きっと熱いくちびる

 001
『おまえを愛している』
いつのまにか、そんな言葉が口から飛び出してきた。『愛する』なんて意味も感情も味わったことなどないのに、彼女を目の前にして、自然に口が動いた。
不思議なくらいに……。



■■■


その日の夜、急に晴明の部屋に泰明が訪ねてきた。
「お師匠、お聞きしたいことがあります」
やたらにかしこまって、泰明は師匠である晴明のそばへ腰を下ろした。
こういう時、何か泰明はとんでもないことを頭の中で考えているに違いない。生みの親である晴明であるので、さすがに彼の身動きの変化も読めるようになってきた。
「なんだ?答えられるものであれば、なんなりと教えてやろう。」
庭の奥からは、虫の声がする。もうすぐ秋風が吹く頃だ。
「『キス』とは何でしょうか?」
「………『キス』?」
泰明は、真顔だ。しかし、晴明の方も真顔である。そして、首をかしげる。
「……『キス』………何やら軽い口当たりのする言葉だが…わしも聞いたことはないのう…」
師匠に答えを貰えないものであるのなら、とうてい泰明が分かるはずもない。やっと人間の感情を読むことが出来るようになった程度の彼には、まだ知らないことが多すぎる。
まあ、確かにこの平安の都の時代に、『キス』という言葉を言っても理解出来る者などはいないあろう。『口づけ』や『接吻』と言えば通じるかもしれないが……。



鬼との決着がついたあと、あかねや天真、詩紋たちは揃って京に残ることを決意した。
天真は、蘭がこの地に残ると言い出したのでやむなく、という感じだったが、詩紋はどうやらこの地に染みついた鬼への嫌悪感を、彼らに似た身を持つ自分の姿を逆に利用して、彼らへの差別感を取り除こうという意志があったらしい。
そして、あかねがこの地に残ったのは………泰明がいたからだ。

現代へ戻る前日、彼に呼び出されて話をした。
その時、彼から出た言葉を聞いてしまってから………あかねはここから離れられなくなった。
泰明の告げた言葉……『おまえを愛している』。
その言葉を聞いてしまった以上、あかねはここから離れられない。
その言葉を受け止める用意を、ずっと待っていたのだから。


あれから時は緩やかに過ぎて行き、少しずつ木々の色が琥珀に近い色へと染まって行く。暑さはまだ残っているにしても、涼やかな風の肌触りは毎日を過ごしやすくさせた。
秋は京を一段と美しく彩る。昔、教科書で見たことのある艶やかな平安絵巻さながらの風景が、当たり前のようにそこにあることが、不思議でもあり、そして自然に感じられるようにもなってきた。
平穏を取り戻した京では、あかねが一人歩きをしてもたいした問題はおきない。
とは言っても、大概は天真か詩紋と出掛けることが多いため、一人で街を歩くことは殆どないと言って良いほど少ないのだが、泰明との待ち合わせの場所にまで付き添いをつけて行くわけにも行かない。
勿論、そんな時には一人で出て行く。何となく二人の関係も周知の事実になっているようで、世話になっている藤姫も、頼久や天真たちも口を出さずに見送ってくれていた。
二人で出掛けると言っても、まあ何をするかと言えば…そんな色気のある時間を過ごすことがあるわけでもない。何せ相手が泰明であるから、彼の陰陽道にまつわる話や、山に上がって自然に触れたりするくらいのことだ。
物足りなくないのか?と茶化す者もいるのだけれど、そんな事は関係はなかった。
あかねにとって、泰明のそばにいられることが一番楽しい時間なのだから。

そんな風に、毎日を楽しんでいるあかねとは正反対に、泰明の方はずっと書物を読みふけっていた。晴明から借りた、ありとあらゆる文献をかたっぱしから読んでみる。
しかし、全く見つからない。
「一体なんなのだ…?『キス』とは」
頭を抱えている泰明の横で、蝋燭の灯りは燃え続けている。




さて、泰明が何故そんな言葉を口にしたのか、というと…実はこんな背景があったからだ。

ある時、泰明はあかねを屋敷まで迎えに来た。まだ彼女は支度が終わっていなかったらしく、しばらく庭で待つことにしたのだが、その時に天真と会った。

「なあ泰明、おまえさ、あかねとどこらへんまで進展してんだよ?」
「…何がだ?」
「あ?何がってほら…なぁ、おまえとあかねって、そういう付き合いなんだろ?」
泰明は黙ったまま、天真の顔を見る。
こういう時は…たいてい現状に理解が出来ていないということなのだ。
「だから!おまえ、あかねのことが好きなんだろう!?」
「…好きだが」
「だ、だから…さぁ、その…なんだ…ほら、キスくらいはしたのか?」
天真も何となく照れくさくなって、泰明に背を向けた。
しかし、相変わらず何の反応もない。そして、ちらっと顔を振り向かせる。無感情の整った顔が、こちらをじっと見ている。
「『キス』とは、何なんだ」
「はぁ?キ、キスって言やぁ…あの…好き合った男と女がすることだよ」
と、説明しても無反応。言葉の意味を理解していないのだから、当然なのだが天真の方はそれに気づいていない。
「好きな者同士が、しなければならないことなのか?」
「ま、まあ…そうだよ。何ていうか、恋愛の第一段階ってことだ。まずはそこから始まるってことだ…」
ぱしゃん、と池の魚が音を立てて跳ねた。ゆっくりとしたかすかな風が吹いている。
「…私とあかねも、その『キス』とやらをしなくてはならないのか」
真剣な面もちで、泰明は尋ねる。天真は困った。
自分から言い出したこととは言えど、さあ何て答えればいいのか?

不味かった。
泰明はまだ赤ん坊と同じくらいに知識については浅いのだ。例え陰陽道や天地の理などの知識に長けていたとしても、人間的な感情や行動の意味については、まだまだなのだ。
しかし、ここで気づいても後の祭りである。興味津々な泰明を前にして、どう答えを出せばいいのか…。天真は頭を抱えた。
その時、ガラッと音を立てて蔀が開いた。
「ごめんね泰明さん、遅くなっちゃって」
あかねの声に、びくっとしたのは…泰明ではなく天真の方だ。
「あれ?天真くんとお話なんかしてたんだ?珍しいねー」
こっちの状況など知らないあかねは、二人の間に入ってくる。しかし天真は気が気ではない。こんなことを言ったのを知られたら、きっとあかねのげんこつくらい飛んでくる。
「ねえ、何を話してたの?」
泰明の顔を覗き込んで、あかねが聞く。そして泰明が口を開こうとした、その時。
「待ったーっ!!泰明、あかねに聞く前に、おまえの師匠に尋ねてからにしろ!!」
「…お師匠にか」
「そ、そうだ。俺みたいな若輩モンの言うことより、あの師匠に聞いた方が間違いないだろ!」
「………分かった」


---------------と、まあ、そんなことがあったわけなのである。
***********

Megumi,Ka

suga