夜露の想い

 001
桜が散り、咲き乱れる藤の花が屋敷を包み込む時期になると、太陽が昇る時刻も早くなる。
闇に包まれる時刻が遅くなり、光の当たる時間が長くなるのは有り難いのだが、だからと言ってこれまでやって来たことが変わるわけでもない。

あかねは、永泉のいる仁和寺にやって来ていた。以前、精神統一のためにと彼に写経を勧められたためだ。
しかし、それら一式を借りたとはいえど、自慢ではないがあまり字が上手いわけでもなく、小学校で何年か書道塾に通った程度のあかねであっては、とても写経などという鮮やかな筆遣いは無理である。
「お役に立ちましたでしょうか…」
「あ、ええ、何だか気分が清らかになりました!」
「それは良かったです」
まさか、五〜六行程度で断念したとは言えない。
本殿の入口で、頼久はあかねが戻ってくるのを待っていた。
今年は梅雨入りが早かった。しかし本日は梅雨の晴れ間で青空が広がっている。
ほのかに肌に触れた風も暖かく、心地よい空気とはこんな一日のことを言うのだろうと感じた。
丹念に刈り取られた木々たちの緑も鮮やかで、眺めていると心が落ち着きを覚える。
あかねはまだ戻ってこないだろうか?


■■■


寺の掃除をしていた修行僧たちに頭を下げながら、あかねは本殿を出た。思った以上に時間を費やしてしまった。永泉にもてなされた茶の香りに、すっかり気を取られてしまったせいだ。
「時間かかるくらいなら、頼久さんにも一緒に中に入ってもらえば良かったなぁ…」
おそらく彼は、あかねが何時間も待たせたとしても文句は言わないだろう。どんな時でも、あかねに逆らうことはないだろう。彼はそんな男だ。
が、彼が気にしなくても、こっちは気にする。
それは------まあ、あかねの中に、そういう心が少し芽生え始めているせいだ。彼女はそれには気づいてはいないけれど。

足早に頼久の待つ場所へ向かう。わずか1秒でも縮めたい。そんなに遠い距離ではないのに、たどり着いた時には少し汗ばんでいた。
「頼久さん、遅くなってごめんな…………っ……」
風に揺れる木の葉が、かすかに音を立てている。日差しが傾き、薄い影を落とす木にもたれて頼久は目を閉じていた。
あかねは足音を忍ばせて、そっと近付いてみる。
首をうなだれ、腕を組んだままで彼は動かない。そして、小さな寝息だけが聞こえる。

…もしかして、眠っちゃったの…?

もしかして、じゃなくても間違いない。普段なら誰であろうと、自分の近くにある気配にはすぐに気づく頼久が、ここまであかねが近寄っても身動き一つしないのだから。

それにしても…どうしようか。用件は完全に終わってしまったし、そろそろ屋敷に帰らなくてはならない。というのは、今日は藤姫と貝あわせの約束をしているのだ。
だが……頼久を起こすことが、どうしても出来ない。
いつも気を固めている頼久の、わずかな安らぎの時間に違いないと思えば思うほど、声をかけることも肩を揺することも出来ない。
だからと言って、一人で帰るわけにもいかないし………。
眠る頼久のそばで、あかねは頭を抱え込んだ。



■■■




ガサガサ……。草むらの中で、何かが動いている。全身の神経が目を覚まし、頼久は思い切り目を開けた。
が、そこにいたのは--------。

「神、神子殿っ!?」
慌てて頼久は身体を退けた。鼻の先と先が、もう少しで触れあうほどの距離で、彼女の瞳が輝いていた。
「あ、ご、ごめんなさい…★びっくりしたっ?!」
彼女の手には、濡れた布が握られてあった。
「ど、どうかなさったんですかっ!?」
妙に心音が早くなる。
「あの…帰ってきたら頼久さん、お昼寝してたみたいだから…なんだか起こすのが申し訳なくなっちゃって…。だからどうしようかなぁって考えて…お水を一滴ほっぺたに落とせば、雨だと思って気づいてくれるかなーって★」
ここでようやく頼久は、自分があかねを待つ間にうたた寝をしてしまっていた失態に気づいた。
「も、申し訳ありません…神子殿をお護りするためにお供させて頂きましたのに、つい居眠りなどを……」
多分彼の性格からして、真剣に自分の失態を恥じているのだろうな、とあかねは思った。そんなに気にするほどのことでもないのに。居眠りくらい、現代は授業中でさえ日常茶飯事に行われているのだから。
しかも、彼の性格なら疲労は半端じゃないだろう。たまにはゆっくり眠りたいこともあるのだろうに。
「そんなに謝らないでよ…★別に頼久さん、何も悪いことなんてしてないでしょ。あたしが待たせすぎちゃったのも原因なんだから、気にしないで」
「しかし…その間に神子殿に鬼が近寄って来たとしたら……」
「そうしたら、遠慮なく起こすから平気だよ〜。だから普通はのんびりしてて」
「申し訳有りません…」
照れくさそうに、頼久は笑った。



■■■




十二単の少女と蝋燭の灯り、几帳の影と香炉からの甘い香り。
平安絵巻の一部を見ているような、そんな夕暮れ。

「頼久がうたた寝をするなんて、私は初めて聞きましたわ」
あかねの話を聞いて、少し驚いたように幼い表情を藤姫が浮かべた。
「きっと疲れてるんだよね、頼久さん。だからうたた寝なんかしちゃったんだよ、きっと」
「そうですわね…頼久は人一倍生真面目ですから…夜も殆ど眠ってはいないのでしょう」
藤姫は、自分と同じような姫君の姿の描かれた貝を、二つ合わせて拾った。

「眠ってない…って、どうして!?」
オレンジ色の灯りを挟んで、あかねは藤姫の顔を見た。
「頼久は朝まで、ずっと神子様のお部屋に面した庭先で警護をしておりますわ。いつ、何が起こるか分かりませんもの。」
「一晩中!?じゃあ、いつ寝てるの!?」
「さあ…。ですが、おそらく食事の時間などに仮眠を取っているのではないでしょうか?」

不思議なほどに、藤姫はあっけらかんと説明をした。が、少しあかねの方は気が揺らいでいる。
「誰かと交替で…ってことは出来ないの?」
現代だって警備員はいるが、まさか毎日毎日同じ人間がやっているわけではない。何日か置きに早番遅番での交替をしながら勤務を続けるのが普通だ。
が、それは京では通用しなかったらしい。
「それでも良いと言ったのですけど…頼久が言ったのですわ。神子様の身辺の警護は、常に自分が…と。」
一つ一つ貝の絵柄を合わせながら、藤姫は思い出しながら話を続けた。
「頼久が熱心にそう言うものですから、私どもも断りきれなくなりましたの。大変な任務だと思いますわ。ですけど…神子様、頼久は本当に神子様を大切に思ってくださっているのですわね。普通で出来ることではありませんわ」

こうして藤姫と時間を過ごしている時も、夜の闇が町を包み込んでも、頼久はどこかで自分のことを護ってくれている。わずかな油断も許さずに、自分のために、そこにいてくれる。
あかねの胸の奥で、大きな花が開き始めた。



■■■




今日も天気は良くなりそうだ。うっすらと空が明るくなってきた。
時間はまだ、早いとは言えないほど早すぎる時間だろうが、太陽はもう少しで顔を出そうとしている。

眠くないといえば、それは明らかに嘘になる。気を緩めずにいるのは、結構な疲労を生み出す。
頼久は木刀を握り、軽く宙を切ってみた。剣の朝稽古と言えば間違いは無いけれど、眠気覚ましという意味も少しは含んでいる。
そう遠くない未来に鬼との戦いが終幕を迎えたら、八葉の任務は終わり、そして神子の存在は消える。
こうして一晩中、気を張っていることもなくなるだろう。
でも…それを思うと、ホッとするよりも先に、どこか心寂しくなるのは何故だろう。
カタン、と蔀を開ける音がした。

「おはよ…頼久さん…」
ぼんやりした顔で、あかねが顔を出してきた。
「神子殿…!こんな時間に、どうなされたんですか…何か気分でも悪いのでは!?」
慌てて頼久は木刀をその場に投げ捨て、あかねのそばに走り寄った。
「ううん、そんなんじゃないよ……でも………やっぱり眠いよ〜〜☆」
大きなあくびをして、思い切り身体を伸ばしてみても、やはりまぶたは重くて仕方がない。
「頼久さん…ずっと毎晩眠らないで私の周りの警護してくれてたんでしょ…?だから、どんなに大変なんだろうと思って…一晩中起きてたんだけど……………」
今すぐにでも、ぱったりと眠ってしまいそうなほどに、ぼーっとしてあかねの視点は定まらない。
寝転がってしまわないように、思わず頼久は手をあかねの細い肩に掛けた。

「何故にそのような無茶をなさるんです!神子殿のお体にもしものことがあったら…!」
「そんなのお互い様だよ…頼久さんだって、疲れてるのは同じでしょう…?」
雀のさえずりが聞こえ始めて、本格的な朝が近付いてくる。しかし、眠気は全く覚めない。
「たまにはお昼寝でもした方がいいよ…仮眠なんて、ちょっとしたことじゃなくって、少し長くのんびり横になった方が良いよ…」
「そんなことはしなくても、私は……」
言い訳をしようしたとき、あかねは両手でがしっと頼久の肩を掴んで顔を近づけた。
「身体は大切にしなくちゃダメ!寝るときは寝なくちゃダメ!これは命令!」
真っ直ぐに思い切り、眠気を我慢してあかねは目を開いた。
「そんなんじゃ頼久さんのことが心配で…私まで眠れなくなっちゃうよ…」
そう言ったそばから、あかねが頼久の腕の中に飛び込んできた。…いや、転がってきたという言い方の方が正しいのかも知れない。

「神子殿…っ!?」
「…無理しないで。……頼久さんが寝てる間……代わりに私が見張りしてあげる…から…」
とぎれとぎれに言葉をつなぎながら、あかねの声が寝息に変わった。
腕の中に、暖かいぬくもりがある。少しずつあかねの寝息が、頼久の鼓動と同一化して行く。

「神子殿…あなたのためならば-----------」
あかねが気づかない程度の強さで、そっと抱きしめてみた。
そのぬくもりは、朝の香りよりも清々しく、そして暖かかった。



■■■




「よっ、頼久ーっ!!! てめぇ何やってんだぁっ!!!」
天真の叫び声が至近距離で聞こえて、頼久は慌てて我に返った。気づくと外は、すっかり太陽が真上にまで昇ろうとしている。つい、眠ってしまったらしかった。やはり、一晩中の警護の疲れは頂点にまで来ているらしい。
が、どうやらこの状態は大問題に発展しようとしてる。

「てめぇ、クソ真面目な面してると思ったら…結構やるじゃねーかよっ!!」
「………天…真、おまえまさか……」
そう、まさか、らしい。
吹きっさらしとはいえ、廊下に横になっている二人。しかもあかねは寝間着姿のままで。ただでさえ猪突猛進型の天真であるから、完全に誤解しているに違いない。
「待て!私はおまえが考えているようなことは……ッ!!」
しかし否定すれば否定するだけ頼久の顔が赤く染まって行くために、天真たちの誤解を解くことが出来なくなる。

「ッたく…どーすんだ、俺はあっちに帰ったら、こいつのおばさんやおじさんに何て言やぁ良いんだっ!?いきなり消えて、まさかこんな武士と出来あがっちまって……ああもう、パニックだぜっ★」
幼なじみの天真とあかね。彼の妹のランとあかねが同い年であることと、お互いの家族の仲の良さも手伝って、天真は殆どあかねの保護者同然の立場になってしまっている。
「ちょっと待て!天真っ!私の話を……!」
「あー、どーすんだろなぁ…★嫁に行くからこのままここに残るなんて言い出したら、それこそ説明するのに大変だぜ、俺は〜っ★」
「ばっ、馬鹿なことを………!!」
真っ赤になって頼久は天真に食ってかかろうとしたが、今度は藤姫が騒ぎを聞きつけてやって来た。

「もしかして、そうなると神子様はここに残って下さるのかしら?」
藤姫は侍女を呼び、あかねの床の用意を再度整えさせた。
「それならば、藤はとても嬉しいですわ…。頼久もそのような歳ですし、神子様がお相手ならばずっと藤もこれからおそばにいることが出来ますわ。」
「ま、待って下さい!私は……」
「あら、頼久、顔が真っ赤ですわ。でも、とにかくこの戦いが落ち着いてから、婚儀については話し合いましょう。もう少しお待ち下さいな」
「いや、あの………」
ぽん、と天真が肩を叩いた。
「まあ……あっちの親御さんの説得は何とかするから…」
頼久が大混乱に陥っている最中だと言うのに、あかねは横になったままでぐっすり眠っていた。

そのとき、あかねが見ていた夢は…………幸せそうな寝顔を見れば想像できるだろう。





-----THE END-----



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