サクラ・フワリ

 001
山の向こうの空は、うっすらとぼやけている。

ごく薄い雲がかかっているようだ。
天気は悪くない。泉から湧き出る清水のような色の空が、天を彩っている。
風はわずかながら吹いているが、凍える寒さは感じられない。
「池に泳ぐ魚達も、そうじっと姫君に見つめられていては、いささか心躍ってしまって、気楽に泳いではいられないのではないかな?」
背後に人の影を感じて、振り向くとそこには友雅が立っていた。
「それとも、神子殿には何か思う事がおありなのだろうか。池の魚に打ち明けたとしても、答えは返してはくれないだろう。まあ、泰明殿のような陰陽師であるなら、生きるものの全てから話しかけてくれるだろうけどね」


広い庭の池には、桜の花びらが浮かんでいる。

そう、今は桜の咲く季節だ。
藤の花で包まれたこの屋敷の中にも、桜の花がいくつか存在する。

桜が散り始めたころになると、一斉に屋敷中が藤の花に包まれる。
今は、その藤が花咲く前のひとときを、桜が彩りながら舞い散っている。

『考えていること』。あかねが今朝から、ずっと庭先に出て池の鯉を眺めている理由。

特別何があるというわけじゃないけれど、ただ自分の世界が恋しくなったからだ。
本当に元に戻ることが出来るのか。今、自分の世界ではどんなことが起こっているのか。
天真や詩紋のように、気の知れた仲間もいるけれど。
藤姫は龍神の神子である自分に対して、心苦しいほどに世話をしてくれるけれど。
でも、自分はこの世界の人間ではないから。

それは事実だからこそ、ぼんやりと時間を過ごして現世を想い出すことがある。

「ところで神子殿?今日の予定は、もうお決まりかな?」
「は?…まだ藤姫から何も聞いていないんで…」
「なるほど。それじゃ私の方から、藤姫にはお断りを入れておこうか」
「はい?」
友雅の手でひるがえされた、薄い藤色の扇の色は、この屋敷にとても似合っている。

「ちょっと今日は、私につき合ってくれないかな?是非連れていってあげたいところがあってね。だからここにやって参ったということさ。」
「はあ…どうも…」
友雅はいつも、風のように突然やってくる。
理由ははっきりとは告げてくれない。
とは言っても、彼が信用できる人間であることは、あかねをはじめとして、彼女に関係する物達は知っている。
もちろん、若干浮き足だったところがないわけではないが。

「…桜だね。今がいちばん美しい時期だ。神子殿もそう思わないかい?」
池のそばに咲き誇る桜の木を見上げて、友雅は愛おしそうに花びらの一つ一つを見つめた。
あかねもそれに習って、木の枝を見た。
「そうですね。お花見にいい時期ですよね」
「お花見…かい?」
「あ、はぁ。ほら、なんと言いますかー、お弁当持ってみんなでお花を見ながらお食事とかすると、楽しいだろなーってことで」
「なるほど。そういう楽しみ方もあるのだね。私はもっぱら…美酒とともに、この桜が霞むような花に囲まれて…というのがいいね」
……友雅らしい答えが返ってきた。
池の中で、魚がうねって水音を立てる。少し遠くで、獅子脅しの音も聞こえた。

せせらぎのような池の水音。舞い散る桜の花びら。
春が最高潮に達しようとしている。
「うん…そうだね、やはりお誘いするのは夜にしよう」
「え?」
友雅の声に、あかねが顔を上げた。
「このまま私は帰ることにするよ。今日の用事が済んだあと、夕刻になったら、またここにやってくることにしよう。」
「よ、夜ですか!?夜に…出かけちゃったりして良いんですか!?」
「ああ、その方が昼間よりも風情がある」

とは言っても、だ。この京の街には、あちこちに怨霊がうごめいている。そんな中で、しかも夜に出かけたりなどしても、果たして大丈夫なんだろうか?
自分が龍神の神子であることが、怨霊を引き寄せてしまうことだってあるだろう。自覚が完璧でないだけに、その力のコントロールが出来なかったら…京を守るどころか、トラブルメーカーになってしまうだろう。

「心配なようだね?怨霊がはびこっているのに、夜に出かけても平気なんだろうか、って考えているんじゃないのかな?」
「…友雅さんって…どーしてそう、私の考えていることが分かっちゃうんですか!?」
「前にも言ったとおり、人生の長さの経験ゆえの結果さ」
まるで人の心を見透かすように、友雅は相手の考えている事を言い当てる。
いつもどこか一カ所に停滞しているわけじゃないのに、こういうところが彼の不思議な所だ。

「大丈夫、安心しなさい。八葉の一人である私がついているのだからね。だから、今宵は私とともにでかけよう」
「…わかりました…」
友雅がどこに連れて行くつもりなのかは、結局その時は教えて貰えなかった。
夜がやってくるのを待つしかない。

■■■


「よろしいですよ。今宵は星も綺麗です。ゆっくりとお楽しみください。」
「え?いいの?ほんとに?夜に出かけるのに、ホントにいいの?」
心配性の藤姫であるから、友雅と今夜出かけることを告げたとしたら、絶対に反対するだろうと思っていたのに、彼女の答えはあっさりとしていて拍子抜けだった。
「友雅殿がいっしょでおられるのでしょう?ならば特別問題はないでございましょう。友雅殿も、ご自分が神子様をお守り切れないような危険な所に、お連れするなどということはなさらないでしょうから」
「まあ…そうなんだろうけどー。」
とりあえず、藤姫がそう言うのであれば、出かけてもかまわないだろう。


彼が迎えに来る時刻まで、あと数分。
「やあ、神子殿。私との約束は、忘れてなかったようで安心したよ。」
「そんなことしませんよー」
「ああ、分かってる。そんなことをするような人じゃない。誠実さがそのまま命を持って生まれたような、そんな人だからね、君は」
そう言いながら、微笑む友雅の背中越しには、満月が輝いている。
「今夜は満月…ですか?」
「そう。出かけるには最高だね」
そういうと、友雅は馬の鞍に乗せた絹の薄布を手に取って、あかねの背中を包むように覆い被せた。
「春の最中とはいえ、夜は体を冷えさせるからね。それを使いなさい」
友雅はあかねの手を取って、用意させてあった馬へと引き寄せた。

■■■


夜の闇に包まれた街を、どう歩いてきたのか分からない。たどり着いた、そこは…どこか分からない。
しかし、目の前にそびえたつ、大きな桜の木にあかねは声を失った。

「見事だろう?京の中でも、この桜は一番美しいと称されている。今が一番見頃の時だ」
空は暗黒。黄金色の満月が天を照らす。月の明かりに照らされた、満開のしだれ桜。
その姿は、幻想的だった。見たこともない、圧倒される美しさ。

「どうだい?夜の方が良かっただろう?」
友雅があかねの方を振り返る。
「すご…。こんな桜、見たことない…」
わずかに舞い散る、小さな花のかけら。寺院の朱色の梁が、蝋燭の炎と月の光に溶け込む。
「来て良かっただろう?これで、元の世界を恋しがる切ない思いは、少しは和らいだかな」
桜の花びらを手ですくって、友雅が微笑む。

「…気づいてたんですか?もしかして…」
「姫君の心を読むのは、私は得意なようなんでね。まあ、今朝神子殿のところへ出かけたのは、桜を見に連れていって差し上げようと思っていたのだけれど。だが、池の中を見てぼんやりしている神子殿を見ていたらね、水面の先にあるあなたの世界の姿を思い浮かべて、懐かしがっているように見えたものだから」
「…友雅さんには隠し事なんて、出来ないんだなぁ…」
あかねは苦笑して、薄布をはおりなおした。

「なんだか、本当に元の世界に帰ることが出来るのかなーって、ちょっと不安になっちゃってたんです。帰れなくなったら、どうしようって…」
「それは、全ての問題が片づけば、自然にそのときがやってくるさ」
「そうなんですけどねー…」
桜の木の下にある、大きな岩の上にあかねは腰を下ろす。肩にピンク色の桜が舞い落ちた。

「でも、頑張れば大丈夫ですよね、きっと」
「ま、なるようにしかならないだろうけどね」
そう言って、友雅は桜の木の下から離れた。そして寺院の入り口に残してきた馬のところに行き、何かを持ってあかねのところへ戻ってきた。
「さぁ、神子殿の心も少しは落ち着いたということで、この美しい夜を堪能しないのは損をするからね。美しく咲き誇って私たちの目を楽しませてくれる桜と、その花にも負けない神子殿のために、一曲奏でることとしようか」
友雅の手には、彼の愛用する琵琶が抱えられていた。
「あまり人前で自分から奏でることはないのだけれどね。今夜は特別だからね」
指先が弦をつまびく。闇の中に響く琵琶の音に合わせて、桜の花が舞い踊る。優しい明かりと音が、あかねの全身に浸透して行く。
このまま聞いていたい音、ずっと見ていたい桜の花びら。
あかねは舞い落ちる花びらを、数枚手の中に納めた。

■■■


「あんな綺麗な桜、生まれて初めてですよ。夜桜も見たの、はじめてかなあ…」
「それは良い経験をしたね。太陽の明かりで全身を照らす桜も美しいが、月夜の桜も妖艶で美しさがまた違うものだよ」
「そうですねー。なんだか不思議な感じでした。すっごいパワーが出ている感じ」
「…パワー?」
あかねの現代語に、友雅は少し首を傾げた。
「あ、うーん…と…神聖な力っていうか、精神力っていうか、そういうものですよ。そういうのが出ている感じで。なんか元気が出ちゃったっていうか、そんな感じです」
あかねは慌てて、言葉をかみくだいた。
「なるほど。そうかもしれない。元気が出たということは、現世への物思いも和らいだということだね。」

そう言いながら、友雅が声を立てて笑って言う。
「このまま、神子殿が京に残るつもりにさせるまでは、あと何回桜を見に連れていけばいいかな。」
「ええ〜!?」
少し取り乱して友雅を見る。
「どうだい?いっそこの世界に残って、私と来年も桜を見に出かけたりしないかい?」
「ちょ、ちょっと友雅さーん…☆」
屋敷に到着して、先に馬から下りた友雅が、あかねの体を抱いて地に下ろした。

■■■


「さてと、別れる前にさっきの答え、聞かせて欲しいな、神子殿」
「は、はあ?」
「この世界に残って、私と毎年桜を愛でていかないか?ってことだよ」
「ええ〜っ?そ、そんなこと言われても〜っ☆☆☆」

ここで答えを出さなければいけないのか?しかし、友雅がそんなことをいきなり…。だけど現世が自分には大切で、でも京も大切で、友雅のことも少なからず好きではあるし…とは言っても、そう簡単に答える問題なんかじゃない!
頭の中が大混乱中のあかねをしばらく観察して、友雅は笑いながら口を開く。

「冗談だよ。混乱を落ち着かせて、今夜はもう休みなさい。桜の夢でも見て、明日、また会えるのを楽しみにしているよ」
あかねの体を包んだ薄布に、軽く口付を残したままで、友雅は去っていった。
冗談だったのか、本気だったのか。
その本心は…友雅の中に隠されている。

そして、本当の彼の想いを知っているのは、彼の琵琶と、その音に舞い踊る桜かもしれない。
ふわりと、風の中を舞いながら、この桜を彼女の記憶の中から永遠に消えないように。

自分の存在が、彼女の中から消えないように。
柄にもない、そんなことを思ってみたり。

屋敷へ向かう夜道の途中、友雅は少しだけ自分の心に向けて苦笑した。






-----THE END-----



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