月草幻想

 001
言葉を失う美しさがどんなものなのか、この世界にやってきて初めて分かった。
季節ごとに色を変える山並みの姿や、広大な青く澄んだ空の色をじっと眺めるなんて余裕などなかった気がする。
この世界で知ったたくさんのこと、たくさんの人たち。
別世界で生きていた者同士が巡り会う偶然という悪戯の結果のあとに、私はここにいる。
そして、何よりも美しいものに出会った。


■■■

ふわりと部屋の中に漂う檸檬色の小さな光。満月の色を薄めたような優しい光が、薄暗い部屋の中に浮かんでいる。
「ひ、ひとだまっ!?」
床の上に横たわっていたあかねは、その光が目の前に近づいてきたとたんに慌てて起きあがった。
ふわふわと心地よさそうに、その光はあかねの周りを飛び回る。しばらくその光を見ていて気が付いた。
「な、なんだ…ホタルじゃない…びっくりした★」
確かに冷静になってみると、ひとだまにしては色も穏やかだし怖さも感じない。まあ、ひとだま自体を見たことなどあかねはないので、はっきり分析は出来ないのだけれど。
「良かった。ホタルなら外に追い出さなくても良いよね。」
ホッとして再びあかねは横になり、床に入って眠りにつこうとして目を閉じた。
その時だった。

『あかね』

響くような声が耳に響いて、もう一度あかねは飛び起きた。間違いなく今の声は、泰明の声だった。
「や、泰明さんっ!?」
辺りを見渡してみる。人の気配はない。目の前に浮いているのは、小さなホタルだけ。
「もしかして……」
あかねはホタルに手を伸ばした。と、小さな光がこちらに近づいてくる。広げた手のひらの中に、そっとその光が入り込んできた。
『気づいたか。』
「なんとなくですけど。だって泰明さんの気配も何も感じないし、なのに声がすぐ近くで聞こえた気がしたから…。そうなったら、このホタルが一番それらしいもの」
『おまえもなかなか機転が早くなった』
「そーいう泰明さんの言い方にも慣れました」
『そうか』
暖かい色合いのホタルに話しかけながら、泰明の声が響いてくるたびにあかねの顔に笑みが浮かぶ。
これまでに何度、こうして泰明の気配を感じただろう。同じ場所にいなくとも、彼はあかねのそばにいつもいる。形を変えながらも、そこには確かに泰明がいた。それを思うと胸が暖かくなった。
「それで、泰明さん、今日はどうしたんですか?もう夜も更けてますよ」
ホタルの光が明るいと感じるくらいの闇が、辺りを包み込むような時間だ。決して宵の口と言える時間ではないだろう。
『今から、出てこられるか』
「…は?こんな夜中にですか?」
『そうだ。』
突然何を言い出すのかと思ったら、こんな夜更けに外出の誘いだとは思わなかった。
『屋敷の外で待っている。用意が済んだらすぐにやって来い』
「え?ちょっと泰明さ………」
もっと細かいことを尋ねようとしたが、手の中に浮かんでいたホタルはするりと浮き上がって、あかねのそばから離れていってしまった。

■■■

それにしてもこんな夜に、一人で屋敷を抜け出すということは結構至難の業なのだ。それを知っていて泰明は誘いをかけたのだろうか。頼久の目を盗んで門の外に出るのには、一寸の気も緩められない。
どうにかこうにか隙をねらって裏口から通りに抜け出した。が、泰明が屋敷の外のどこで待っているのかまで聞いていなかったので、暗い夜道にあかねは一人たたずむことになってしまった。
「あ〜…ちゃんとどこにいるか聞いておけば良かったよ★だからってそこらへんうろついて、すれ違ったらどうにもなんないし…」
鬼の呪縛から解放されたあとの京は、比較的夜でも落ち着きを取り戻してきているのだが、それでもやはり異様な雰囲気は感じないこともない。ふりむいたそこに、百鬼夜行が迫ってきていても不思議ではない。
その時、背後から肩を掴まれた。思わず声を上げそうになったが、夜風にまぎれて漂った香の香りに気づいて、すぐに後ろを振り向いた。
「や、泰明さんっ!」
「何だ」
驚いて振り返ったあかねとは対照的に、相変わらず泰明の表情は乱れのひとつも現れていない。そりゃあ何せ彼には稀代の陰陽師の力が携わっているのであるから、ここで怨霊や鬼に出会ってもたしなめるくらい容易いだろうが。
とりあえず落ち着いて、泰明の顔を見た。
「…で、どうしたんですか?こんな時間に呼び出すなんて理由があってのことなんでしょ?」
あかねは気を取り直して、そう尋ねた。しかし泰明は何も言わずに背を向けて、どこかへ向かって歩き出した。慌ててあかねもその後を着いて行く。
「ちょっと泰明さんっ!どこに行くのっ!?」
すたすたと足早のリズムで前を歩く泰明に声を掛ける。
「着いてくれば分かる。」
泰明は答えた。あかねはそれ以上問いかける気にはならなかった。
二人の頭上に、月が輝いている。

■■■

「疲れたか」
『あたりまえだ』と言いたいが呼吸が整わない。何せ洛中から延々夜の山道を上り詰めてきたのだ。しかもついさっきまであかねは床に入っていたのであるから、体がしっかり目覚めていないせいもある。大きめの岩にもたれるように体の重心を預けて、あかねは何度も深呼吸を続けた。
夜の香りがあるとしたら、こんな感じだろうか。ひんやりとした空気、そして澄んだ気が呼吸をするたびに体の中に流れ込んでくるのが分かった。
「無茶なことをさせたのならば、謝る」
ぽつり、と泰明の声がした。顔を上げると、京の町を遠い目で見下ろす泰明がそこにいた。
「あ、別にそんなわけじゃないんですけど…」
あかねの否定した声に、泰明は少しだけほっとした安堵感を帯びた表情を造った。

こういう風に、彼が感情を表面に表すようになってからどれくらい経つのか。出会ったときは微塵も揺るぎ無い、氷の彫刻のように体温も感じられない表情しかしなかった彼が、今ではあかねの言葉ひとつで自分の感情を操ることが出来るようになった。
ふと改めて見ると泰明の表情は無邪気で、子供のようにあどけなかったり。そんな発見をするたびに、なぜかあかねは嬉しくなる。
「月、綺麗だね」
空を見上げた。満天の星は、月の輝きによって姿をくらましているらしい。それほどに今夜の月は明るい。
「月を見せるためにおまえをここに連れてきたわけではない。後ろを振り返って、東の山並みを見ろ」
すっと泰明の指先が、東山の方向を指した。それに沿って視線を動かす。

「うわあ!」
思わずあかねは自然に声が出た。
そこの山並みは色とりどりの紅葉で埋め尽くされていた。オレンジ色、紅色、黄金色、そして深い緑色など。まるで絵の具を何色もパレットに絞り出して混ぜてしまったような感じだが、その一つ一つが個々の色を引き立たせるように山を染めていた。
「こちら側の山から、丁度紅葉の山面が望める。今年は夏季がやや涼しかったからだろう、通年よりも彩りが鮮やかになっている。」
泰明が簡単に説明をしたが、あかねは何も声が出てこなかった。言葉を失う美しさというものを、初めて目の当たりにした。
満月に近い明るい月の明かりが、夜目にも鮮やかに山の紅葉を照らし出す。幻想的な自然の美しさ。近代科学に埋め尽くされた現代では、こんな景色は見られなかったかもしれない。

「すごいねぇ、自然ってこんなに綺麗だったんだ」
あかねのその一言は、本心からこぼれだした言葉だった。
「気に入ったか?」
泰明が尋ねた。あかねは黙って何度も首を縦に振った。
「おまえが気に入ったのなら、それで十分だ」
秋色に染め上げられた山並みに目を奪われているあかねの背中に向けて、小さくつぶやくように泰明が言った。
ふと、冷たさを感じる夜風が吹き流れる。お互いの髪が風に揺れた。あかねは振り返った。
「もしかして泰明さん、私にこれを見せるためにここに連れてきたの?」
「それ以外に何の意味がある?」
「だって、こんな夜更けに誘いに来るなんて、一体どうしたのかと思ってたから…」
長い泰明の髪が、夜風に揺れる。さらさらと音を立てるような、そんな錯覚が目の前に広がった。
「以前お師匠の仕事の手伝いで、この山で三日ほど過ごしたことがある。まさに今のように気候の澄んだ夜で、月が輝いていた。そのとき、この景色を初めて見た。お師匠は美しい景色だと言ったが、私にはその美しいという意味が分からなかった。」
足下に枯れ葉が舞い踊っている。あかねはそっと、泰明のそばへ近づいた。
「しかし、今の私には美しいという意味が理解できる。だから、おまえにもこの景色を見せたかった。」
そう話しながら泰明は目をあかねの方へ下ろしはしなかったが、このままで良いと思った。こうして黙って、そばで泰明の話に耳を傾けていたかった。
「おそらくこの二〜三日以内に雨が降るだろうとお師匠は言う。そうすればこの紅葉も終わり、山は冬支度を始めるだろう。その残された日の中で、天気の良い満月に近い夜は今夜しかないだろうと考えた。だからおまえが眠っているにも関わらず、ここまで連れ出してしまったのだ」

冷え込みが日々を追うごとに深くなってきている。泰明の言うとおりに、冬はもうすぐそこまでやってきているのかもしれない。今夜の風も決して暖かいものではない。
なのに、ここだけ暖かく感じるのは何故だろう。二人の空間だけが外の世界から隔離されたように、ふんわりと穏やかで心地よいぬくもりを思わせる。
分かってる。その意味が。泰明がそこにいるからだ、ということが。
「私が美しいと思ったものを、おまえにも見せたかった。迷惑だっただろうか?」
あかねは両腕をのばして、泰明の背中をそっと後ろから優しく抱きしめた。そして耳を当てる。心音が聞こえる。
生きている証の音が、とくとくと響いてくる。
「そんなことないよ…。嬉しいよ、とっても。」
「……ならば良い。」
自分の身体に回したあかねの手に、泰明がそっと触れた。
「でも、別に今年見逃したって来年があるんだから」
くすくすと小さく笑い声を忍ばせながら、あかねが言った。
「…そうだったな。おまえは…来年もこの京にいるのだな…」
「そうだよ。ずっとここで生きていくんだから。今年見逃したって、来年ちゃんと見られるよ」

そう誓った。最後の日、泰明のそばで生きていくことを選んだ。
この世界で、何も分からない世界で生きていくことを選んだというのに、今は何一つとまどいなどは感じない。
これから続く長い長い日々の中で、すぐそばに泰明のぬくもりがあって、こうして何気ない季節の一部を愛でる時間を共に過ごしながら、どんな絵巻が作り上げられて行くんだろう。

「美しいという感情を知ったのは…おまえの瞳を見たときだ」
耳に響く鼓動を聞きながら、泰明のつぶやきを耳にした。
「おまえと会わなかったら、私は美しいという感情は永遠に知らなかったかもしれない」
ぎゅっと、強く泰明があかねの手を握りしめた。
「おまえに出会えて良かったと、心からそう思う」
そう言って、少し首を動かした。かすかに泰明が振り返る。そしてあかねの顔を覗き込んだ。
優しい表情が、そこにある。二人だけのこの時の中で、澄んだ瞳があかねを見つめた。
この世界で出会った人。そして見つけた、大切な人。

「泰明さんの瞳も、私、綺麗だと思うよ」
あかねはそう言って、泰明にもたれた。

月が輝く夜。四季が変わり行く中で、二人の物語はこれからも続いていくのだろう。
時が止まるまで、果てしなく。





-----THE END-----



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