桜の季節も終わって、天気予報では梅雨入りをしている地域もあるとか。
毎日スケジュール通りに進んでいるのに、何故か季節の移り変わりには気付けない。
「図書館の通り道に植えてある紫陽花の蕾が、もう結構膨らんで来てるんですよ」
彼女のそんな一言で、もう初夏が近いのだと気付く。
そういえば最近、冷えたワインを飲むと喉越しの心地良さを感じるのは、夏の気配が近かったせいなのか。
かと言って、日常に大きな変化があるわけではないが。

「明日は会議でしたっけ」
「組合のね。古株だから、顔を出さないわけにも行かないし」
『JADE』がある地域は所謂繁華街という類いの立地で、居酒屋や小料理屋、バーやスナックなどが点在するナイトスポットエリア。
中には『JADE』と同系の業種店も多々あるが、全盛期から比べたらかなり店舗数は減った。
景気と流行に左右される業界だから、職種問わず入れ替わりも頻繁なのは仕方ない。
そんな中で安定した営業を続ける『JADE』は、この街の老舗でもあり重鎮クラスの権限を与えられている。
これでも彼には商店街組合副組合長、同業者組合では組合長の肩書きがあるのだ。
まあ、常に鷹通が同席してくれるので、周囲は二人で一人という見方をされているようだが。
「色々と話し合いがあるから、明日は鷹通とも打ち合わせの時間を取らないと」
「えー、だったらここでお話すれば良かったじゃないですか」
今日はどちらのお店も休みだし、あかね自身も早めに帰宅した。
一人くらい急な来客があったとしても、オードブルやワインをもてなすくらい出来たのに。
「さすがに彼も、休日は野暮用があるんだよ」
「あ、そういうことなら…」
いつもきちんとしている真面目な鷹通も、プライベートでは至って普通の青年だ。
彼だって貴重な休日を恋人の為に費やしたりもする。
仕事の話で引っ張り出すのは申し訳ない。

「私もこの部屋には、あまり部外者を入れたくないからね」
友雅は言うけれど、鷹通は送迎で毎日のように来ているじゃないか。
時には彼の母も一緒にやって来て、ここで夕食を共にすることもしばしばだし。
広々としたリビングに、街を見下ろせるルーフバルコニー。
ホームパーティーをするには十分なスペースがあるのに、人を呼ばないのは勿体ないと思うのだけど。
と考えながら彼のグラスにボトルを傾けようとすると、友雅はそれをそっと避けてテーブルの上に押し戻した。
「そこは、察してもらいたいところなのだが」
細い腰に回される手が、あかねの身体を引き寄せる。
極上のワインもきらびやかなカットグラスも、甘美な味わいの唇には敵わない。
「この部屋を借りた理由、思い出してもらいたいね」
「わかってますよ〜。そのおかげで、今でも通勤が楽ですもん」
あかねの大学とアパートから、最寄りの駅まで乗り換え無し。
駅からはバスの本数も多く、地域管理が完璧で女性の一人歩きも安心。
ただし店からは遠くなったので、車通勤になってしまったけれどそんなことは最初から承知。
二人が存分に逢瀬を楽しめる環境であることが、何より最優先であったのだから。

あれから数年。
彼女は社会人となり、そのまま母校の大学図書館に勤務している。
友雅は相変わらず『JADE』の経営を続けながら、イタリアンのレストランに事業を広げている。
こういう未来を、思い描いたことがあっただろうか。
おそらくあの頃の自分は、流れに任せて楽な方向を選んで行けば良い…くらいにしか考えていなかったはずだ。
今でもそういう考えがないわけではない。
だが、もっと良い未来を作りたいという欲が少し出て来た。
現状維持より少し上を。
新しいことを始めようという意志が、今の友雅の中にはある。
それもまた、彼女のことを最優先にしているからだ。

「ああ、そうだ。ドルチェの試作品がもうすぐ出来るから、良かったら持ち帰ってくるよ」
「わ、ホントですか?今度はどういう感じなんですか?」
夏のドルチェはフルーツをたっぷり使って、マチェドニアやジェラートなどを。
濃厚なチョコを使ったタルトゥフォと合わせてみたり…と、メニュー係の鷹通の母が試行錯誤している。
「鷹通さんのお母さんなら、間違いないですよ。楽しみ!」
踏み出した結果は、進歩として形になっている。
ひとつ先を見越して歩き出すことが習慣となってから、これまでより安定した日々が過ごせているように思える。
面倒なことは増えたけれども、終わりよければすべて良し、というもの。
君がいてくれれば、ね。
柔らかな彼女を抱きしめながら、吸収した新鮮味のある面白さを反芻する。
何よりその行為自体が、今はとても面白い。



午前11時を過ぎると、飲食店業はどこも慌ただしくなる。
ランチの支度がピークを迎え、早めに昼食を摂ろうという客も増えるからだ。
そういう時は、予め予約を入れておく。
仕切りのある一番奥の席を取ってもらい、周囲から遮られた個室のようにセッティングもお願いする。
「ですが、結構大掛かりなイメージチェンジになりませんか」
「それくらい方向性を変えていかねば、あちらは納得してもらえないだろう」
用意されたオードブルに手もつけず、鷹通は手帳にペンを走らせながら友雅の話に耳を傾ける。
14時から始まる組合の会議に向けての、ランチを兼ねた打ち合わせ。
あくまでこちら側の計画を発表するだけのことだが、鷹通が言うように今回は少々大規模な構想になるため、前もって話をまとめておくことになった。
「この計画を進めると、かなりの店舗が業務形態を変更することになりますね」
「さすがに強制はしないよ。でも、お役所はパッと見で分からないと理解してもらえそうにない」
「…そうですね、それは確かにそうですが」
「各店舗には、追々働きかけや説明が必要だろうね。まあ、これは私たちの意見であって決定ではないけどね」
基本的に行政というものは、繁華街に対して渋い顔をする。
実際問題、酒を振る舞う店が多ければ酔う人間も町には増えるわけで。
楽しく飲んでいるだけなら結構だが、所謂酒に飲まれる客が問題を起こすことも少なくない。
中には周囲を巻き込むこともあるので、お世辞にも健全・安全とは言い難い街ではある。
その印象を、どうやって払拭していくか。
現在店を構えている経営者に負担がないように、改善策を考えていかなくてはならないのが組合の仕事だ。

会話が一段落して鷹通が手帳を閉じると、ホールスタッフがメインディッシュを運んで来た。
香ばしいローストポークに、ナイフとフォークを添える。
友雅はまずシャンパンで喉を潤してから、とろけるほど煮込んだ牛肉に着手する。
「それにしても、最近はこのような話題に橘さんが真剣に取り組んで下さって、本当に有り難いことですよ」
「真剣かどうかは分からないが、他人様の評価を気にするようになったのでね」
笑いながら、友雅はそう口にする。
他人の評価というよりも、一般的な世間の評価に対して彼は注意深くなっている。
同業者から一目置かれても、今の彼に価値があるのは不特定多数からの評価。
例えば…娘を持つ家庭の両親が一生を預ける相手として、納得行く評価が得られているかどうか、とか。
「いずれは鷹通にも、良い影響を及ぼすと思うよ?」
「それでしたら、私は既に理解して頂いておりますので」
「おや、鷹通の方もそろそろ…なのかな?隅に置けないねえ」
「真面目に仕事をしているとお伝えしましたら、受け入れて下さいましたよ。橘さんも、如何です?」
「私は聖人君子ではないのでね。慎重なルートを辿るよ」
こんな会話を交わしながら過ごす、梅雨の晴れ間の昼下がり。
仕事がスタートするのはネオンが映える頃だが、日差しに照らされる新緑の風景もなかなか良いものだ。


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Megumi,Ka

suga