巷に花の咲く如く

 001
「泰明…おまえ、一体何があったというのだ?最近妙だぞ」
師匠である晴明の声が、香炉から漂う白煙の向こうで聞こえる。香は菊花。

「別に…何も」
「そういう顔ではないだろうに。私には動揺しているように見えるぞ」
「動揺などしておりません。常日頃からお師匠が言われる通りに、常に平常心を私は心がけているつもりです」
「……ふむ」
ちらりと視線を流して目に捕らえる泰明の表情は、一見普段通りの完璧に整った顔つきである。
が、その裏側にある感情を読み切れないほど、晴明の気力は低くない。
「まぁ、おまえがそう言うのなら構わぬのだろうが。どうにもならなくなったら、私に相談でもしてくれれば助言くらいはしてやれるぞ」
どうも腑に落ちない、引っかかる言葉を残したままで、晴明は自分の部屋へと戻っていった。





動揺とは、一体どんな状態を言うのだろう。
言葉では説明できたとしても、何せ泰明は自分でそんな状況を経験したことがない。
つまり、動揺していたとしても、それが動揺しているのか分からないのだ。

ただ、夕暮れになると動悸がする。
それは毎日のことで、おそらく今日も同じ状態に陥るだろう。
そしてその瞬間がやってきたとき。これまた不思議な感じがする。
動悸が早まるのに悪い気分は全くなく、その状況に酔っているような錯覚も無きにしもあらず。
夕日が沈み始める。月の明かりが京を照らし始める。
そろそろやってくる。


「こんばんわ、泰明さん」
ぼんやりと灯った明かりの元で書を読み始めると、彼女は決まってやってくる。
かさかさと草をかき分ける足音。声に導かれて泰明は立ち上がり、障子をそっと開ける。そして彼女の姿を確認する。

「神子…何故毎晩おまえは私のところに来るのだ。何か話があるのではないのか」
泰明は動悸を抑えようとした。
が、あいにくと彼は人間の感情をコントロールする術を知らない。
その変化に気づいていながらも、あかねはにっこりと笑顔を携えて泰明のそばに近寄った。

「泰明さんに逢いたいからに決まってるでしょう?それだけじゃダメなの?」
「逢ってどうする」
「そんな野暮なこと言わないでよ…ほら、こんなにお月さまが綺麗な夜なのに、お部屋にいるなんてつまらないでしょ?」
「…だから、何をするのだ」
泰明が出来る限りで、平常通りの垂直なトーンの声で話をすると、あかねは笑ってみせる。
月明かりの中で微笑むあかねの笑みは、普段見たことのない妖艶さを醸し出していた。
少女だったはずの無邪気な笑顔はそこにはない。月光がよく似合う、大人びた笑顔。
白い指先が伸びる。そして泰明の頬を包む。近寄る瞳で見つめられる。

「それとも…朝まで、泰明さんのお部屋で過ごしてもかまわない?」
身震いがするほど、その澄んだ瞳はきらりと輝いていて、その光で全身を麻痺させることだって出来そうな気がする。あかねのようで、あかねじゃない。でも、間違いなくぬくもりは彼女のものと変わりなく…。

「龍神の神子という立場の者が、こんなことをして良いとおまえは思うのか」
触れているあかねの指の感触を無に変えようとしながら、泰明は尋ねる。
「ふふふ。泰明さんて堅いよね…もっと目の前の時間を楽しむことを覚えなくちゃダメだよ」
夜風が吹き抜けて、庭の草を撫でて行く。
生ぬるい風。そして、生ぬるい、柔らかな感触。

「--------------------!?」

猫の目のように互い違いの色をした泰明の瞳が、満月のように大きく開いた。その泰明の瞳を、至近距離で映すのはあかねの瞳。
「龍神の神子は、たまには強引なんだよ。知ってた?」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。目の前で悪戯っぽく笑うあかねの存在も、今の泰明の頭の中にはない。
完全に全ての機能が止まってしまった。柔らかいものが、自分の唇に触れた瞬間に。

「残念だけど、今日はこれくらいで勘弁してあげる。このまま一気に進んじゃったら、泰明さんホントにお人形さんになって動かなくなっちゃいそうだもん」
「…………………」
言葉がまったく思い浮かばない。
呆然と、何かに魂の玉を吸い取られてしまったような状態の、あまりに無防備の泰明の姿を誰かが見たら、どんな風に思うだろう。多分、泰明の顔をした式神を操って、晴明が一仕事でも企てているのだろう、と思うかも知れない。
が、説明は不要だが、ここにいるのは泰明本人である。

「お楽しみは、また今度に取っておいてあげる」

最後に残したあかねの言葉が、数多の夜露に溶けては浮かんでくる。
一体何が起こったのか。あの暖かさは、この鼓動の響きはなんなのか。
夜の闇に隠れた謎は、思っているよりもかなり奥深い。
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Megumi,Ka

suga