夢の終わりに

 001
穏やかな日々が続いていた。
戦いのあと、鬼の呪縛から解けた京の町は、以前よりも一層活気づいていた。
そろそろ雨の季節。大地を潤す時期がやって来て、外に出る機会も減りつつある。

「良いではございませんか、神子様。これまで、神子様は本当に落ち着かれる暇もなく、頑張って下さったのですもの。しばらくはゆっくりと、お過ごしになって結構ですのよ?」
「ゆっくり出来るのは良いんだけど…やっぱりこれまで、あちこちを歩き回っていたでしょ。身体を動かさないと、なまっちゃいそうで。」
打ち付ける、静かな雨の雫が屋根から滴る。
あかねは簀子に出て、思い切りぐっと身体を延ばした。
軽く手足をストレッチするように、ぐるぐると動かす彼女の姿を、藤姫は静かに微笑みながら見つめていた。

あれから半月ほど過ぎただろうか。
数ヶ月、片時も離れずに戦ってきた彼らは、自分の暮らしていた場所へと戻り、これまで通りの暮らしを続けている。
だが、そのおかげであれ以来、彼らと顔を合わせることがめっきり減ってしまって。それが少し心細いな、なんて思ったりする。
それでも、この屋敷には天真と詩紋がいるから、退屈を極めるほどではない。
ただし、彼らもまた京の空気にすっかり馴染んで、いつのまにか交遊範囲を広げたらしい。
詩紋はイノリの隣人たちの手伝い、天真は町人たちの荷運びに力を貸したり…と、最近は屋敷にいる事は少なくなった。

あかねも京が落ち着いた今では、一人で町を歩くことも出来るようになった。
まだまだ道に迷うこともあるけれど、少しずつそれも頭と身体が覚えて来る。
どこの町の市に何が売っているか…なんてことも、結構分かる様になって来た。
そんな風に、この京が自分の中に浸透しつつあるせいで、元の世界に戻るきっかけが見つけられないまま、時間はどんどんと過ぎていく。
「では神子様、唐菓子を傍らに貝合わせでも致しませんか?」
「貝合わせか…。それもいいかなー。」
藤姫と二人で、のんびりと過ごす時間も好きだ。
これまで、緊張の糸を緩める余裕もなかったから、こうしてのどかな気分で向き合うのは楽しい。
心の底から慕ってくれているのが、彼女の表情で分かる。それもまた嬉しいのだ。
「それでは、ご用意してまいりますわね」
彼女はそう言って、一旦あかねの部屋から出て行った。

それにしても、降るなあ……。昨日から止まないよね。
でも、梅雨入りしてるんだから、しょうがないか。この雨がなくちゃ、作物だって育たないんだもんね。
ぽつん、ぽつん、と落ちる雨の雫の先には、小さな水たまり。
昼間でもこんな雨の日は、ちょっと薄暗い。

「神子様、ちょっとよろしいですか?」
さほど時間を置かず、藤姫が戻って来た。
「実は今しがた、友雅殿からお届けものがありましたの。神子様へ、とのことで」
…友雅さんから届け物?
それを聞いたとたん、あかねの心臓が一度だけ大きく震えた。
彼の名前を聞いただけで、鼓動が乱れる。……会える時も、会えない時も。
「と、友雅さんから…何が届いたの?」
「鏡台だと、使いの方が申しておりましたわ。」
鏡台というと、この部屋にもある鏡を吊るしたものだろうか。こじんまりとしたドレッサーみたいなものである。

荷物を持った侍女たちが、次々と部屋にやって来た。
金刺繍の艶やかな衣を紐解き、てきぱきと彼女たちは目の前で組み立てて行く。
漆塗りの脚には、細やかな金色の蒔絵。琥珀色の宝珠の他、鏡を設置するための枕や入帷なども、上質な衣を使用していて手抜きが一切ない、まさに逸品。
「これはまあ…何て綺麗なのでしょう!立派な鏡台でございますわね。」
部屋にある鏡台よりもしっかりして、いかにも上流階級の姫君が使用しような…そんな感じ。
これはもう、受け取る人選が違うんじゃないか?とあかねは慌てふためいた。

すると、藤姫はそれらに添えられていた、淡い桜色の文を侍女から受け取った。
友雅からの、達筆な文字が認められている。
「まあ神子様…こちらは主上から、神子様の功績を御讃え下さった意味を込めて、贈って頂いたものだそうですわ。」
「え!お、主上から…私に!?」
そんなたいそうなことを、何かやったっけ?と思い出しながら、あかねは文を藤姫から受け取った。
「神子様が、京をお救い下さるまでのご苦労を、主上が認めて下さったのですわ。何て光栄なことでしょう…」

鬼たちとの対峙は、決して楽なものではなかった。
傷ついたことも多かったし、辛かったこともかなりあった。
だが、その中で得たものも多く、大切な仲間との絆を深める事も出来て、その結果が今の平穏だ。
終わりよければ全て良し…その言葉を、深く実感する。
「主上にお言葉を頂いて、友雅殿が見立てて下さったのだそうですよ。やはり、神子様がお似合いになるものを、よく存じて下さっておりますわね。」
どきん、として反射的に藤姫の顔を見ると、彼女はにっこりと微笑んであかねを見つめた。

それとなく、自然に誰もが気付いていた。
八葉である彼と、神子である彼女の間に、他の者にはない強い絆がもう一つ芽生えていたことに。
主従関係なんてものじゃない。
その絆は繊細であり強固であり、そして……暖かい感触を醸し出すもの。
「これからは、こちらをお使いになった方が宜しいですわ。神子様が使われてるのを見れば、きっと友雅殿もお喜びになりますわよ。」
「…そ、そう、かな」
優しく見守る様に微笑む藤姫の瞳に、あかねは照れくさそうに鏡を覗いた。
透き通るように磨き上げられ、まるで清水の底を見ているかのように光り輝く。
十人並みの自分でも、こんな鏡に映せば少しはレベルアップして見えるかも?と期待したくなるくらいだ。

「どうぞごゆっくり鑑賞なさって下さいませ。後ほど、唐菓子をこちらにお持ち致しますわ。」
そう言って藤姫は、少し頬に紅を差したあかねを部屋に残し、その場を後にした。



鏡は古来から神聖なものであるから、普段はカバーを掛けておくものだと言われて、あかねもずっとそうやっていた。
だが、これまでは気にしていなかったけれど、この鏡だけは覆ってしまうのが勿体無い気がして、しばらくそのままにしておいた。
時折それを眺めては、顔を映してマッサージなんかしてみたり…と、気付けばずっと鏡の前に座ったままだ。
帝が自分の努力を認めてくれた、有り難い贈り物。
でも、あかねにとっては…彼が選んでくれたという意味がもっと強い。
「友雅さんが、選んでくれた…んだ。」
指先で、すうっと表面を撫でると、ひんやりして冷たかったが、胸の中はずっと小さな炎が消えずにいる。

彼もまたみんなと同じように、八葉の役目が終えたあとは、頻繁にやって来ることも少なくなった。
毎日左近衛府の任務と、帝の側近とも言えるような立場とで忙しいのだろう。
それでも……
「友雅さんが持って来てくれたら、もっと嬉しかったんだけどな…」
そんなの、子どものわがままみたいだよね、と独り言に対して自虐的に苦笑いを浮かべた。

もう、一週間以上会っていない。
忙しいのは分かってるけど、これまでずっと一緒にいたから…急にこうして会えない日が来ると、何だか妙に心細くなってしまう。
屋敷まで会いに行くのは、ちょっと気恥ずかしいし。それに、宿直も多い彼だから、出向いてもすれ違ってしまうかもしれない。
会いたくても、会えない日々が長くなるにつれて、胸が切なくて寂しくなって。
そのたびに………恋しているんだ、と自覚する。

せめて、そう…夢の中でも会えたなら。
夢の旅路でめぐり逢えたら、少しの間は一緒に過ごした気分になれるかな……。
そんなことを思いながら、あかねは床に着いた。
燭台の明かりは、彼女の寝息と共に小さくなり、その炎は鏡の中に反射して、彼女が夢の世界へと落ちる頃には部屋に闇が訪れる………はずだった。



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Megumi,Ka

suga