夏の瞬き

 001
あの時の声が、果たしてあなたに聞こえていたのかどうか。
とっさに叫んだあなたの名前に…あなたは振り返ってくれたのだろうか。
あなたは確かに今、この世界にいるけれど…未だにあのことを尋ねられないでいるのは、その瞳が何を見つめているのかを知るのが怖いからだろうか。



生ぬるい風を、素振りの勢いが切り裂く。滴る汗が肌に張り付いて、暑さを更に盛り上げる。
夏の夜明けは早い。太陽の光が雲間から天を照らし始める頃になると、頼久は木刀を握って庭先へと出向くのが習慣になっていた。
例え雨が降っていようとも、剣術に繋がる素振りの鍛錬は怠ったことがない。
一日でも気を緩めてしまえば、それが油断となり大罪を招くことも有り得る。武士としてそれだけは許されないことだと頼久はずっと信じ続けた故に、今では日常的なものとなっていた。

だが、慣れたとは言えど夏場は暑さが息苦しい。明け方ならば日中ほどではないが、二十回ほどの素振りでうっすらと汗が噴き出てくる。これを二百回続けていれば、終わった時には荒い息とじっとりした身体が疲れとなって残る。


頼久は裏庭にある井戸へ行き、高く結い上げた髪をほどいた。そして腰をかがめてから、くみ上げた冷たい井戸水を頭からかぶった。
ひんやりと地下で冷やされた水が、ほてった体を心地よい温度へを冷やしていく。夏の暑さと汗を同時に流していく感触は、何より心地よい瞬間だ。
流れる水は髪の毛の先まで雫となって伝わり、ぽたぽたと落ちて乾いた地面を湿らせていく。

その時、突然柔らかい感触が頭上をくすぐった。視界が少し薄暗くなって、頼久は顔を正面に向けてあげた。
「いくら夏でも髪の毛濡れたままだったら、風邪ひいちゃいますよ」
そう言って手拭をかけてくれたのは、先日からこの土御門家の養女として迎え入れられた一人の少女だった。

名前は……あかね。京を鬼たちから守り抜いた龍神の神子である。
そして頼久は、彼女を守護する八葉の一人だった。
共に戦いをくぐり抜けながら、常に彼女を護ることだけを心に誓い、命のすべてを捧げて生きていた。
そんな殺伐とした世も落ち着きを取り戻し、しばらくして………彼女は元の世界に戻ることをやめて、一人京に残ることを決めた。そして改めて、この土御門家の一員となったのである。

「随分とお早いお目覚めでございますね。」
「うん。お天気が良いせいかなぁ。蔀からお日様の光が差し込んで眩しくって…目が覚めちゃったんだけれど、誰もまだ起きてないし…頼久さんだったら起きてるかな、と思って。」
朝の静かな空気が流れている。靄は消えたが、まだまだ人々が行き交う時刻ではない。こんな時間に起きているのは、何かしらの職人か夜勤の武官たち…ぐらいだろう。
「…ずっと、見ておられたのですか?」
「うん。お稽古してるの邪魔しちゃ悪いなと思って。」
「邪魔など…とんでもない。そんなご遠慮などなさらずに、お声をかけて頂いてもよろしかったのですが。」
あかねが差し伸べてくれた手拭で水の雫を拭き取りながら、頼久はそう答えてから少し困ったような表情を浮かべた。
「……かと言って…私には、お話の相手などはとても出来ませんが……」
頼久の言葉に、思わずあかねは顔がほころんだ。

どんなときにも生真面目すぎるほど仕える者に忠実で。守ると決めた相手には、すべてを盾にしてでも守り抜く熱い信念を持っている。
はっきり言って、頼久は饒舌なタイプではない。寡黙な性格だから、出会った時はその表面上しか見取れずに、とっつきにくい雰囲気さえあった。

でも、一緒にいるうちに彼の本当の性格に気付いた。
だからこそ心は岩清水の如く純粋で、汚れない透明な瞳で自分を見つめ返してくれること。



ふるふると濡れた髪のしずくを払いのける。水を吸い込んだ黒髪が艶やかに朝日に光る。
「頼久さんの髪の毛って…綺麗ですねぇ」
髪を拭く頼久の姿をまじまじと見ながら、あかねがそう言った。
「長く伸ばしているだけですよ。普段は別に必要はありませんが、正装の際に結い上げることもありますので、仕方がなく伸ばしているだけで…」
そう頼久は言ったが、現代で生まれ育ったあかねには、これほどに長く髪を伸ばした男性などあまり見かけたことがない。しばらく前に長い髪が流行ったこともあったが、それでもせいぜい肩にかかる程度だったので、なかなか頼久のスタイルは新鮮だ。

そして、ボブの長さのあかねにとっては少し羨ましくもある。
「でも私だって、そんな風に上まで結べるほど伸ばしたことないですから、なんだか良いなーって。うちの学校、結構校則とかうるさかったし」
「校則……ですか?」
聞き慣れない言葉を、頼久がもう一度尋ね返す。
「あ、うん…規則がね、色々うるさくて。髪の毛は肩より長くなったらちゃんと結ばないといけないとか、前髪が目にかかっちゃいけないとか…そういうのがたくさんあって、伸ばすきっかけ逃しちゃって」
出来るなら、背中にかかるほどのロングヘアを体験してみたいと思ったりした。天真の妹の蘭のように、さらりとした黒髪が艶やかに背中に流れ落ちたら…少しは女らしく見えるかと考えた。

だが、京で生きていくとなると…その長さの価値観も今までのとは全く違ってしまう。
「でもこっちの女の人って…すごく髪の毛長いですよね。お手入れ大変そう……」
「女性の方は、髪の長さと艶やかさが美しさのひとつでもありますから」
十歳の藤姫でさえ、床を隠すほどの黒髪。それに加えて重い十二単。一体どれほどの重さを身体にまとっているのかと考えたら、気が遠くなる。

「私なんて全然ダメだぁ。とてもあんな長さまで伸ばす根気もないですよ…もちろん、似合うかどうかは別ですけど…」
幼い藤姫にさえ気品ではかなわない。それでもしばらく立てば…京の娘らしく、少しは雅やかな雰囲気が漂うようになるだろうか。
あれこれと色々なことを一度に考えていると、濡れた髪をいつものように結い上げた頼久が、あかねを見下ろして微笑んでいた。

「そんなことはございません。神子殿は今のままで…………」

今のままで。
そう、今のままで充分だ。
桜の蕾がほころび出す頃の、甘い春風の香りに似た彼女の髪が揺れるのを見ていると、花吹雪の中に佇んでいるような気がして、そこから離れたくなくなる。

「神子殿は…今のままでよろしいと思います」

「……似合ってます?」
「…はい。私はそう思います。」
頼久がそう答えると、あかねは少しホッとしたような顔で笑った。
「良かった。頼久さんがそう言ってくれるんだったらいいや」

"頼久がそう思ってくれているのなら"。それはあかねの本心でもあった。
誰だって……想いを寄せている相手に『似合う』と言ってもらえればそれで充分なのだ。
そんなつもりで答えたのだが、頼久がそんな裏の心理状態まで読みとれるはずがなく。

「いえ…私の価値観など武士の無骨なものですから、さほど宛には出来ぬと思うのですが」
らしいといえばらしい。だけど、少しくらいは感づいてくれると良いのだが。
「………頼久さんて、すごく強いし頼りになるのに…肝心なところがちょっと鈍いですよ」
「鈍い……ですか?」
「そうです。そういうところは、もう少し敏感になってもらいたいものだなーって、ちょっと思ったりしますよ。」
「はぁ………」

本当に気付いているんだろうか。ちらっと頼久の方を振り返って見る。
一番神経を鋭くして欲しいのは………気持ちを察すること。

どうして京に残ったのか。

あなたの声が聞こえたから、立ち止まった。あなたが私の名前を呼んでくれたから。
私の心が、あなたの名前を呼んでいたから。

少しでも近くにいたくて。あなたを見つめていられるところに生きていたくて。
だからこうしてここにいるのを、あなたに気付いて欲しいのだけれど……それは一体いつになるのやら?。

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Megumi,Ka

suga